こんにちは。
何か、アスペの主張、定型の主張と、真っ向から対立している様を見て、ちょっと意見したくなりました。
定型独特の感覚と、ASD独特の感覚に、大きなズレがあるのは確かですし、それが行き過ぎてしまうと、憎しみ合うくらいの確執ができることは、カサンドラの問題が表面に出てきた頃からはっきりと分かってきました。
けれど、自分がADHDという特性を持っていて、場合によってはASDの感覚に近いと感じることもあるので、果たしてこれは定型、ASDと分けて解決するべきものなのか?
という疑問がずっとありました。
定型側からアスペの行動が理解できないと割り切ってしまうとき、自分の中のASD的行動を隠して見ているときがあります。
カサンドラの苦しみばかりを訴えると、何か自分自身を否定しているような辛い感覚もあります。
ASDは、自閉症スペクトラムという連続体で、その特性の強さ、それもどの部分でそこが強く現れてくるのか、全く個人で違うのだと思います。
だからこそ、ここに来られる自称アスペとおっしゃる方も、どちらに判断していいのか、その時々で迷われているのだと思います。
そこで、自分の感覚と対極になる感覚を知る、今現在そういう画期的なことができる唯一の場が、パンダさんのブログやこの掲示板なのだと思っています。
つまり、どの感覚が対極になるのかは、人それぞれで、そこはアスペ対定型と、決して割り切れないところなのだと思います。
私が、全面的に定型の立場で話をすれば、私の中のアスペの部分を否定し、隠して話すことになります。
それは、自己分裂になります。
私が知りたいのは、ある場面を切り取って考えたとき、自分はこうするけど?と投げかけたとき、嫌、そうではないよと解説されれば、ああ、この部分では定型に近い感覚で生きているから、アスペの感覚を意識して接しなくてはいけないんだなと気づくことなんです。
定型族、アスペ族と、分断させて攻撃することは不毛どころか、自分否定にも繋がります。(少なくとも私はそうです)
いくら定型が人の気持ちを読むのに優れているといっても、それはほとんどが本人の勘であり、それが的を得ていることが多いというだけのこと。
霊能者でもなければ、相手の本心など見抜くことはできません。
そういう妄想に囚われすぎると、おかしな全人思想に陥る場合もあるのです。
それを考えれば、アスペの特性が、自分自身を信じる傾向にあることは、強さでもあるのです。
果たして自分はどの位置にいるのか。発達障害か定型の二極ではなく、精神的な強さとか、思考力とか、性別とか、生活状況とか、あらゆることにおいて、自分はどの位置にいるのか、見極めていくことで、自分の怒りがどこから発生しているのか、知ることができるし、先ずは対立しない考え方を持つことがたいせつではないかと思います。
アスペと定型に境界はあるのか?
- あすなろ
- 2015/04/20 (Mon) 09:37:18
Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- あすなろ
- 2015/04/20 (Mon) 12:04:01
>popolonさん
一言だけ、お知らせしておきます。
私に対して、『お前は社会不適格者だ! お前ひとりで世の中をわたっていけるわけがない!』と言い切った夫は、アスペでしたし、
私のやり方が全て気に入らないと仕事を干した上司もアスペの傾向がありました。
「こんな使えねーヤツ、初めて見たよ」と罵ったバイト先の上司の鞄から、大量の精神安定剤が覗いていたことを知っています。
その事実だけをお伝えしたかったのです。
削除されたのに追いかけるようで、失礼しました!
一言だけ、お知らせしておきます。
私に対して、『お前は社会不適格者だ! お前ひとりで世の中をわたっていけるわけがない!』と言い切った夫は、アスペでしたし、
私のやり方が全て気に入らないと仕事を干した上司もアスペの傾向がありました。
「こんな使えねーヤツ、初めて見たよ」と罵ったバイト先の上司の鞄から、大量の精神安定剤が覗いていたことを知っています。
その事実だけをお伝えしたかったのです。
削除されたのに追いかけるようで、失礼しました!
Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- パンダ
- 2015/04/20 (Mon) 18:46:30
アスペ定型の境界についてのあすなろさんの指摘は
私が考えようとして来たことにドンピシャで、
その視点が共有できることに嬉しさやありがたさを感じました。
そのポイントを大事にすることで、膠着した定型アスペ関係にも
新しい可能性がみえてくるにちがいないと
そんなことを勝手に妄想しています (笑)
ぜひまたこの続編もお聞かせくださいm(._.)m
私が考えようとして来たことにドンピシャで、
その視点が共有できることに嬉しさやありがたさを感じました。
そのポイントを大事にすることで、膠着した定型アスペ関係にも
新しい可能性がみえてくるにちがいないと
そんなことを勝手に妄想しています (笑)
ぜひまたこの続編もお聞かせくださいm(._.)m
Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- あすなろ
- 2015/04/20 (Mon) 20:42:36
パンダさん
そう言っていただけて、良かったです。
相手を理解することは、自分を知ることでもありますよね。
私はこのサイトでかなり自分の核心に近づいてきたような気がします。自分のことについて、見るのも考えるのも嫌だったものが、逆に楽しい発見に思えてきました。
感謝しています。
そう言っていただけて、良かったです。
相手を理解することは、自分を知ることでもありますよね。
私はこのサイトでかなり自分の核心に近づいてきたような気がします。自分のことについて、見るのも考えるのも嫌だったものが、逆に楽しい発見に思えてきました。
感謝しています。
Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- あすなろ
- 2015/04/23 (Thu) 08:40:36
度々すみません。
ここや本ブログを読むたびに、色々と発見することや、逆にモヤモヤすることがあり、思いついた時に書き留めておいて、分析したいので。しつこく、また考えさせていただきます。
本ブログの内容を引用させていただくのは、混乱の元かもしれませんが。本ブログのかずきさんのコメントに、また違った見方もあるのでは?と感じたので。
かずきさんは、基本的にアスペ定型は区別されるべきものと考えられていて、こんな例を挙げていらっしゃいました。
>乱暴な例えですが、手首から先が無い方と、肩から先が無い方への支援の仕方は別、というのと同じだと思っています。
なので、一概に連続体だ!とは考えられない私です。
何故、支援が必要なのか、何故、理解が必要なのか、そう考えれば定型とアスペの境界が曖昧ではいけないですし、自分を理解する面でも混乱の元になりますね。
また私の例で申し訳ないですが、私は幼い頃から、自分がきょうだいや友人たちと何かが違うと思っていました。母に「私っておかしいんじゃないの?」と質問すると「本当におかしいひとは、自分でおかしいとは言わないよ」という答えが返ってきます。それでも母の対応は明らかに差別的でしたし、学校でいじめられることもあり、やっぱり何かがおかしいと思う気持ちは強くなるばかりでした。
どんなに年を経ても、何かが違って、周囲に敬遠されているという感覚は変わりませんでした。
数年前に『片付けられない女』という本が出て、ADHDが世に広まったときも、確かに似たところがあるけどここまでじゃないなと自覚しませんでした。
けれど最近になって、ADHDの方が、本当に日常の些細なつまずきを公表することが増えて、あれも、これも、同じ!ということばかりで、やっと自覚したという経緯です。
そこで、定型にも、似たところはあるんだよ、みんな同じだよ、と言われてしまうと、元も子もない気がします。
私はADHDを自覚して定型と線引きをすることで、やっと原因を見つけて方法を立てられるようになったのですから。
私が、ASDの方にも、定型の方にも、どちらにも理解できる部分があるというのは、感覚的には定型であって、しかし、発達障がいというわかりにくい障がいによって、周囲の定型からずっと白い目で見られてきたというトラウマはASDと似ているのでしょう。
しかし、そこは複雑で、白い目で見てきた相手というのが、必ずしも定型とは限らないのです。
私が認識した限りでは、二人は確実にASDの傾向がありますし、ひとりは何かしらの精神疾患を抱えているようでした。行動から考えるとADHDの傾向が強かったかな?と思われます。
定型優位の社会というのは、ある意味、理想、幻想が先走ったもので、それに必死に食らいつこうとしている発達障がい者や、その他の軽度障がいを抱えた人もいて、それら余裕のない人が、自分より弱く見える存在を叩くという現実があるように思います。
私は定型にいじめられた、定型は理解がない。
というとき、果たしてその定型は、定型だったのでしょうか?
