個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/10/24 (Mon) 09:06:46
少し刺激の多い内容かもしれません。
でも、正直に話したいと思います。
こちらで炎上する要因のひとつでもあるかと思うので。

あくまで『私』の話です。
どう結びつけるか、それでどう考えられるかは、皆様にお任せします。
事実でしかないので、その先は自己責任でお願いします。

私は、アスペの子供を持つまで、アスペ的な特徴を持つ人(今考えるとそうだったのでは?という主観です)が、最も苦手でした。
具体的にどういうところかというと、
こちらの話を聞かない。聞いているそぶりを見せない。
こちらが『楽しいね』『嬉しいね』と感情をあらわにしても、反応がない。
私が相手を気遣ってやることを、ことごとく無視される(ように感じる)。

つまり、コミュニケーションの疎通が感じられない人ということです。

その時の私は、承認欲求がとても強く、こちらの接し方を柔らかくすれば相手は必ず応えてくれるものだと思っていました。
とても臆病で、とにかく相手の反応にビクビクしていたのです。

それで編み出したのが、こちらが最大限に気遣えば、相手は絶対に嫌な気がしないだろうという妄想でした。
おそらく、『これだけ気遣っている私を嫌いになる人はいないだろう』くらいまで、妄想が肥大化していたんだと思います。

だから、私の気遣いをあっさり無視されたように感じると、ものすごく絶望しました。

私にとって、承認されることだけが生きがいだったからです。

今思えば、これは私の生育歴による、最も歪んだ考え方でした。

親や家族から、私は自分の人格を受け入れてもらったことがなかったので、私の否定的な部分を責められることしか無かったので、唯一出来ることは、極力相手に合わせて、相手のご機嫌を取ることしか無くなっていたのです。
多くの精神力を、それに注ぎ込んでいたので、それを否定する(ように見える)人が信じられなかったわけです。

整理しながら、また続きは後日書かせていただきます。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/10/24 (Mon) 22:12:54
アスペと結婚する定型の方も家庭環境が恵まれてなかったり、ACの方が多いと感じます。
自分が満たされてないから問題があるアスペを好きになって共依存に陥るケースですね。
ここのblogに限らず、他のカサンドラの方のお話を聞いていても感じます。
アスペとくっついた定型さん皆がそうじゃないですけどね。
だけどこちらにきていらはこちらにきている定型の方も家庭環境が複雑な方も少なくないですよね。

うちの親もそうだったのそうでした。母はACだと思います。
父のせいにして当て付けたけど、実際は母のACの部分や育った家庭環境を父に投影して怒りをぶつけてるだけなんですよね。
カサンドラに陥ってる方の中には私の母のような人もいると思います。
アスペ側に問題がないとの意味ではなく、アスペも定型もお互いに自分の心の問題を相手に投影し、怒りや悲しみをぶつけてる場合があるということです。

もし母がACではなかったら父のことは好きにならなかったでしょうね。
少なくとも母は問題がない人と結婚して幸せに暮らしてたかもしれません。
そうしたら私は産まれなかったですが、それが母にとっては一番幸せな形だったと残念に思うことがあります。
母は私のことは愛してくれていたけど、本来なら私は産まれなかった命です。

定型の方がアスペを好きになった時にはまずACやうつ病など、自分の心に問題を抱えてないか、まずは問う方が良いですね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/10/25 (Tue) 00:41:10
自己愛性人格障害というものがあります。
言葉だけ見ると自分だけを愛しているような感じですが、実際には、自分が嫌いか、自分自身が何者か分からず、常に人の評価を求めている状態の人を言います。

私はおそらくそれだったと思います。

この評価とは、『自分の望み通りの評価』なので、何でも良いわけではない。常に良い評価でなくてはなりません。

だから、自分の話を相手が聞き、自分のことを『良い人』と言ってくれないと気がすまないのです。
一方でその逆の評価があることも恐れています。
本当は認めたくないけど、私を悪く言う人もいるかもしれない。
だから、先回りして自分のことを『どうせ、私は』と卑下して見せたりします。
実際に無視されたり非難されたりすると、『やっぱり』と言って納得しようとする。そうやって常に他人の反応に理屈を付けていました。

だから、予想通りの反応が無い人をとても恐れていたのです。

夫は、アスペでありながら、私の望む反応をする人でした。だから、その頃の私が『苦手な』人では無かった。
ところが、夫こそ、私よりも強い自己愛性人格障害だったのです。
それで、付き合いが長くなると、段々とおかしなことが増えてきた。
私が、相手に、自分の望む通りの評価を求めるのと同じく、夫も私に、夫が思う通りの評価を求めてきます。

この時になって初めて何かが噛み合わないことがわかりました。
お互いに思う通りの評価を求めあっていれば、相手のことを思い遣る余裕など無いのです。

そのうち、夫の方がわたしに『○○してくれない』『お前は俺の誠意に応えない』と不満をぶつけるようになりました。
良い評価を求めていた私には、ショックです。
私に良い評価をくれるはずの夫が、夫を評価しない私を批判する。

つまり、相手のために最大限に気遣って、好意的な反応を期待していた私は、単に自分が良い人と思われたいためにそうしていただけで、相手のことは何一つ見えていなかったわけです。

それまで苦手と思っていたアスペ的な人たちの方が、正しい反応だったわけです。
夫も私も、もともと根底に発達障害がありながら、本来その障害も含めた自分の人物像を教えてもらう機会が無かったので、とにかく他人が好意的に見てくれるためにはどうしたらいいのか、ということに力を注ぐようになっていたのです。

ただ、発信するだけで受信出来ない二人が一緒にいれば、衝突するのは当然です。

今になって分析すればその通りなのですが、その頃は、何でうまくいかないのか全く分かりませんでした。

私にとって、本当の試練は、アスペの息子が生まれたことです。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/10/26 (Wed) 09:15:09
息子の上に、定型の娘がいますが、ADHDの私は、この定型の、割と手のかからない娘の子育ても四苦八苦でした。
それでも自分の子育てのポリシーは、『他人様に迷惑をかけない人に育てること』だったので、娘には幼い頃から、そういうところに厳しくしていたのです。
子供は、迷惑をかけて育つものという発想がありませんでした。
自分が、世間体ばかりを気にする母親に育てられたので、自然にそう思っていたのです。

ところが、アスペの息子は、ことごとく、この私のポリシーを崩してくれました。
赤ん坊の頃から、他の家族と旅行に行った先で夜泣きがひどくてみんなに迷惑をかけてしまう。
手を離すとどこに行くか分からない。公園で知らない人のおもちゃを黙って取ってしまう。叩いてしまう。電車の中、病院などで大騒ぎしてしまう、走り回ってしまう。
迷惑と思われることを片っ端からやってしまい、まだ幼いので、どんなに厳しく叱っても全く通じない。

公共の場ではみんなから白い目で見られ、病院ですら、先生から『こんな騒がしい子を連れてくるんじゃない』と言われたほどです。

他人様に迷惑をかけないように育てようとしていた私が、あらゆるところで迷惑をかけまくっている。
他人からよく見られたくて慎重に生きてきたのに、一転、世間から『迷惑親子』と軽蔑の目で見られるようになったのです。

幸い、就学時健診でひっかかって診断がつき、専門家の先生のアドバイスを受けるようになったので、アスペの子はこういう特徴があるとか、同じような子を持つお母さんと交流するようになって、我が子が特別なわけではなかったと思えるようになって、救われたのですが、そうでなかったら、一緒に命を絶っていたかもしれない。

当時、世間に、発達障害の理解が乏しかったことが原因なのですが、まるでうちだけが異常で、親になる資格のない私が親になったことが間違いだったと思わされるような、世間からの仕打ちでした。

数少ない味方が出来たことで、私たち親子も『生きてていいのだ』と思えるようになりましたが、それでも大多数の目は厳しい。

私は自分の承認欲求を満たすどころでは無くなっていました。
いかに、世間に、発達障害を知ってもらうか、自分の子がここにいていい存在だと思ってもらえるか、そのためだけに力を使うようになりました。

学校に上がっても、何もしなければ、迷惑な存在としか思ってもらえない。とにかく資料を集めてひたすら広報活動です。
しばらくは一緒に学校に通って、他の子とも、自分が仲良くなりましたし、担任の先生に協力したり、話をしたり。今思えば、会社の営業マンみたいですね。

もともと承認欲求が強かったために、そこまで必死になれたのかもしれません。

それでも息子の方が、学校の刺激に耐えられなくて登校できない日も多く、今度は学校に行かない間の居場所を探して歩き回りました。
学校に行かなくても、学習は身につけさせなくては、と学習を見てくれるボランティアさんを探しました。

自分が世間から排除されるのも辛いですが、我が子が世間から排除されることほど辛いことは無い。
でも、自分のことでは無いので、そこまでがむしゃらになれたんだと思います。

そうやって子どもを育てているうちに、承認欲求なんてどうでもよくなっていました。どうやっても、世間は敵ばかりなんですから、出来ることをやって行くしか無いなと、開き直ったんです。

それで次に生まれた次女もアスペで、兄とは違い、幼い頃から不適応行動があったわけではないので、育てやすいし、順応性も高かったのですが、娘の場合は、本人の中に、自分はみんなとは違うという違和感を溜め込んでしまうタイプだったんです。

でも、もうすでに、息子のことで開き直っている私は、それほど驚くことも無かった。
そうこうしているうちに、自分が幼い頃から生きづらく、親が苦労してきた原因が、自分の発達障害にあったのでは?と思うようになったんです。

夫は、子育てにあまり介入してこなかったので、私たちが孤立して世間の冷たい目に晒されているということを実感していません。
言われたことは協力するけど、実際に苦しんでいないので、未だに承認欲求を得たくて必死になっています。

開き直った私の目から、改めて世間を見たら、この承認欲求の強い人が、本当に多いんだなあと感じます。

みんなと同じ、みんなに合わせて、学校教育も、会社も、盲目的に信じているような気がします。
もちろん、足並みを揃えることは大切ですが、揃えなくてもいい足並みまで揃えさせるような教育がされているなと。

我が子が、悪気なく足並みを揃えられない子だったために、それがよく分かりました。本人は何も悪いことはしていないのに、この世に存在してはいけないかのようなプレッシャーを与えてくる。

でも、よく見てみれば、足並みを揃えた先に、どんな成果があるかを考えていない人が多い。

息子が4年生の時、持久走大会に出ないでほしいと言われました。息子が走ると二周遅れくらいになってしまって、次の学年のスタートが遅れてしまうからという理由でした。
無理に走らせてくれと言っても、恨まれるだけだし、そもそも息子は持久走は嫌いなので、二つ返事で承諾しましたが。

あれは、何を目指すものなんでしょうね?
持久走の得意な子を、親や学校が承認して持ち上げるための舞台でしょうか?
学校が親側に、『私たちはこんなに教育熱心ですよ、行事に力を入れていますよ』と承認してもらいたいのでしょうか?

