カサンドラ症候群とは?
  • あすなろ
  • 2015/05/04 (Mon) 02:34:36
さっき一眠りしてしまって、こんな時間に変に冴えている頭で、ちょっと考えついたことがあります。

こちらの題名を否定するわけではなく、むしろアスペ定型の違いから考えなければ始まらなかったことでしょうが。

そもそも、カサンドラ状態の定義に、アスペ→定型、夫→妻、加害者→被害者のような図式が出来上がっていること自体、問題じゃないかな?と思います。

こちらで、ご自身もASDを自覚しているけど、ASDの親御さんに苦しめられたという方もいますし、私自身もADHDなのに、ASDの夫に困り感を抱いていて。
そうすると、ASDの方が定型によってカサンドラに陥っている場合もあるわけですよね。なかなか認知されにくいでしょうが。

それを突き詰めると、私が夫によってカサンドラに陥ったと思っていても、その前に、夫が私によって、カサンドラ状態になっていたとも捉えられるわけで。
まあ、ADHDの行動を寛容に捉えるのは難しいだろうし、イライラするのは当たり前だよなーとも思うのです。
それがなんとなく分かっていたので、自分はカサンドラ症候群だとは言い切れなかったのだと思いますが。

そんなとき、こんな記事を見つけました。


http://asdweb.net/depression-cassandra

なるほど、こういう定義なら納得がいきますし、対策も見えてくる気がします。

このブログ主さんによると、カサンドラになる直接的な心理状況は、

─── 人に話すと、大した問題のある環境ではないのに、そこにいる時にじわりじわりと辛さを感じる。でも、それを人に相談するには、それを話題にできるほど、自分でもなぜなのか解らない。

それによって、誰にも辛さを打ち明けられず抑うつ状態に陥っていく=カサンドラ症候群

という定義になります。

抑うつ状態というのを、分かりやすく説明されていますが、人間の心というのは、小康状態からいつ重篤な状態になるか分からない怖さがあります。

恥ずかしながら、重度の鬱を経験した私は、その怖さを身をもって知っています。
酷いときには、

隣で誰かが物を落とした=私が全て悪い

となります。
正常な思考なら、隣で物を落とした人に原因があって、自分に非はない。物を落としたのも、落とした人の失敗だけでなく、たまたま滑りやすい物だったのかもしれない。
などと、自分とは関係のない、特に責任を問う必要のないことだとわかるはずです。

鬱になってしまうと、その思考を変えるには医療的な措置なしでは難しいですが、小康状態のときなら、その思考の変換をするだけで楽になれるのだと思います。

カサンドラがアスペ定型に限ったものではないけれど、思考パターンの違いから生じやすいことと、どちらにも責任はないが、理解と工夫が必要だと知ることが、一番必要とされることじゃないかなと思います。
Re: カサンドラ症候群とは?
  • ココチ
  • MAIL
  • 2015/05/05 (Tue) 16:04:30
あすなろさん

そう、そう、と。 まさにその通りだと思います。
書いてらっしゃること、 「カサンドラ症候群の納得できる定義と方策」とまとめられるんじゃないかと思いました。

そもそも、ASDとは?
  • あすなろ
  • 2015/05/09 (Sat) 02:11:26

>ココチさん
同意してくださって、嬉しいです。突拍子もない発想かな?とも思いましたが、他の方が同感だと言ってくださると、この説もまんざらじゃないのかなと思えて心強いです。
ありがとうございます。


さて、元のスレと題が違いますが、別にスレを立ててしまうとこの掲示板を散らかしてしまうので、思いついたことをこのスレにまとめていこうかなと思います。

本ブログの方のコメントで、Keiさんを中心に面白い議論がされていたので、そこから私なりに気付いたことを書いてみます。
KeiやKatzさんの間では、もっと違った観点で議論が進んでいるので、そこも面白いと思います。