私が思うに、もしも完全な定型という人がいるとしたら、その人は相手の状況を見抜く力に優れていて、相手が何に困っているのか、苦しんでいるのか、観察する余裕と力量があり、それをフォローできる力もある人のことでしょう。
一見、定型にみえる、あるいは自分は定型だと思い込んでいる発達障がい者が、定型の力量を備えていると思いたいけれど、実は自分に余裕がないので、相手の弱さが癇に障り攻撃してしまう。
そんな悪循環も起こっているんじゃないかと感じます。
これまで自分を辛い目に合わせた人は、その人の力量がそうさせただけであり、定型が自分たちのテリトリーを守りたくてそうしたわけではないと、私は思っています。
そして、頻繁にそういう経験が起こるということは、世の中に、自分も含め、いかに余裕のない人が増えているかという証明なのではないかと思います。
ここや本ブログを読むたびに、色々と発見することや、逆にモヤモヤすることがあり、思いついた時に書き留めておいて、分析したいので。しつこく、また考えさせていただきます。
本ブログの内容を引用させていただくのは、混乱の元かもしれませんが。本ブログのかずきさんのコメントに、また違った見方もあるのでは?と感じたので。
かずきさんは、基本的にアスペ定型は区別されるべきものと考えられていて、こんな例を挙げていらっしゃいました。
>乱暴な例えですが、手首から先が無い方と、肩から先が無い方への支援の仕方は別、というのと同じだと思っています。
なので、一概に連続体だ!とは考えられない私です。
何故、支援が必要なのか、何故、理解が必要なのか、そう考えれば定型とアスペの境界が曖昧ではいけないですし、自分を理解する面でも混乱の元になりますね。
また私の例で申し訳ないですが、私は幼い頃から、自分がきょうだいや友人たちと何かが違うと思っていました。母に「私っておかしいんじゃないの?」と質問すると「本当におかしいひとは、自分でおかしいとは言わないよ」という答えが返ってきます。それでも母の対応は明らかに差別的でしたし、学校でいじめられることもあり、やっぱり何かがおかしいと思う気持ちは強くなるばかりでした。
どんなに年を経ても、何かが違って、周囲に敬遠されているという感覚は変わりませんでした。
数年前に『片付けられない女』という本が出て、ADHDが世に広まったときも、確かに似たところがあるけどここまでじゃないなと自覚しませんでした。
けれど最近になって、ADHDの方が、本当に日常の些細なつまずきを公表することが増えて、あれも、これも、同じ!ということばかりで、やっと自覚したという経緯です。
そこで、定型にも、似たところはあるんだよ、みんな同じだよ、と言われてしまうと、元も子もない気がします。
私はADHDを自覚して定型と線引きをすることで、やっと原因を見つけて方法を立てられるようになったのですから。
私が、ASDの方にも、定型の方にも、どちらにも理解できる部分があるというのは、感覚的には定型であって、しかし、発達障がいというわかりにくい障がいによって、周囲の定型からずっと白い目で見られてきたというトラウマはASDと似ているのでしょう。
しかし、そこは複雑で、白い目で見てきた相手というのが、必ずしも定型とは限らないのです。
私が認識した限りでは、二人は確実にASDの傾向がありますし、ひとりは何かしらの精神疾患を抱えているようでした。行動から考えるとADHDの傾向が強かったかな?と思われます。
定型優位の社会というのは、ある意味、理想、幻想が先走ったもので、それに必死に食らいつこうとしている発達障がい者や、その他の軽度障がいを抱えた人もいて、それら余裕のない人が、自分より弱く見える存在を叩くという現実があるように思います。
私は定型にいじめられた、定型は理解がない。
というとき、果たしてその定型は、定型だったのでしょうか?