子どもに体力を付けされるという目的なら、息子のような子を走らせないというのは、矛盾していますし……。

つまり、世間では、認めたくないけど、承認欲求の強い人が、承認欲求のためだけに動かしているようなものが、たくさんあるということです。

もちろん、人が集団で生きて行く上で、相手の調子に合わせるというのは重要なのですが、それが本来の目的と逆転してしまっていることがあまりにも多い。

私自身も、分かっていながら、承認が得られないことを未だに恐れています。

それで、アスペの夫は、アスペであるがために、見ている範囲が限定されていて、その中で承認欲求を得ようと必死です。
彼の求める範囲で承認欲求を得られなければ、相手をねじ伏せてでも承認を得ようとする。

この承認欲求の強さは、アスペも定型も関係ありません。

しかし、この掲示板で色んな方と情報交換をするうちに、承認欲求とは別のところで、ご自分のポリシーを持っていらっしゃるアスペの方は強いなと感じられますし、そういう方は、承認欲求だけで生きていた昔の私が、最も恐れていた人なんだろうなと感じるようになりました。

今は、息子も娘も私も、そういう人たちの強さを見習うのが目標だと思っています。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/10/26 (Wed) 13:00:14
>持久走の得意な子を、親や学校が承認して持ち上げるための舞台でしょうか?

認証欲求もあるでしょうけど、持久走というより、運動会や文化祭などの行事はクラスごとで競ったり、協力しあったりしますから、一体感を感じますよね。
そこで競って勝ったら皆の喜びとなり、一体感を感じて絆も深まる。
惜しくで負けたらクラスの皆が残念がりますが、頑張ったねと励まし合うことで絆も生まれますよね。
そういった子供の成長を見て、先生や親御さんは喜びを感じるんだと思います。
多少の差なら惜しかったでその時の運ですみますが、明らかに遅い子の場合はクラスがビリになるのは明快ですから一体感どころか一体感を乱す存在とみなされますからチームの結果のために控えてほしいとなるのだと思います。
たかが持久走ですが、チームの一体感や結束を図るのは教育の一貫なのだと思います。
排除することが教育とは思いませんが、軍隊上がりの先生から仕込まれた価値観がいまだに残っているのでしょう。

>学校が親側に、『私たちはこんなに教育熱心ですよ、行事に力を入れていますよ』と承認してもらいたいのでしょうか?

モンスターペアレントがいたら処理が厄介ですよね。あすなろさんの方が苦情を言いやすいから言うのだと思います。
少数側で味方がいない方を責めた方が先生が悪者になりませんしね。
あすなろさんが苦情を言っても大したことがないからとなめられている可能性もあります。
先生も面倒なことになりたくないですからね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/10/27 (Thu) 08:08:12
>やっぱりおかしいさん

本当にそこなんですね。
この一体感というのも、教師の考える『一体感』であって、実は子どもの側では『よく分からない』『言われるから仕方なくやっている』『嫌でも文句は言えない』と思っていることは多いです。
吊り橋効果のように、みんなで失敗をしないようにドキドキハラハラしながら練習を積むうちに、何だか気分が高揚してきてやる気になってくるという……。ある意味、トランス状態に陥るわけです。
すると、失敗要素は何としてでも取り除かなければという脅迫が生まれる。どうしても付いていけない子を排除するわけです。

この問題は、だいぶ可視化されてきました。
例えば、組体操は大怪我をしたり、時に死者まで出して取り組むものなのか?
部活動は、教師にも負担、生徒にも負担になっているのに、学校が何が何でもやらなくてはいけないものなのか。

これが議論されるようになっただけでも進歩です。

言いやすい保護者に言うというのも、教師の保身に他なりません。
教育の立場で、公平に判断したのなら、モンスターだろうが、言いやすい人だろうが、同じことを言わなくてはいけません。

こういう問題を、別のところで、現場の先生とやり取りしました。

方や、それが学校なのだ!一体感が大事なのだ!と豪語して、人の話を受け付けない人、方や、現場で私に近い意見を言ったために、管理職や同僚から叩かれたという人、中には一人で訴え続けて鬱になって退職した人もいました。

学校という閉鎖的な社会の、盲目的で堅固な共同幻想が、イジメを作り出し、それが自殺に繋がったり、直接事故が起きて死亡したり、そこまでいかなくても、重い障害を負って一生を台無しにしてしまった事例が、実際にあるんです。

しかし、最初に挙げた教師などは、全く取り合おうとしない。
それが学校教育だと信じ切っているんです。

この教師、私が相手の持論を受け付けなかったので、最後にこう言い放ちました。
『あなたは障害があるから、そうやって絡んでくるんだ。私は障害のある『子ども』を見るプロだ。大人は専門外。ご自分で病院に行くように!』

こういう教師が、『先生』として、子どもの上に君臨しているんですよ。学校社会がいかに歪んでいるか、分かりますよね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/10/27 (Thu) 18:07:45
あすなろさん

>『あなたは障害があるから、そうやって絡んでくるんだ。私は障害のある『子ども』を見るプロだ。大人は専門外。ご自分で病院に行くように!』

その先生が間近にいたら「病院に行くのはむしろあなたの方ですよ」と私が代わりに言ってやりたいですね。
録音して裁判で訴えてやりたいくらいです。

日本の教育システムもプチ北○鮮ですね。もちろん規模の差は全然違いますが、根っことなるものは同じように感じます。
原発問題も都合の悪いことはひた隠しにしている共同幻想の持ち主の国ですからね。
でもアスペも定型もほとんどの人は共同幻想のシステムから逃れて生活することはできないんですよね。

あすなろさんの話の続きをお待ちしています。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/10/29 (Sat) 06:54:29
久々、息子と議論して、噛み合わない点がよく分かったのですが、これは、私が文系脳で息子が理系脳だから、というのもあるかもしれませんし、でも、ここで見かけるアスペ、定型が噛み合わない感じにもよく似ているなぁと思うので、書いてみます。

私『あなたの出た工業高校は、アスペ的な子も多かったよね。担任の先生が言ってた』
息子『それは、工業高校にはアスペが多いという偏見だ』
私『はあ?そんなことは言ってない。あなたの学校が、ということで、先生も言ってたという話』
息子『いや、お母さんの中には、工業系の学校にはアスペが多いという偏見がある。そうでないなら、全体的に増えているというべきだ』
私『いや、そんな大きなことでなくて、あなたの学校には、そうだったという事実を言ったまでで』
息子『もし、AはBだというなら、AはCやDでない可能性を証明してからいうべきだ。そうでなければAはBで、CやDの可能性もあるなんていう話にはならない。つまり、アスペが工業高校に多い、でも普通高校にも多いなんていう話になるのはおかしい』
私『え?じゃあ、その話すら出しちゃいけないってこと?』
息子『そういうこと。アスペが工業高校に多いという偏見がお母さんの中にあるってこと』
私『うーん』

他にも話題が二転三転して噛み合わなかったんですが、息子は自分で、理系脳だから根拠をはっきりさせないと気が済まないとも言っているので、どちらから来ている考え方か分からないんですが、これ、パンダさんも再三話題にされていた、部分と全体の見方の違いにも似ていないかな?と感じたのでした!

皆さんどう思われるでしょうか?
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • みるき
  • 2016/10/29 (Sat) 10:43:30
あすなろさんへ^^


こんにちは。ちょっとだけお久しぶりです!(←日本語がおかしいー(笑))
タイミングが今日も違う気がしてとっとと去りたかったんですが、気になっていそいそやってきてしまいましたー

ちなみにこの前、あすなろさんとやっぱりおかしいさんのやりとりを拝見してお二人ともすごいなーと尊敬のまなざしで眺めてしまいました。お二人ともきらきらしていてとても眩しかったです!

最後の息子さんとのお話・・あるあるすぎて大きくうなずき笑ってしまいました^^い・・いや実際問題はまったく笑えないところですけどね(汗)なんというか、息子さんやあすなろさんの様子がとても臨場感溢れた映画のようにイメージされました!か・・噛み合ってないー^^;

たぶんですけど、お互いの話している「前提」が違っているのかもしれませんね^^


他の方のお考えも色々勉強させてもらいたいので私は散歩しながら覗かせてもらいますね。
食欲の秋とか言ってたらついつい食べすぎちゃってもう大変なんです^^;ちょっとは散歩でもジョギングでもしてこないと・・・気が重い・・体も重い・・(笑)

それじゃあまたー
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/10/29 (Sat) 15:38:38
>みるきさん

ご無沙汰です。
息子との話、笑い話ですよ。結局、どうでもいい内容なので。
もう収集がつかなくなったので、『あのさー。そろそろ部屋に行っていい?』と息子。
『誰が話を大きくしたんじゃ!こっちだって、そこまで大ごとに捉えられるとは思わなかったわ!』と私。

私が軽く言ったことが、息子にはすごく大きなことになっていて、いや、息子にとっても別に大きなことじゃないけど、私がまた、大ごとに捉えて……みたいな食い違いですね。

ちなみにみるきさんは、どちらの意見の方が理解できますか?