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1435286/1449293/99259450

長くなってしまうので、この議論の詳細は省きますが、その中で、Keiさんが、アスペを二つのタイプに分けられいていて、アスペAは、定型社会によって二次障害を負わされ、そこからなかなか抜け出せないタイプ、
アスペBは、定型社会に不合理を感じながらも、自分のやり方を貫いていくタイプ
とされていました。

それを見て、私が自分を振り返って、幼い頃にここでASDの方が話される独特の感覚があったのですが、定型の家族や周囲によって、「それはおかしい、おかしい」と言われ続けているつちに、自分の感覚を全て否定して、ともかく周囲の人間の真似をしようとしてきたために、今はどちらかというと定型の感覚に近くなったのかな?と気づき、アスペAの中の『クローン進化型』というのも、ありなんじゃないかと思ったのです。

思い返してみれば、パンダさんが読まれているドナ・ウィリアムズさんのように、幼い頃は自分の中に善悪を判断する二人の人間が住んでいたりしたこともありまして。
学校で習うことや、世間で常識とされることに自分なりの解釈ができないと、いつまでもそこにこだわって覚えたり次の行動に進んだりできませんでした。

そこで周囲からは、要領を得ない、理屈っぽい、トロい、などと評価されるようになり、大人たちから「余計なことを考えずに真似ていればいいんだ!」と叩き込まれてきました。
納得できないで動きが止まってしまうと、その作業全てを取り上げられて大人たちが仕上げ、私のものとして提出するように言われました。
幼い頃、それがすごく屈辱だったのは覚えているのですが、思春期辺りから、そういう感覚は薄れ、代わりに記憶が曖昧で、私がぼんやりしていても必ず誰かがやってくれるという、妙な『確信』があったことだけは覚えています。

今はADHDがあることは自覚していますが、振り返ればASDの傾向もたくさんあったのでは?と思うようになりました。
そして、大きくなるにつれて、独特の感覚が無くなっていった気もします。つまり、定型の『猿真似』をすることで、定型の感覚が身に付いていったわけですね。

けれど、根本的に定型的感覚がないので、ぎこちない。
目立たなくはなっても、うまく定型の流れに沿うことは、なかなかできないわけです。

自分のことを振り返り、さらにASDの子どもたちを育ててきて思うのは、ASDの『障害』とされる大部分は、『欠陥』ではなく、逆に過剰反応から身を守るための『規制』なのでは?と思えます。
ちょうど、テレビで『フリーズ脳』というのをやっていましたが、脳がたくさんの刺激を受けてしまうとそれを処理することができなくなり、全ての刺激を遮断しようとする方向に働くそうなんです。

ADHDはまさに、この刺激過多が原因ですが、ASDにも言えるような気がします。

よく言われる『想像力に乏しい』というのも、「いろんなところに想像が及んでしまい、取捨選択ができないとも取れる。

『相手の動きが読めない』というのも、あらゆるものの動き、状況が入ってきてしまうために、相手の動きだけに集中できない。
とも、考えられるわけで。

もし私が、幼い頃から情報過多に翻弄されていて、そこに周囲からの『全否定』も加わって、自分でそれら全てをフリーズさせてしまったのだとしたら、納得できないこともないかなと。

確かに、ASDの方が、定型が何を考えているのか分からないという反面、定型は裏でこんな風に考えていると『想像』できるのは、矛盾しています。
本当にわからないなら、そんな想像もできないわけで。

しかし、本来非常に鋭い感覚を持ち合わせていたら、自分に向かってきた『刺激』は強すぎて『分からない』とするものの、直接の刺激を受けないときには、本来の感覚が働いて、相手の動きを鋭く感じ取っているとも考えられます。
もちろん、ほとんどが無意識の領域でしょうが。

けれど、そんな視点を持ってみると、これまでとは問題の考え方が違ってくるような気がします。

今後、東大などで、当事者研究が進められていくようですね。

本当のメカニズムが分かってきたら、意外に「こんな簡単に解決できることなんだ!」というものも、たくさんあるかもしれないなと、期待しています。



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