私が思うに、もしも完全な定型という人がいるとしたら、その人は相手の状況を見抜く力に優れていて、相手が何に困っているのか、苦しんでいるのか、観察する余裕と力量があり、それをフォローできる力もある人のことでしょう。
一見、定型にみえる、あるいは自分は定型だと思い込んでいる発達障がい者が、定型の力量を備えていると思いたいけれど、実は自分に余裕がないので、相手の弱さが癇に障り攻撃してしまう。
そんな悪循環も起こっているんじゃないかと感じます。
これまで自分を辛い目に合わせた人は、その人の力量がそうさせただけであり、定型が自分たちのテリトリーを守りたくてそうしたわけではないと、私は思っています。
そして、頻繁にそういう経験が起こるということは、世の中に、自分も含め、いかに余裕のない人が増えているかという証明なのではないかと思います。
Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- かずき
- 2015/04/23 (Thu) 09:48:13
あすなろさん
反応ありがとうございます。
線引きすべき、とまで強い信念ではないので、ゆるく、そうであって欲しいな、と思っているだけなのですが。
線引きで助けられた人間だから、かもしれません。
>私はADHDを自覚して定型と線引きをすることで、やっと原因を見つけて方法を立てられるようになったのですから。
私はアスペだと診断されて、それまでの疑心暗鬼から開放されて
時間はかかりましたけど診断を受け入れることが出来て
やっと、生きにくさを「感じていいんだ」という所から始まる、自己肯定といいますか
救われた部類の人間なので、曖昧だった事がひとつの苦痛でもありました。
「ここが定型とは違うんだ」「こうすれば定型風になるんだ」と
一つ一つ知っていく事が、前向きに生きていけることだと「今は」思っています。
>定型優位の社会というのは、ある意味、理想、幻想が先走ったもので、それに必死に食らいつこうとしている発達障がい者や、その他の軽度障がいを抱えた人もいて、それら余裕のない人が、自分より弱く見える存在を叩くという現実があるように思います。
ここが一つ重要な気がします。
仰るように、加害者被害者と分けるのであれば、
必ずしもそれが定型であったり、発達障害者であったりという事は無いと私も思います。
そして、私もあまりにも「The定型」の為の社会になりすぎ、
個性と特性を尊重する教育を受けてきた人が増え、
それでも社会で生きていく為に、「The定型」を演じなければならない人も増えているように感じます。
しかし、社会全体がそういったお手本のような定型から外れる事を受け入れるには、
線引きし、名前をつける事が必要になってくるのでは、と考えています。
反応ありがとうございます。
線引きすべき、とまで強い信念ではないので、ゆるく、そうであって欲しいな、と思っているだけなのですが。
線引きで助けられた人間だから、かもしれません。
>私はADHDを自覚して定型と線引きをすることで、やっと原因を見つけて方法を立てられるようになったのですから。
私はアスペだと診断されて、それまでの疑心暗鬼から開放されて
時間はかかりましたけど診断を受け入れることが出来て
やっと、生きにくさを「感じていいんだ」という所から始まる、自己肯定といいますか
救われた部類の人間なので、曖昧だった事がひとつの苦痛でもありました。
「ここが定型とは違うんだ」「こうすれば定型風になるんだ」と
一つ一つ知っていく事が、前向きに生きていけることだと「今は」思っています。
>定型優位の社会というのは、ある意味、理想、幻想が先走ったもので、それに必死に食らいつこうとしている発達障がい者や、その他の軽度障がいを抱えた人もいて、それら余裕のない人が、自分より弱く見える存在を叩くという現実があるように思います。
ここが一つ重要な気がします。
仰るように、加害者被害者と分けるのであれば、
必ずしもそれが定型であったり、発達障害者であったりという事は無いと私も思います。
そして、私もあまりにも「The定型」の為の社会になりすぎ、
個性と特性を尊重する教育を受けてきた人が増え、
それでも社会で生きていく為に、「The定型」を演じなければならない人も増えているように感じます。
しかし、社会全体がそういったお手本のような定型から外れる事を受け入れるには、
線引きし、名前をつける事が必要になってくるのでは、と考えています。
Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- popolon
- 2015/04/23 (Thu) 11:02:18