私には、息子の言いたいことは分かるけど、この話がどうしてそんな方向に行くのだろうか?というのが、腑に落ちないんですよね。(^^;
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • アンブロ
  • 2016/10/29 (Sat) 22:53:07
みるきさ~ん おひさしぶりですね。

早速ですが、みるきさんの「前提」という言葉、もう少し詳しく知りたいです<(_ _*)>

あすなろさん

>あなたの出た工業高校は、アスペ的な子も多かったよね

この言葉はもう、
「工業高校=アスペが多い」

という風に思わせる言葉になるのですかね?

それは偏った見方だ。と息子さんが言うのもわかりますけど、

違うちがーう!!そんなに難しい話ではなく、
返ってくるであろう、想像している返事は

①「う~ん・・わかんない」

②「たしかに、アスペっぽい奴はいたかも」

③「え~・・?先生はどうしてそう思ったの?」

④「アスペかどうかははっきりはわかんないけど、変わってるやつはいたかもね」

とか・・・ですかね。

私は、あすなろさんが

何気なく、投げかけた、たわいもない言葉である・・・と思います。
そして、わたしも、思い出せば似たようなことを言って(内容はちがうけど)

「え?なんでそうなるのぉお( ゚Д゚)」となった記憶があります。

例えば、
「工業高校は、アスペ的な子が多いのかな?どう思う?」

なら、息子さんの答えはなんて返ってくるのだろう・・・?

そして、全国の工業高校の生徒の全人数のなかのアスペの人数をピックアップして人数が
半数を超えていればとか・・・そこまで徹底的に確実な事実を出してからの話なら


スムーズな話ができるのですかね?(無理ですけど( ;∀;)

要はこういうかみ合わない後に「ま。いっか」と笑い話にできればよしなのかな?とも思います。

私は文系の脳なんでしょうね・・・でも男性脳らしいので(。-∀-)
(ココチさんが紹介してくれたなかに載ってました。)

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/10/30 (Sun) 09:07:18
>アンブロさん

私は、アンブロさんのおっしゃる通りの感覚です。

息子目線は、確かに言っていることは分かるんだけど、何でそう繋がったのか、さっぱり。

これに限らず、似たようなことがたくさんあって。

おそらくアンブロさんも、似たようなご経験がたくさんあるのでは?

みるきさんのお考え、ぜひ詳しく伺いたいですー!

みるきさんだけでなく、息子の考えがよく分かる!逆にあすなろの考え方が分かりにくいって方も、是非ご意見くださいませー!
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • noa
  • 2016/10/30 (Sun) 11:49:00
我が家でもこの手の食い違い、あるあるです(;・∀︎・)ァ・・ アハハ・・・ハハ・・・・そんな難しい会話がしたかったわけじゃないのに〜‼︎ですよね 笑

アンブロさんみたいに考えた事もありました。”徹底的に確実な事実を出してからの話なら”ってやつ。
でも、それ私絶対楽しくない!楽しめない〜〜(T ^ T)ってすぐ気付いて断念したんですけど 笑

みるきさん〜⸜( ´ ꒳ ` )⸝♡︎お久しぶりです!
お散歩途中にたまに寄り道してくれるとこの掲示板も和んでいい感じです〜!無理しない程度でいいので時々登場してくれることを願ってます♪

そして、みるきさんの考える前提の違い、私も気になってます!何せ、あるあるのすれ違いなんで 笑 知りたい人もっといっぱいいそう!

「なんとなくの感覚の話がしたい」と「確実なデータの話がしたい」の違いかな?
「一部解りかけた時点でそこだけ話したい」と「全体を解析できてから全体を話したい」の違い?
それとも、もっと違うこと⁇
なんだろー☆︎ウキ(p。・A・q)(p・A・。q)ウキ☆︎
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • みるき
  • 2016/10/31 (Mon) 09:45:01
あすなろさんへ^^

こんにちは。
改めて何回読み返しても笑っちゃうようなあすなろさん親子のほんわか温かい日常にまったりしてましたー。

「もう収集がつかなくなったので、『あのさー。そろそろ部屋に行っていい?』と息子。
『誰が話を大きくしたんじゃ!こっちだって、そこまで大ごとに捉えられるとは思わなかったわ!』と私。」

これとか・・・あははは、あるあるですね^^
でも息子さんはとても優しいんですね(ほっこり)私だとじゃあねーとか言ってさっさといなくなったり最悪無言で微笑みながらスルーして部屋に帰ったりとよくある定型の方が「えっ?何かした?」みたいなことになるかもしれないなーと想像してさらに笑ってしまいました。


「ちなみにみるきさんは、どちらの意見の方が理解できますか?」

うーん・・どうだろー・う~ん・・半々かなー^^。

ただ、そこはやっぱり私もアスペさんなので、若干早く息子さん側の視点が反応するようにも思います。

「私には、息子の言いたいことは分かるけど、この話がどうしてそんな方向に行くのだろうか?というのが、腑に落ちないんですよね。(^^;」

あはははは^^たしかに!
息子さんのことはちょっと確定はできませんが、あくまでも私だったらということを考えてみたんですけど、もしも私があすなろさんと話していたらを書いてみますね。

あすなろさん:『あなたの出た工業高校は、アスペ的な子も多かったよね。担任の先生が言ってた』
私: 「うーん。そうかもねー。それでー?それがどうかした^^?」


と上記のようになるのかな?と思いました。
ただ非常に残念なお知らせをしなければなりません(笑)
他のパターンも考えてみたんですが、上記の答えが自分の中では結構最大級に親切なほうで、他のパターンだと

①「で?」「それで?」「だから?」「だから何?」と単語で聞き返す→定型さんからすると怖い可能性が高い。または機嫌が悪いか怒ったか不安にさせてしまう可能性がある。(でも本人この時点ではまるで怒ってもいないし機嫌も悪くない^^なにを言いたいのかまるでわかっていないだけ)
②何が言いたいのかよくわからなくてつかめないので、もう少し聞いてみようー^^と無言で続きを待つ(ただし、残念なことに無表情なことが多い)→定型さんからすると怒っているように見える可能性が高い。もしくは、もうその話は聞きたくないと思われてるのかな?とか不安になる可能性大。


あはははははーそういうすれ違いに続いていく可能性が高くて笑えました!

ちょっと今急に思いついたんですけど、やっぱりポイントが違うだけでみんな同じですね!

以前から私、こちらでの書き込みに反応がないと伝わってるか不安だーって書いてます。まさに定型さんもその状態なんですねー。アスペが非言語的に聞いてるよーっていうそぶりじゃないから途中で話しを止めてしまうことがあるのかなと今急に腑に落ちました(笑)

前、あすなろさんが私も他の皆さんも分析してくださいましたが(映画を作る人と連続ドラマを作る人)結局最終的にはそこかもしれませんね^^

あすなろさんと息子さんのお話で、あすなろさんが何について話をしたかったのかにもよるかと思いますが、例えばもしもアスペについて興味があるんだよねーみたいなテンションだったとした場合、私なら息子さんには「私、最近アスペの人とツイッターとかで話しててすごくアスペについて興味があるんだよねー。で、他にもアスペの人のこと知りたいと思ってるんだけど、そういえば担任の先生が言ってたんだけど息子くんの学校にもアスペの人多かったみたいだね。どういう人が多かった?」とかになると思います。
ようするに、目的が不明というか、何を聞きたくてなんなのかが分からないと見当違いに飛んでいく、そういう感じです(笑)
最初のあすなろさんのお話の投げかけだと、①あすなろさんのテンションというか、肯定なのか否定なのかどちらもなのかどちらでもないのかよく分からないので情報不足で予測が立てにくい②考えられる選択肢のうちどこの流れに向かいたいのかがよく分からずやっぱり情報不足で予測が立てにくい③情報がないからそれがどうしたー?と続きを聞く人とそのままあるのかないのか分からない情報を頼りに暴走していく人、その両方になっていく・・。


これも書いてて思いました。やっぱり定型もアスペもなく同じですね。ポイントは違いますけどね^^
私とアンブロさんがちょっと前にすれ違った時もだいぶ前にあすなろさんとすれ違った時もみつみさんとすれ違った時も全部これでした(笑)

blueさんが分析してくれてましたけど、単に発信と受信のバランスとか強弱とか出方が違うだけに思います。

なるほどねー。そうなるともうアスペだの定型だのという問題じゃないですね^^←独り言


なんかあれですね。
もしも会話が成り立つことが目標なら自分の癖と相手の癖を知って相手に伝わる言い回しを覚えるとかになるのかなー?と思うし、別に会話がずれていてもそれもまたよしと笑いあえるのなら一緒に笑って
なんかいつもずれるねー^^とか言っていられればいいんじゃないのかなーそれで^^とか思いました(ほんわか)
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • みるき
  • 2016/10/31 (Mon) 10:39:50
アンブロさん、あすなろさん、noaさんへ^^

「前提」のお話・・そう大した話でもないので今ちょっとびびりーな私はびびっています(笑)
実はあのときに書いた内容は少し違うことについてだったんですが、今はこの流れ的にそれとは違うのでいいのかなと思うのでそちらを書きますね^^

というかもうみなさんそれぞれほぼほぼ一緒の場所にいて同じこと言ってるんですけどね^^;
改めて書くほどのことでもないようで気恥ずかしいです。動機息切れ注意報だわー

noaさんがおっしゃっている
「「なんとなくの感覚の話がしたい」と「確実なデータの話がしたい」の違い」も「「一部解りかけた時点でそこだけ話したい」と「全体を解析できてから全体を話したい」の違い」もとても素晴らしいなと思いました^^そういう前提もあるよなーって勉強になりました!
あとは、「共感がしたい人と別にそれほどそこは気にしない人」とか「なんでもきっちりしたい人となんとなくゆるくていい人」とか「人と一緒にいたい人と一人でいたい人」とか「そこに関してこだわりがある人と別にそこはどうでもいいかなという人」・・・まあキリがないほどいっぱいありますね。

アスペが散々こだわりが強いっていわれてますけど、みんなそうですよね。
人それぞれこだわるポイントは違うかもしれないけど、誰だって譲れない部分があると思います。

アスペはコミュニケーションの障害って言われてますけど(笑)これだって本当はみんなそうですよね(笑)。
人それぞれ話しやすい人もいればそうじゃない人もいる、それだけのことにも思えます。(多数少数と人数的には理不尽な部分もありましたけどね^^;)

あすなろさんが本ブログで書いていたこと、素敵だなと思いました。みんな同じ人間ということで大きく共有できている、それぞれの人が趣味も嗜好も価値観も違うけれどだれもが持っている気持ちは同じ、あとはそれをただ受け止めてあげればいいんじゃないかなと思うとおっしゃっていましたね。
「みんな違ってみんないい」これを「大前提」にできたなら、素敵な社会になりそうですね^^
(よく以前こちらでアスペの方が書いてましたね^^私とあなたは最初から違うじゃない、そんな当たり前のことがどうとか(笑)←いじわるですね~私(黒!)どうとられてもいいけど自己申告しておきますね。特に誰にとかではないけれどこれまでちょっときつくアスペさんに当たっていた人たちみんなへのささやかな嫌味ですよ(笑)でもまあそれでも知らなかったものは仕方ないと心から思うのも本当だし、私もまた知らずに人を傷つけてきた同じ人間なので半分は私が受け取って嫌味は半分にしてあげますね^^ふふふ)

先日とても素敵なコメントを見つけたんです^^
たまたま定型さんのカサンドラ掲示板という場所を覗かせてもらっていて見つけたんですけど、「相手が定型かアスペかは関係ない。たしかにアスペは定型と比べるともともともの特性が強まる性質もあるように思う。だけど、本来そこにあるものは人としてその人のもっている性質が好きなのかどうか、相手の苦手な部分やお互いの困難を抱えてでも一緒にいたいと思える相手なのかどうか、それだけじゃないのかなと思った」(私的要約)そういうことを言っていた人がいました。

あーいいなーと思いました。

こういう強くて優しい人たちが増えたならきっとここは今より生きやすい社会になりますね^^(勿論そうじゃない人もいていいんだよ~)
それと同時に先日Katzさんやぱんださんが話していらしたみたいに違うもの同士、最低限のマナーみたいなそれだけはとりあえずはみんなで守ろうみたいなものも考えていけるといいですね。
でも、でも、またさらに少し前に氷室さんという方がおっしゃっていたように分からなくてもつかめなくても、ただそこにあるがままを生きる、みたいなのもいいよなーと思いました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • アンブロ
  • 2016/10/31 (Mon) 12:50:52
みるきさんへ

お返事、ありがとうございました。m(__)m

色々思うことがあり、色々考えてみたいことも出てきました。

(動機は治まりましたか(°▽°) なんとなくプレッシャーを感じてるかな...と思いました。それでも
みるきさんならお返事くれると思ってました(*^^*)

まだ考えがまとまらないので、先にお礼だけコメントします。

ありがとうございました(^人^)
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/11/01 (Tue) 01:12:30
>みるきさん

答えにくいことをお聞きして、緊張(?)させてしまってすみません(^_^;)

>目的が不明というか、何を聞きたくてなんなのかが分からないと見当違いに飛んでいく、そういう感じです(笑)

あー!そこか!それです!
これじゃ、どっちの方が理解できる?なんて話じゃないですよね。

でも、赤の他人の会話の、こんな一部だけで、その行き違いがわかってしまうって、みるきさん、凄い才能じゃないですか?

アンブロさんも、noaさんも、似たようなことがあったような?と思いつつ、結局よく分からないとおっしゃってましたが、普通はこんな情報だけでは分からないです!

いや、ここに至るまでには、その前に延々色んな会話があったんですが。
息子が以前、自分が何に困っているのか言わないで、『出来ない!やらない!』と言い切ったことがあって、私の方は、『出来ないでは困る。とりあえずやってみなさい』と何度も食い下がったことがあり、そのことについて、『実はその間に色々原因を分析していたんだ。その失敗の原因が毎回違うので、何に気をつけたらいいのか分からなくて困っていた。面倒なので、やらないと言ったんだ』と告白したので、『それって、言葉にしないと、こちらは出来ないから諦めたって取れるよ』というような話をしていたんです。

高校の話も、『つながりがわからない』と言えばいいものを、『それは偏見だ』なんて言うから、こっちもおおごとに捉えちゃったんですよね!

そこは、みるきさんのように、『つながりがわからないよ』と、ひと言言えば良かったのに、息子には、うまい表現が見つからなかったのかも。

この的確な表現が分からないというのは、大きな行き違いの原因になりますね!

そして、この高校の時の話は……。

息子が、どうして自分のアスペを自覚したか、という話を自分で切り出して、(この経緯は、前にも話したことがある)そのついでに、自分の周りにも、そうじゃないかな?という人はいて、だいたい見当がつく、と言うので、『そう言えば、あなたの高校でも……』という流れでした。

息子は、『現在、身近にいるよ』と言っているのに、私が過去の話を出したので、『今ここで、それがどう繋がる?』と、ワケがわからなかったんだと思います。

この高校の話を出したのは、私の中に、最近思っていることがあって。

息子が今後社会に出て行くときに、同じ特性を持つ仲間がたくさんいる方がいいなと思っていたので、高校の時の友達とか、そういう中に、仲間はいないのかな?と、常々考えていたからです。

で、そんな思いが、会話の中につい出てきてしまったという。

息子には、直接そんなことを言っても、『余計なお世話だ』と言われるのが分かっているので、言わないんですが、その心理が、つい会話に表れてしまったんですねーー!

息子が必要なことを言わないのと、私が必要なことを言わないのと、言いたくても表現が分からないのと、言わない心理が、必要のない会話に出てきてしまうこと。

こんなことがもつれて、おかしな会話になっていたんですね!!

いやー、みるきさん、凄いです!!心理学者みたいです!!

で、私たち親子の会話が、みるきさんにツボのようなので、もっと笑っていただきましょう!

この前日まで、息子は徹夜でレポートを書いていたんですが、その日はやっと休みだ!とテンション高めに起きてきた。
私は仕事に出る前に、夕飯の支度をしていた。
『休みなら、下ごしらえだけしていくから、後やってくれる?』と頼んだら、息子が『えー?』と面倒くさそうに言ったので、私は手を動かしながら、『休みならそのくらいやってよ』みたいなことを言っているうちに、色々な話になって……。

で、息子が『部屋に行っていい?』と言ったときには、ほとんど夕飯が出来上がっていました。

『ところで、夕飯は、後何をすればいいの?』
『は? あれこれ興奮気味に話しているうちに、全部出来ちゃったよ!』
『なんだ……』

全くトンチンカンな親子です。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • みるき
  • 2016/11/01 (Tue) 13:48:18
○アンブロさんへ

動悸はおかげさまで治まりましたー(笑)お気遣いいただいてありがとうございます^^!

「なんとなくプレッシャーを感じてるかな...と思いました。それでも
みるきさんならお返事くれると思ってました(*^^*)」←ば・・ばれてる~あはははは。

○あすなろさんへ

緊張はしたもののもう大丈夫です!復活をとげました(笑)
急に話変わるんですけど、あすなろさんすごいですね!!天才です!
息子さんとお話しながら料理が出来上がった!?信じられない(呆然・・)
私絶対無理です^^;料理か話すかどっちかにしろーってうわーーーーーってなって終了しそうです。
すごいな!!なぜそんなことが出来る!?マルチタスク・・・すごいわ・・。
(私は自分だけでやるマルチタスクならできるのに他人が加わるとまるで出来ない人です)
いいなーすごいなーすごく羨ましくなりました^^



●「息子が今後社会に出て行くときに、同じ特性を持つ仲間がたくさんいる方がいいなと思っていたので、高校の時の友達とか、そういう中に、仲間はいないのかな?と、常々考えていたからです。

で、そんな思いが、会話の中につい出てきてしまったという。

息子には、直接そんなことを言っても、『余計なお世話だ』と言われるのが分かっているので、言わないんですが、その心理が、つい会話に表れてしまったんですねーー!