相手とリズム感を持って話せる人。チームプレイで話せる人が基準です。
確かに無理してる人がより弱い者をいじめるとか生活に満たされてない者が相手をいじめるとかはあるでしょう。
しかしチームプレイを乱してしまう人はいじめられてしまいますよ。リズム感を乱す話し方をする人はいらいらするでしょう。
誰だって個性はありますが、その個性がかけ離れたものであれば周りをひどく疲れさせます。
例外として相手を笑わせるくらいの天然さんや間が抜けている場合は周りをいやす力はあります。
周りのペースを乱す上に全く面白くもないと周りから総攻撃をくらいます。
定型やアスペと分けて考えられませんけどやはり求められる基準はあります。
確かに無理してる人がより弱い者をいじめるとか生活に満たされてない者が相手をいじめるとかはあるでしょう。
しかしチームプレイを乱してしまう人はいじめられてしまいますよ。リズム感を乱す話し方をする人はいらいらするでしょう。
誰だって個性はありますが、その個性がかけ離れたものであれば周りをひどく疲れさせます。
例外として相手を笑わせるくらいの天然さんや間が抜けている場合は周りをいやす力はあります。
周りのペースを乱す上に全く面白くもないと周りから総攻撃をくらいます。
定型やアスペと分けて考えられませんけどやはり求められる基準はあります。
Re: Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- popolon
- 2015/04/23 (Thu) 11:04:50
アスペと定型というよりはチームプレイを取れる能力があるかないかの基準が境界です。
Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- あすなろ
- 2015/04/23 (Thu) 20:51:31
>かずきさん
パンダさんではないので、引用したことでお礼を言われるより、むしろ、勝手に引用させていただいて失礼しました!
けれど、かずきさんの言おうとされていたことに近かったようで、ほっとしました。
>「ここが定型とは違うんだ」「こうすれば定型風になるんだ」と
一つ一つ知っていく事が、前向きに生きていけることだと「今は」思っています。
私も、まさにそう思います。
ADHDという定義は知っていても、他人事とおもっていたときは、うまくいかない原因がつかめなくて苦しかったけど、自覚したらすっきりしましたね。
それに、同じことで悩みながら試行錯誤している『仲間』が見つかった(と言っても、直接やり取りしているわけではないですが)ことで、心強くなりましたね。
>The定型
そうです。なんだか、必死で幻想を追い求めて、学校でも家庭でも、その高い理想に向かってまっしぐら。
子どもの周囲を見て、その幻想を表面的に実現している子たち(勉強もスポーツも芸術もトップクラス)がたくさんいるんですよ。気味が悪いくらいに。
そして、(無理して?)そこまで獲得した子の中には、陰湿なものを持っていて、弱者を蔭でいじめているケースも実際あるんです。
個性が認められていた時代は(といっても、本当に個性が認められていたのは、江戸時代くらいに遡るのかな?)ここまで発達障害がクローズアップされる必要もなかったのでしょうし、無理をする当事者も少なかったので、あまり表立って問題にならなかったのではないかと思いますね。
>popolonさん
たしかに、何か分からないが、いつの間にか集団ができ、人が集えば誰ともなく暗黙のルールが出来上がり、気づけばそこから外れている。新学期はそんなことの繰り返しで辛い思いをしましたね。
ただ、長年そういう恐怖に晒されてきたので、自分から距離を置くという防御策を取るようになり、余計に集団から距離を置くようになりました。
卵が先か、鶏が先か。
距離が出来ると、集団が余計に気になり、彼らが全て、集団に入れない自分を嘲笑っているような疑心暗鬼に駆られます。
さらに、直接非難を受けたりすれば、誰もが非難している気になります。
すると、自分も疑い深く、険しい顔つきになり、言動にも棘が出るようになります。
すると、実際に周りは避けるようになっていきます。
きっかけはあるのかもしれませんが、それを負のサイクルに持っていかないようにする。あるいは負のサイクルを断ち切るきっかけは自分で掴むしかない。
がむしゃらに努力するよりも、疲れ切った自分を労わることが、一番の近道だったんだなと、本当に人生も半ばを過ぎて、私はやっと気付きましたね。
パンダさんではないので、引用したことでお礼を言われるより、むしろ、勝手に引用させていただいて失礼しました!