息子が必要なことを言わないのと、私が必要なことを言わないのと、言いたくても表現が分からないのと、言わない心理が、必要のない会話に出てきてしまうこと。

こんなことがもつれて、おかしな会話になっていたんですね!!」

ふふふふ^^そうですね。コントですね~。素敵な日常の楽しいコント場面ー笑いを提供してくれていると思えばもう毎日おかしくて笑っちゃってたまらないですね。(想像してるだけで面白いです)
あとはせっかく素敵な優しい思いなのだからもしも伝えるのなら、私なら、「余計なお世話だと分かってるけど、私は親としてあなたにはやりやすい環境でのびのびと働いてほしいなと思っているから近くに似たようなアスペの友達とか仲間がいるといいなと考えたんだけどどうなのかな?そういう人がいた方がいいのかな?今そういう人はいるのかな?」って息子さんに聞きます。


「いやー、みるきさん、凄いです!!心理学者みたいです!」←そうですかー?なんだか照れますね(ほけほけ)褒められるとか・・なんかどうしていいか分からなくてまたしても動機息切れ注意報がー(笑)!でも嬉しいです。ありがとうございます。でも本当の心理学者さんに失礼で恐縮してしまいますね^^;

そういえば、たしか娘さんがそういう道を目指しているのだったようなお話がどこかにありましたねー素敵ですね!色々な思いをしてきた娘さんなら、きっと人の痛みの分かるあたたかい魅力的な大人になって優しい心理学者さん?カウンセラーさん?違うかな?(←私は詳しくないので適当ですけど許してね^^)になれそうですね。楽しみですね。

あすなろさん家族のお話はそれぞれの人が個性的で魅力的だし、お子さんには感情移入できるしで聞いていてとても楽しいです。

あすなろさんへ
  • かぼちゃ
  • 2016/11/01 (Tue) 22:57:24
あすなろさんへ


どこに書いてもお邪魔になってしまいますが、笑、横レス失礼します。


ご紹介頂いたバルガスリョサさん面白いです。

コメント拝見したその足
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • アンブロ
  • 2016/11/01 (Tue) 23:35:44
みるきさんへ

ようやく?思い出しました(^_^;)

(というより、私の中で『ま、いっか〜』と思ってはいたけど、不思議だったことです。

あすなろさんへのお返事のなかの

☆最悪『無言』で『微笑みながら』スルー

ありました❗これ( ̄▽ ̄;)

特に怒ってるとは思わなかったですが(笑)

なんだったんだ...?しかもニヤリとしながら...

⬆でもこれ、思い出しては爆笑なシーンです(*´∀`)

☆で?だから?なに?と言われたことには『怒ってるの?』と聞いたことあります。

その間私がなにかいって、『そうゆう所です』とバッサリ(-_-;)

そのあと、無言が続いたのは、『無視してる』わけじゃなかったのか〜

黙って聞いていただけとは...(°▽°)

なんとゆうか、またパズルがピッタリはまりましたよ〜みるきさん。

それに気づいて今日はなんか、力が抜けた感覚でした。

いつもいつもありがとうございます(^人^)
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/11/02 (Wed) 01:53:34
>みるきママ~!(と呼びたくなった!)

>あとはせっかく素敵な優しい思いなのだからもしも伝えるのなら、私なら、「余計なお世話だと分かってるけど、私は親としてあなたにはやりやすい環境でのびのびと働いてほしいなと思っているから近くに似たようなアスペの友達とか仲間がいるといいなと考えたんだけどどうなのかな?そういう人がいた方がいいのかな?今そういう人はいるのかな?」って息子さんに聞きます。

そうなんですよ!私の言葉が足りないところと、こういう気の利いたセリフが言えないところが、トラブルの原因。
前回のコメの息子と、全く同じなんです。

正しく表現できない。

今回のことも、お互いに、『ちゃんと伝えていないじゃないか(ということはわかっているが、どうしてなのか分からない)』と最後まで言い合って、お互い様みたいにして終わりました。
何だか悶々としていたんですが、同じことをやっていたんですね。(笑笑笑)

多分、咄嗟にみるきさんのようなセリフが浮かばないし、自分の言葉じゃないのでうまく伝えることができそうにないので、、また同じことを繰り返す気がしますが、イラっと来たら、ママの言葉を頭に思い浮かべて『似た者同士!!』と思うようにします!
もう、あすなろ親子の喧嘩は、みるきママの下では、ただの姉弟喧嘩みたいです!

ちなみに、心理学やりたいと言っている末娘は、ウチでは最強宇宙人です。息子でさえ、『あいつはよく分からん。下手なことは言えない!』と恐れています。(^_^;)

でも、人のことはよく見ているので、学校でうまくいかない!と怒りつつ、他の子と教師の性格や行動をよく把握してるんですよね。
ドラマや漫画で、人物相関図が描かれるじゃないですか?あんなのが、自分のクラスだけでなく、学年全体のものまで、頭にある感じ。だから余計、どうしてそういう人間関係が生まれるのか探ってみたいようです。
なのに、表現とか、自分の感情のコントロールが、うまく出来ないので、周りからは宇宙人に見えちゃうんですよね。

ここに、みるきさん流コミュニケーション術が加われば完璧なのかも!!

あれ?そう考えると、アスペって、コミュニケーションが苦手なわけじゃないですねー!表現法が分からないと言えるかも。人間関係については、息子も娘も、こちらが驚くくらいの分析をしています。
みるきさんは、その分析の上に、巧みな表現法も身につけているプロ級に思えます。

料理の話ですが、あれ、最近確信したADHDの特性です。

材料を買ってきて、一応メニューも考えた→→どうしても、やる気が起きない。一休みとか言って怠けたり、タラタラやったりして捗らない。

誰かがムカつくことを言った。あるいは職場で恥をかいたことを突然思い出した→→『どうしよう、どうしよう』『悔しい、何であんなこと言うんだよ!』と、イライラ→→脳内活性化→→ずっと頭の中で、『今度会ったら言い返してやろう』『あんな恥ずかしいことして、どうやって言い訳しよう』などと、取り留めのないことを考えながら、手は動いている→→気持ちが何となく落ち着いてきたとき、料理も完璧に出来上がっている!→→しかも、料理だけをやっているときより、うまい!

しかし、同じマルチタスクでも、料理だけに向き合っているときは同時に二品作ることが出来ない。頭の中で考え事をしていると、この同時進行ができるんです。

変でしょー?

最近、『ADHDとリス』っていうのが話題になっているみたいなんで、興味があったら検索してみてください(^_^;)

>かぼちゃさん

おお!やっぱり読めますか!面白いですか!

梨木香歩さんのお話も、時々似たような難解さがあるので、もしかしたらと思ったんです。
しかも、海外の方の価値観とかご存知のかぼちゃさんなら、もっとイメージが膨らむかな?と思って。
おそらく、私なんかより、ずっと深く理解されるんじゃないかと思います。
私は、すごく深いものがありそうだなーと、思いながらも、辿り着けないという感じです。でも、そのミステリアスさが面白かったりして^ ^
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • みるき
  • 2016/11/02 (Wed) 11:13:01
あすなろさんへ

こんにちはー^^
早速、『ADHDとリス』見てきましたー!いやー面白かったです!!あーいうの好きです。ネタTシャツとかおしゃれだしキュートだし欲しくなる感じでした。どーんと「あ・す・ぺ」みたいなロゴがあってもいいなーとか想像して遊んじゃいました。それで、あすぺTシャツ着てるからアスペなの?と聞いたら「ぶーADHDでしたー」って言われて「そうなのー?なんだよーだまされたじゃん^^」って言うっていう妄想が沸いてきて笑いました。

ADHDとリス、あははははーすごくぽくって笑いました^^
自分はなんだろうーと考えて(あんまり動物に詳しくないのでありきたりです)やっぱり、超びびりで超慎重なねこだなーって思いました。状況が把握できるまではおっかないから誰よりも高い所をキープして安全確認に余念がなく(笑)大丈夫そうだったらおそるおそる降りていって、でも周囲に警戒をおこたらず(←たぶんいつも目に見えないなにかとたたかっているのだろう(笑)客観的に見てると笑える)平気そうだとお気に入りの場所でまったりとご機嫌でお昼寝するーみたいな。
お気に入りの、好きな人には擦り寄っていくけどそうじゃない人は完全スルー。でも、お気に入りの、好きな人に呼ばれたからって気が向かなきゃいかないもんねーつん!みたいな。でも私がかまって欲しくなったときはかまってね^^みたいな。
完全、自己中なねこができあがりました。笑えました!!だからか~親友は無類の、いや尋常じゃないレベルの猫好きでした・・とさ(笑)。

あすなろさんはどうですかー^^?やっぱりリスな感じがしますか?それとも他に何か思いつきますかー?
(そうそう!前にテレビで木の幹にはりついた?リスが、下にいる犬をからかって遊んでいるおもしろ映像を見ました。お得意の華麗で見事な位俊敏な動きで犬を圧倒してました(笑)犬は犬で楽しくて仕方ない感じでした。本人?たちも見ている人たちも私も楽しくなるいい動画でしたよー)


○料理のお話
「変でしょー?」
うん!へーん^^でもとっても個性的でおもしろーい!(です(笑))
なんでなんだろうー?とものすごく興味あります。でも別になんででもいいし、そんなことよりもあすなろさんがかっこいい~!!そうそうー料理作ることが目的ならそこまでの工程なんてなんでもいいんですよね~。(←私がいい加減なだけか?いや、でもいい!)自分の方法が生み出せた、料理ができた、それが素晴らしく、それが全てです^^
私も昔から人と同じように、とか、人と同じ方法で、とか、みんなのように、とか無理だったので途中から「っていうか、ようするに、最終的に出来上がるならそれでよくない?」って開き直りました!
あははははは。それ見て、色々言ってたみたいだったけど完全スルー(笑)ふんふんふーんと自分すごいことに気づいたぞーとご機嫌だったおばかな私でした。
あすなろさんもご自分だけの方法を見つけられたんですね。素晴らしいと思います!見つけるまではしんどいことも多いけどでもそんな中から見つけたんですね^^カッコいいです!

○似た者同士(笑)

「多分、咄嗟にみるきさんのようなセリフが浮かばないし、自分の言葉じゃないのでうまく伝えることができそうにないので、、また同じことを繰り返す気がしますが、イラっと来たら、ママの言葉を頭に思い浮かべて『似た者同士!!』と思うようにします!」

いいと思います^^いいですいいです!何度も何度も繰り返していらっとして、なんだこいつってなっちゃってください(笑)私も似たようなモンです。でも、そんなとき、「これはお互い様なんだ」「似た者同士」なんだってどこかで気づいて自分も同じことしてるときもあるなって思えたら、きっと「まあ仕方ない、まーいいかー」となれそうですよね。

そうそう、またしても末娘さんとの「似た者同士」を発見しちゃいました!私も昔からよく宇宙人扱いされていたのであだながそういう関係ばっかりでした^^
なんか、息子さんの、『あいつはよく分からん。下手なことは言えない!』とかすごく笑っちゃいました!!ふふふ・・あはははははー

みんな素敵ですね^^
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • noa
  • 2016/11/02 (Wed) 13:31:56
こんにちは~(^^)
いいないいな~私も呼びたいみるきママ!いつも小さい事も見つけ出して褒めてくれる最高のママだな~って、ぴったりだって私も思いました!

気になって私も『ADHDとリス』検索してみました!かな~りうけました 笑
本当にひとつひとつピッタリ当てられていて、やっぱりそういう種類の違った個体なんだなと妙に再確認・・・^^;

『リス』は日本で言う『ハト』くらいの存在らしい・・・と見て私の日常を振り返ってみると、めちゃくちゃハト追いかけてましたわ 笑 「ハト!」って会話の途中で指差してましたわ 笑 それも書かれている通り、「ねぇ見て見て。ハトがいるよ~」とかじゃなくて「ハト!!」衝動のままに考える間もなく口から出てます~

それに私自身がまさに『リス』かも・・・。あの高速のキョロキョロ感!動く時の高速スピード!さらには自分で大事に仕舞いこんだ木の実を忘れるだとぉ~?!・・・私じゃないですか 笑 リスに完全一致じゃないですかΣ(゜o゜)

あすなろさんは、リスなのかな~。答え見るの楽しみだなぁ^m^

料理の話は、私が怒ると3倍速で仕事が捗るのと同じ仕組みかなぁ。まぁしかし、動き出した時とやる気の出ないときの差は本当に凄まじいんですよね~。仲間がいてなんかうれしいです 笑

みるきさんは完全自己中なねこ 笑 いますいます!うちにもそんなねこが 笑 実家にも本物の猫を飼っていますし、そんな母は子供の頃からずっと猫を飼っていて猫グッズ大好きな完全猫好き人間。そして選んだ伴侶はアスペ父。やっぱりアスペ好きは猫好きが多いっていう事なのかもですね~。おもしろいです^m^
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/11/03 (Thu) 00:48:57

>みるきさん、noaさん

そんなにウケるとは!
しかも、noaさんは、ご自分でもリスだと思われるんですねー!

紹介しておきながら、自分を動物に例えて考えたことなかったなぁ。
で、色々考えてみたら……。

私は幼い時は、本当にぼーんやり、というより、ぼさーっとした子で、ほとんどうごかなかったんですよ。動きも鈍臭いし、いつも口をポカーンと開けているので、親に『口を閉じなさい!』ってよく注意されてた。

なので、その頃は、コレだったと思います!↓

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヨタカ

で、高校くらいからスイッチ入って、多動が結構出るようになって、学生時代に先輩が『お前って、こういう歩き方するよな?』と言って私の真似をした姿は、ニワトリでしたねー!
あ、にわとりさんも、ご自分で、歩き方がにわとりに似てるから、とおっしゃってましたね。似てるのかも?

スイッチが入る時と、入らない時の差が激しいので、ヨタカとニワトリを行ったり来たりって感じでしょうか??(^_^;)

あと、おしゃべりが止まらなくなることがあるので、ヒバリみたいだなと思うこともあります。

鳥系ばっかり!

リスのネタは、海外では、こんな風に自分の特性をオープンにしてるんだなというのが分かって、面白いなと。
日本でもオープンに話せるようになるといいのになと思います。

で、ちょっと前に、こんなのが流行ったので、こういうの、もっと増えるといいのになぁと。↓

http://togetter.com/li/958224 ADHD名作劇場

http://togetter.com/li/958218 ASD名作劇場

不謹慎だ!みたいな批判もあったんですけど、そうかな?すごい的を得ている気がするんですけどね。
特にADHDは、激しく頷けるものが多いです!
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • みるき
  • 2016/11/03 (Thu) 09:27:16
noaさんへ^^

こんにちはー!『ADHDとリス』調べましたか!!あれすごく面白いですよね。リス可愛い!って微笑ましくって笑いました。
noaさんはリスっぽいですかー^^そっかー。くるくるよく動いてエネルギッシュで元気いっぱいなのかなー?そうかそうかー。
あすなろさんはまた少し違う感じみたいだしこういう例えもすごく面白いです^^同じ特性だーとか言ってもやっぱりみんな一人一人違ってるんですね。苦手だった生き物にもなんかそう考えるとほんの少し(少しかいっ!(笑))親しみがわいて興味がわいて楽しいです。

「さらには自分で大事に仕舞いこんだ木の実を忘れるだとぉ~?!・」←これ!これ~WWW
私も昨日相当笑いました!可愛い!!かわいすぎる!なんて愛らしいんだーリスさんよー。
でもそれと同時に思いました。
リスがもしも木の実を忘れてくれなかったらもしかするとそれを食べて生き延びられていた生き物が生きられなくなるかもしれない・・もしリスがその木の実を忘れていなかったら、そこから目を出し大きくなる新しい木は生まれなかったかもしれない・・そうやって考えてみるとリスが忘れてくれたことで繋がっていく命があって育まれていくものがある。だったらリスはとても素晴らしい命の循環を生み出してる伝道師とも言えるのかもしれないなーなんてぼーっと考えちゃいました^^

あすなろさんのコメントもすごく面白そうで興味津々だけど、私はふらっと遊びに行きたい気分なのでちょっとまた遊びに行ってきます~。

じゃあまた。


Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/11/05 (Sat) 08:08:21
すごい記事、見つけちゃいました!!

私が家族を見ていて思うこと、おそらく、ここまで表現できないにしても、息子が言いたかったことではないかと思います。
余すところなく、書かれています。


アスペルガー(自閉症スペクトラム)特有の想像力の欠如について http://menhera.jp/835


無題
  • blue
  • 2016/11/06 (Sun) 15:28:05
あすなろさん

アスペルガー特有の想像力の欠如の記事、読みました。
納得できるなぁと思いながら読んでいました。

私がかわいがっているアスペの子が、友達や大人とうまくいかない話を聞きました。
私の前ではとても素直でいい子なのですが、やはりそういう一面もあるのだなと。
まさしく、この主観でしか見れないことから生まれるトラブルでした。
発達段階的に、友達との衝突も増えてきているようです。

「ない」ものを求めることはできない。
こうなってくると、彼の主観を広げることが解決策なのでしょうけど、その方法は全く思いつきません。
あすなろさんの息子さんとのやりとり(高校についての会話)もここから来てるのでしょうね。

ぐだぐだな内容ですみません。つぶやきたくなって、書き込んでしまいました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ちひろ
  • 2016/11/07 (Mon) 15:22:40
突然割り込んで申し訳ありません。

■あすなろさん、blueさん
あすなろさんの息子さんやblueさんのかわいがっているアスペの子供さんが想像力の欠如(主観でしか見られないこと)によって起きているトラブルって、例えばどんなものなんでしょうか?
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/11/07 (Mon) 21:21:55
>blueさん

何かヒントになったのなら嬉しいです。
そのお子さんは、blueさんが分かってくれるので、頼りにしているのでしょうね。分かってくれるというより、何を言ってもやっても、受け入れてくれると信頼しているんだと思いますよ。
分からなくても、『そうなんだね』と聞いてくれるだけでいいんですよね。

息子もとりあえず、私にはあれこれと話しますが、やっぱり最後には平行線になって、あれれ?何を言ってたんだっけ?ということの繰り返し。
以前はそれでもお互い『なんで分からないんだよ!』とやり合っていましたが、私はここに出会ったことで、行き違いのカラクリがなんとなく分かるようになって、笑い話に出来るようになりました。

息子は、定型との行き違いがあまりにも多かったので、『まずいな』と感じたらそれ以上踏み込まないと自分で決めているそうです。
友人との関係も、自分を出さずに相手の話にひたすら耳を傾けるという具合で良好に保っているんだとか。

そこまで割り切るのはどうなんだろうと思いますが、息子はそれが楽で、楽しいんだそうです。


>ちひろさん

具体的には、私の知る範囲は限られていますが、中学時代は、とにかく友達と足並みが揃わず、揃わないことを指摘され傷つき、それに対して怒ったことで、さらに責められるといった悪循環でした。

思い出せることと言ったら。
部活で、先生から、体育館全体を『片付けなさい』と部員全員に指示がありました。
息子は漠然と片付けなさいと言われても動けず、狭い範囲をひたすら片付けていたそうです。
しかし、他の子にとっては、息子が1箇所だけにとどまっているので、『怠けて適当に済ませようとしている』と映ったようです。
先生もそう思ったらしく、みんなが一所懸命やっている時に、何をやっているんだと叱りました。

他のことでも、息子は怠けたり、突然怒り出したりする『面倒な子』と見られていたので、いつも輪を乱すということで、嫌がらせを受けたりしたんですね。

私は、後日先生に、息子が単に片付けなさいと言われると、範囲が分からないので動けない、ということを説明して、やっと分かってもらいましたが、定型は、『片付けろ』と言われたら、周りと協力して全体をまんべんなくやるものだと思い込んでいるので、まさか具体的に範囲を指定しないと分からないとは思わないんですね。

本当にこういった細かいニュアンスの違いが、大きな誤解になってしまうようです。

まあ、こう言った経験を経て、息子は、blueさんのお返事に書いたような対人スキルを自力で考えついたんだそうです。

定型とは感覚が違う。だから余計なことを言うより、お互いにわかりやすい話題を通して仲良くなれればいいやという考え方みたいです。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ちひろ
  • 2016/11/12 (Sat) 14:28:12
あすなろさん