けれど、かずきさんの言おうとされていたことに近かったようで、ほっとしました。
>「ここが定型とは違うんだ」「こうすれば定型風になるんだ」と
一つ一つ知っていく事が、前向きに生きていけることだと「今は」思っています。
私も、まさにそう思います。
ADHDという定義は知っていても、他人事とおもっていたときは、うまくいかない原因がつかめなくて苦しかったけど、自覚したらすっきりしましたね。
それに、同じことで悩みながら試行錯誤している『仲間』が見つかった(と言っても、直接やり取りしているわけではないですが)ことで、心強くなりましたね。
>The定型
そうです。なんだか、必死で幻想を追い求めて、学校でも家庭でも、その高い理想に向かってまっしぐら。
子どもの周囲を見て、その幻想を表面的に実現している子たち(勉強もスポーツも芸術もトップクラス)がたくさんいるんですよ。気味が悪いくらいに。
そして、(無理して?)そこまで獲得した子の中には、陰湿なものを持っていて、弱者を蔭でいじめているケースも実際あるんです。
個性が認められていた時代は(といっても、本当に個性が認められていたのは、江戸時代くらいに遡るのかな?)ここまで発達障害がクローズアップされる必要もなかったのでしょうし、無理をする当事者も少なかったので、あまり表立って問題にならなかったのではないかと思いますね。
>popolonさん
たしかに、何か分からないが、いつの間にか集団ができ、人が集えば誰ともなく暗黙のルールが出来上がり、気づけばそこから外れている。新学期はそんなことの繰り返しで辛い思いをしましたね。
ただ、長年そういう恐怖に晒されてきたので、自分から距離を置くという防御策を取るようになり、余計に集団から距離を置くようになりました。
卵が先か、鶏が先か。
距離が出来ると、集団が余計に気になり、彼らが全て、集団に入れない自分を嘲笑っているような疑心暗鬼に駆られます。
さらに、直接非難を受けたりすれば、誰もが非難している気になります。
すると、自分も疑い深く、険しい顔つきになり、言動にも棘が出るようになります。
すると、実際に周りは避けるようになっていきます。
きっかけはあるのかもしれませんが、それを負のサイクルに持っていかないようにする。あるいは負のサイクルを断ち切るきっかけは自分で掴むしかない。
がむしゃらに努力するよりも、疲れ切った自分を労わることが、一番の近道だったんだなと、本当に人生も半ばを過ぎて、私はやっと気付きましたね。
Re: Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- にわとり
- 2015/04/23 (Thu) 22:04:24
私が出しゃばるべきではないかもしれませんが。
>個性が認められていた時代は(といっても、本当に個性が認められていたのは、 江戸時代くらいに遡るのかな?)