お返事頂いてありがとうございます。

曖昧な指示が通らないことも想像力の欠如のひとつになるんですね。
想像力というか、客観的に見られたら曖昧な指示でも状況を見て動けますものね。
しかし曖昧な指示がわからないのは障害特性で私達にはどうにもならないことですから、本人に何とかしろと言われたり、人間性の問題だといわれるのは抵抗が消えませんね。

再び質問になるのですが、あいまいな言葉がわからないのに友人とのスキルは身につくのでしょうか?
私は彼とか知ってる人とトラブルになったので。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • blue
  • 2016/11/13 (Sun) 20:56:44
あすなろさん

息子さんのお話、関わっている子供たちの今後のこと、そして、私が今友人としてお付き合いしている彼の過去のヒントとなるエピソードだなと思いました。難しいことがある中で、自分なりに、自分らしくいられる生き方を見つけている息子さんの姿に勇気をもらいました。ありがとうございました。


ちひろさん

遅くなり、申し訳ございません。
想像力の欠如からくるものかはわかりませんが、
例えば、Aくんがみんなに迷惑になるようなことをしていました(その時に必要のないものを持っていました)。BくんがAくんを注意しました。Aくんは止めないので、BくんがAくんの持っていたものを強引に取り上げました。Aくんは、怒り、そこにいた大人にも注意され…自分の気持ちをコントロールできなくなったそうです。私はその場にいなかったのですが。
確かにBくんが強引に取り上げたことは、Aくんに対して適していないのはわかります。定型がよく解決法として行うのは、どちらも悪いとことがあり、お互い反省して、謝り直していくということです。
Bくんは定型なので、自分の非を認め、Aくんにあやまることができました。しかし、Aくんは、あんなに強引に、強く言われたことにすごく捕らわれ、何を言っても、それ意外のこと(自分が周りに迷惑をかけてしまったことや、そのことで周りがどんな思いでいたか、など)が入りません。なかなか謝ることもできません。AくんがBくんの視点で見ることができないのが、想像力の欠如からきているものなのかなぁと思ったわけです。

子供の話なので、その子の性格や発達段階でそうなっている可能性もあるので、そのことはご考慮ください。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ちひろ
  • 2016/11/16 (Wed) 14:29:35
■あすなろさん
息子さんは笑いに変える才能があるんですね。羨ましいです。
息子さんも辛い思いをなさって身に付けた結果なんでしょうけど、社会でも場を和ませる人は重宝されますから笑いの才能を磨けると大きな武器になると思います。

■blueさん
A君の想像力の欠如のお話よくわかります。
私も子供の頃は相手の状況かまわず、店の人にべらべら話しかけて仕事の邪魔をしたり、待ってる時間が長くてじっと待つことができずに美容院の待合室を駆け回ったこともありました。
母がその度に理由をつけて説明をするのですが、何故怒っているのかさっぱり分かりませんでした。
見かねた知人から頭を殴られ、親でもないのに殴ってきた知人を恨みました。
私は小心者だったので、相手からの報復を恐れてその場では静かになりましたが、知人には私の不満な様子は伝わっていたでしょうね。
今は怒られた理由は理解できますが、嫌な記憶は忘れにくく、殴られたトラウマは未だに強いです。

今回のお話はA君が悪いと思いますが、当時の私と同じなんですね(私は今でも同じようなことをやらかしてるのかも汗)。
悪いことをしていると言われる意味は本人がさっぱりわかっていませんから理屈は通用せず、理由がわからないたま怒られるから傷つく(結果さらに反発する)、かと言って甘やかしたままでは何も成長しない。
今は根気強い説明を繰り返し、あとは彼の成長に任せるしかない思いますが、それまでの周りの支援が大変ですね。

参考になったともに自分を振り返る材料にもなりました。あすなろさん、blueさん、お返事頂いてありがとうございます。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ちひろ
  • 2016/11/16 (Wed) 14:36:03
■かぼちゃさん
仰るようにお金がないと言ってる奴からプレゼントについて聞かれても、彼もあまりいい気分ではなかったと思います。こういったことを普段からやらかしていたなら周りが愛想をつかすのは当然だと思います。

ただ私は「あなたのために手伝いに来た」とか「料理を作ってあげた」とか思っていません。
彼の満足いく料理が作れなくても彼に不満を持っていたわけではありません。
彼に看病や家事を頼まれてやっていましたし、料理が無理でも、少しでも彼の負担が軽くなるならと掃除や洗濯などできる範囲のことをやってました。
彼は感謝はするし、何かと理由をつけてイチャモンをつけるような人ではありませんが、「努力すればできるものだ、できなければならない。できない奴は人間ではない」と思っています。

私が料理ができないので、彼が料理をやっていましたが、「普通なら愛する人のために料理の腕を上げようと努めるのにおまえは何もしないじゃないか。しかも恋人が病気なのに料理をしようとしないのはおまえだけだぞ」などとその都度言われるわけです。
知人にアドバイスをもらい、数人に味見をしてもらった上でokが出たものを彼に出してましたが、全てだめでした。

たばこの件でのどの痛みに耐えかねて彼の家に行かなくなったこともあります。
「たばこの煙が理由でのどが痛くなるなんてあり得ない。それが理由で恋人の家にずっといられないというのはおかしい。たばこの煙に耐えて愛する人の好きなようにさせてあげるのが心ある人というものだ。いつどうなってもおかしくない恋人がいるのにちひろは自分の体を優先するんだな」と彼や彼の友人から責められるわけです。

彼がたばこを吸いたいなら吸えばいいし、夜遅くまで飲みに歩けば良いです。
しかしのどが痛いからたばこを吸うときだけ窓を開けてほしいというのは私の我儘なんですか?
換気のどの痛みに耐えかねて自宅に帰った私は冷たいんですか?
彼の要求するレベルの料理を作れなくて、病気の彼が料理をするはめになって彼から嫌味を言われるのは、私の努力が足りないからですか?
彼が今我儘言わなくていつ我儘を言うんだと仰るかぼちゃさんの言葉を聞くと余計に追い詰められます。

■果物さん
フォローして頂いてありがとうございました。

■みるきさん
私の理解力に問題があるのだと思います。申し訳ないですが、どういう意味でしょうか?
ポリティカル・コレクトネス
  • あすなろ
  • 2016/11/19 (Sat) 09:01:59
今までの内容をぶった切ってすみません。
これは別の投稿として読んでいただければと思います。(あくまでわたし個人が考えたことから考えるアスペ定型問題ということで(^^;

トランプさんが次期大統領に決まって、盛んにこんな言葉が聞かれるようになりました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ポリティカル・コレクトネス

ポリコレとか略して、話題になっているので、パリコレとか、ファッションの話題かと思っていた私。(爆)

でも、この意味と、アメリカでずっとくすぶり続けていた感情を知ったら、どうやらアスペ定型にもこの問題は関係が深いなぁと感じました。

ポリコレは、あらゆる差別に対して適応するものですが、今のアメリカでの大きな問題は、白人が黒人や有色人種を差別しないようにという意識が大きい。白人が、有色人種に対して、『差別と取れる』発言や言葉遣いをした時、厳しく咎められるわけです。

しかし、問題なのは、その制約が行き過ぎて、白人が何気なく黒人(この言葉もポリコレを適応させたらアウト!)に掛けた言葉に過剰反応し、悪気のない白人が理不尽に責められるということが起きていたわけです。

すると、白人というだけで下手な発言が出来なくなる。黒人の相手に対して言いたいことがあっても言えない。黒人の相手からは言いたい放題言われて。そんな逆差別が各所でくすぶっていたんですね。

トランプさんの発言などは、私も受け入れ難いですし、彼が大統領になることに云々は、別問題なのでここには書きません。

ただ、反ポリコレ感情が、トランプ氏の、過激過ぎる発言すらも、『よく言った!』と受け入れてしまうことは、恐ろしいなと感じました。

それを証明するように、アメリカ全土で、有色人種や、移民や、イスラム教徒を襲う事件が相次いでいるようです。

アスペ定型に限らず、障害者と健常者という枠組みで見て、アメリカまで行かなくても、行き過ぎたポリコレと、それに対する批判が起きていると、私は感じます。

少し前に、バス会社の人から書き込みがありましたよね。
アスペの人が、バスの運転手に文句を言って、バスの運行を妨げるという話。
アスペだからといって、業務妨害を放置している支援機関。
真っ当に社会ルールを守っているアスペの人がほとんどなのに、こういった人を放置することで、アスペが社会ルールを守らなくても許される存在だという偏見を与えてしまいます。

こういった大きなことで無くても、アスペという呼び方で、何かを判断したり、必要以上に敏感になったりすることはたくさんありますよね。

アスペに限らず、他人の障害の度合いを勝手に決めて差別する人もいれば、勝手に擁護する人もいる。

例のごとく、ツイッターにて、私は、
『障害は個性などでは無い。障害は、本人がそれを持ちながら一生克服していかなくてはいけない課題である』
と呟いたことがあります。

それに対して、特別支援の教員などから、『障害を負っている人はそれに悩まないで、みんなと同じだと受け止めるべきだ』と反論が来ました。

でも、それで問題が解決するんでしょうか?
そうやって個性だと、問題を矮小化する人がいる一方で、障害者だから変わったことをすると差別する人もいる。

私に反論してきた人は、よくよく対話してみると、当事者ではなく、障害のことを詳しく知らずに、建前だけで、障害を強調するべきでは無いと言っていた。
これもある意味、ポリコレの精神が強く出ているんだと思います。