ある精神分析最後では「不適応者や精神病者が出るのではなく、社会が不適応者や精神病者を作り出してる」と書いてました。
となると、前述であすなろさん達が仰ったように、社会の一方的な都合で発達障害という枠を作ったのかも。
江戸時代は単純作業ばかりでしたし、文字の読み書きができないのは当たり前でしたから軽度知的障害者でもまだ適応しやすかった話を聞いたことがあります。
家事や多人数でやっていたようですからフォローもあったようです。
子育ては皆で見ていたり、大人や兄弟につきっきりだったり、子供主体で伸び伸び育てていたようですから、変わり者がいてもフォローするだけの精神的な余裕はまだあったのかもしれません(勝手な推測なので断定できませんが)。
江戸時代も飢饉などもあったでしょうから安定している時期限定かもしれませんが。
明治時代になると、開国され、西洋文化が入ってきたり(伝統的な日本の子育てやコミュニティーが壊れた)、富国強兵政策で成果主義と協調性を徹底する教育に変わりましたから、全ての障害者や遺伝病、異民族などは協調性を妨げたり、国のお荷物だと言われ、非国民扱いになった話はありますね。
その分、同民族の健常者同士は一つになりますから結束はますます強くなり、生産性は上がるようですが。
そういった話を聞くと、障害者と定型者の枠組みははじめから存在していたのではなく、国や社会の背景で障害者が作られてるように思います。
本当ならスレをたてて、江戸時代の教育や家族制度はどんなものだったのか(発達障害はどういう立ち位置にいたのか?子育てはどうだったのか?などを)資料をもとに皆で話し合いたかったのですが。
(追記)
https://www.agentmail.jp/archive/mail/185/560/19951/
発達障害は作り出された部分もあるように感じます。
>個性が認められていた時代は(といっても、本当に個性が認められていたのは、 江戸時代くらいに遡るのかな?)
ある精神分析最後では「不適応者や精神病者が出るのではなく、社会が不適応者や精神病者を作り出してる」と書いてました。
となると、前述であすなろさん達が仰ったように、社会の一方的な都合で発達障害という枠を作ったのかも。
江戸時代は単純作業ばかりでしたし、文字の読み書きができないのは当たり前でしたから軽度知的障害者でもまだ適応しやすかった話を聞いたことがあります。
家事や多人数でやっていたようですからフォローもあったようです。
子育ては皆で見ていたり、大人や兄弟につきっきりだったり、子供主体で伸び伸び育てていたようですから、変わり者がいてもフォローするだけの精神的な余裕はまだあったのかもしれません(勝手な推測なので断定できませんが)。
江戸時代も飢饉などもあったでしょうから安定している時期限定かもしれませんが。
明治時代になると、開国され、西洋文化が入ってきたり(伝統的な日本の子育てやコミュニティーが壊れた)、富国強兵政策で成果主義と協調性を徹底する教育に変わりましたから、全ての障害者や遺伝病、異民族などは協調性を妨げたり、国のお荷物だと言われ、非国民扱いになった話はありますね。
その分、同民族の健常者同士は一つになりますから結束はますます強くなり、生産性は上がるようですが。
そういった話を聞くと、障害者と定型者の枠組みははじめから存在していたのではなく、国や社会の背景で障害者が作られてるように思います。
本当ならスレをたてて、江戸時代の教育や家族制度はどんなものだったのか(発達障害はどういう立ち位置にいたのか?子育てはどうだったのか?などを)資料をもとに皆で話し合いたかったのですが。
(追記)
https://www.agentmail.jp/archive/mail/185/560/19951/
発達障害は作り出された部分もあるように感じます。
Re: アスペと定型に境界はあるのか?
- あすなろ
- 2015/04/24 (Fri) 08:49:51
>にわとりさん
確か、にわとりさんが提示されていた資料にも書かれていましたよね。江戸時代と言ったのは、その資料の印象も強かったからかも。
最近話題になった『江戸しぐさ』の本。
さりげなく相手を気遣う所作を紹介しているんですが、実は明治以降に作られたものだとして、問題になっていました。
自分のことより相手のこと、相手のことより社会のこと、という意識を持たせて、国の団結を強めようとした意図が隠れていたようです。
江戸時代にはそんな慣習はなかったそうですよ。
確か、にわとりさんが提示されていた資料にも書かれていましたよね。江戸時代と言ったのは、その資料の印象も強かったからかも。
最近話題になった『江戸しぐさ』の本。
さりげなく相手を気遣う所作を紹介しているんですが、実は明治以降に作られたものだとして、問題になっていました。
自分のことより相手のこと、相手のことより社会のこと、という意識を持たせて、国の団結を強めようとした意図が隠れていたようです。
江戸時代にはそんな慣習はなかったそうですよ。