差別することはいけないけど、言葉や心意気だけで思い遣ろうとすることは、どこかチグハグです。
本質を知らずに、差別はいけないと主張することは、逆差別を生む。
逆に当事者も、自分の障害のどこが課題なのかが見えていないままで、健常者に責められた、いじめられたと主張することも、同じ事です。

それは、責められたわけでも、いじめられたわけでもなく、ただ、相手が『知らない』だけ。それを説明する方法を知らない自分の側にも問題がある。

すると、一番先にやらなくてはいけないのは、当事者が自分を『知って』説明できるようになることであり、社会も性急に、各障害を持つ人の認識を広めていくことなんだと思います。

今の社会は、アスペに関する情報をほとんど持っていません。同じく、ADHDや学習障害も。
正しい知識も無いのに、その『名前』だけで、あれこれと議論することほど愚かなことは無いのですが、障害者の合理的配慮が義務化されるなど、制度ばかりが先行してしまっています。

これが行き過ぎると何が起こるか。

健常者だって生きるのに大変なのに、なぜ障害があるからって、一方的に気遣わなくちゃいけないんだ!という、反動です。

障害は個性では無い。
本人は生まれた時からそれと向き合ってきている。
それを無いものとするわけにはいかない。

自分と向き合うことが大きければ大きいほど、相手へ配慮する余裕は無くなる。余裕のある人が配慮してくれるのはありがたいけれど、それよりまず、自分と向き合って奮闘している当事者を讃え、尊重することが先ではないでしょうか。

つまり、障害者健常者に関わらず、誰もが自分の課題に、自分で向き合い、相手が向き合っている課題が分からなくても、静観してあげる。必要な時には、正しく援助を要請し、それに応えるか応えないかは相手に任せる。

ポリコレなどで相手を尊重するよりも、よほど実用的で弊害の少ない方法だと思うのです。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/11/19 (Sat) 21:54:55
あれ、ウィキのアドレスがちゃんとコピペできていませんでした。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ポリティカル・コレクトネス#

これで大丈夫でしょうか?
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • Katz
  • 2016/11/20 (Sun) 16:17:22
全角文字が入るとURLを正しく認識してくれないようですね…
二重引用符で囲ったらどうでしょか?うまくいくかな?
"https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ポリティカル・コレクトネス"

私も「言葉狩り」は大嫌いです。臭い物に蓋をしただけで、問題の解決になってない。的確な言葉を失って、文化の破壊になってしまったり。それで救われる人もいるのかも知れませんが、本当は個別に心のケアをしなきゃいけないんですよね。さもないと別の所で思わぬ形で噴き出す事になります。

余談ですけど、受け入れる事で次のステップを踏み出した当事者は、差別用語を自分で平気で使ったりしてますね。まぁ私の見るインタビュー記事なんて、そういう人を選んでるからかも知れませんが…
Re: Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/11/20 (Sun) 18:56:30
もう、Katzさんの貼り付けてくれたものまでぶつ切りになってる!
笑っちゃったじゃないですか!
いやいや、フォローしてくださってありがとうございます!

その上の失敗したコメが削除できなくて、すみません。(^^;

興味がある方は、検索してください。(←投げた!)

言葉に過剰に反応するというのは、ネットの中でも問題になっていますね。ネットこそ、言葉の世界ですから、それが使われた背景を探ることなしに決めつけてしまうことがとても多い。

それがまさに炎上と呼ばれるものでしょう。

Katzさんのおっしゃるように、よく、当事者の方が自分をへりくだったり、多少揶揄するような感じで自分の障害を語ることがあって、それを見た定型者か、あるいは違う特性を持つ人が、『そういう言い方は、当事者の気持ちを分かっていない!』と非難することがあって、なんだかなぁ、と思うことがありますね。

大事なのはその『言葉』じゃ無くて、内容。
言葉に囚われてしまったら、その人が何故そんな発言をしたのか、探ることもしないで思考停止になってるんじゃないかと。

けれど、残念ながら、言葉にとらわれる人が増えているなぁと感じます。


Re: 『空気が読めない』という排除は、偏った躾に問題がある
  • あすなろ
  • 2016/11/24 (Thu) 10:52:14
いきなり題目が挑戦的ですみません!

リアルで勉強しながら、他のところで様々な情報を集めながら、最近行き着いた考えです。

どうしてアスペと定型の間の感じ方に大きな差があるのか?

私は幼い頃からの躾がポイントだと感じます。
躾といっても、親が意図して与えているものに限らず、親の振る舞いを見て、子どもが習得するものも含みます。

ADHDの方が、面白い漫画を描いていました。
ADHDも、状況を理解したり、適切な反応をするのが苦手な人が多いので、『空気が読めない』振る舞いをすることが多いです。

その方は、幼い頃、親から表情を学ぶことが出来なかった。今でも、適切に人へ関心向けることができないと、ご自分で分析されている。
その作者さんが、姪御さんが生まれて、定型の姪御さんの成長を見て、発達障害者と健常者の成長はこんなに違うのか!と驚かれた。それをネタにしているのです。

まず、姪御さんが、誰に教えられたわけでもなく、相手に『笑顔』を見せること。会話が成立するようになる3歳くらいから、相手の様子を気遣う会話が出来ることに驚かれています。

姪御さんは何故それを覚えたか?
親の表情や振る舞いを、自然と『コピー』できるんですね。

作者さんは、姪御さんの笑顔を見て、『かわいい』と思うし、幼いながらも気遣ってくれる様子を見て『嬉しい』と思う。
自分の心が、それによって反応することを知るわけです。

けれど、自分の幼少期を振り返ると、相手がどういう反応をするかなど、眼中に無かった。そこまで意識が向いていなかったと思い返す。

定型が自然と振る舞いを身につけられるのは、なんて便利なんだろうと思うわけです。

こうした基本的な振る舞いに加えて、今度は『言葉』が入ってきます。この言葉には、相手がどういう反応をするのか、これを言ったら相手が喜ぶとか、傷つくとか、そういったことを判断することが求められます。

笑顔と同じように、自分がそれを言われたら嬉しいけど、自分はどういう言葉遣いをすれば相手が嬉しいのかわからない。
これは、相手によって反応が違うので、より複雑です。

それに、言葉は『文化』によって作られますから、言葉への反応は『条件反射』によって作られていると言ってもいいのではないかと。

例えば、『バカ!』と言われて、日本人は怒りますが、他の国ではバカという挨拶があるそうで。その国では好意的なコミュニケーションになる。

つまり、育った環境によって、その言葉にどんな感情を持つかは『条件反射』であると言えます。

これは、国だけでなく、地域や家庭によっても変わってきます。そして、何よりも、定型が反応する言葉と、発達障害者が反応する言葉が、大きく違うということもあるでしょう。

言葉というのは、実体の無いものですから、それが良いか悪いかの判断に普遍的なものはないと言えます。

それと同時に、より複雑な、音声言語ではない言葉(表情や雰囲気)は、もっと正解がない事になります。

つまり、『空気を読む』ということですね。

日本は、この『空気』をすごく限定してしまう傾向があると思います。
全く辻褄の合わない事柄を、縁起が良いとか悪いとかで判断したりします。

これこそ、日本文化の『条件反射』なんですね。

日本人の定型は、最初に書いた漫画の姪御さんのように、本当に小さい頃からその条件反射が身についていく。

すると、それ以外の条件に出会った時、『おかしい』『不安だ』とう考える傾向にあるんじゃないかと。

よりシンプルな、笑顔や好意的な仕草に反応するのを超えて、『暗黙のうち』とか『逆説的』といった複雑なコミュニケーションを作り出していて、それに条件反射的に従うのが『正しい』とう思い込んでいる節があるなぁと感じるこの頃です。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/01 (Thu) 15:21:40
Katzさんのお話とリンクするのですが、その前から、発達障害者の感情について、考えを整理していました。

あくまで私の意見なんですが、最近、発達障害について、有識者(教育関係者、心理士、医師)の話を聴く機会が頻繁にあったので、現時点での一般論に、さらに自分が当事者として実感することを加えて、考えてみたことで、自分でもかなり有効な説ではないかなと思っています。

やっぱりおかしいさんが、再三、私が定型にいじめられたとおっしゃっていますが、そう感じられてしまうのは何故かという、一つの視点でもあるかと思います。

まず、ココチさんのお返事でも触れたことがあるのですが、性格と障害の特性は、別物であるということと、その障害の特性を持ちながら自分を活かすというのは、健常者が想像できるようなものではないし、障害者同士でも想像できないものだということを、前提としておきます。

例えで言えば、生まれつき視覚に障害のある人は、物事を注意深く考えられる人かどうかという議論に似ています。

注意深いかそうでないかは、性格によるものです。
しかし、視力に障害があるために、何を手掛かりにして注意を向けるかということになりますし、表面的には取りこぼしている情報が多くなって『不注意』と見られてしまうことがある。

そういった違いを言いたいのです。

なので、ココチさんが示された性格傾向の分析は、個人の傾向であって、その個人が障害を持っていることで、本来の個人の性格傾向とは、別の性格傾向に見えることがあるということです。

私はそれを主張したかったのですが、ココチさんはあくまで性格に過ぎないと、ご自分の主観を曲げなかった。
それを、やっぱりおかしいさんが『いじめた』と捉えたのではないかということです。

ただ、ココチさんだけでなく、パンダさんやトマトさんなど、ある程度健常度が高い方は、ここの認識がどうしても理解できないんだと思います。

さらに言えば、発達障害を持っている本人でさえ、ここの認識は難しいと思います。

それは障害によるものなのか、単なる努力不足か、視点の置き方の違いか、区別できる人は、専門家でもいないからです。
また、『できない要素』が、それらが混ざり合った状態になっていることがとても多いし、二次障害などが絡むと、克服可能かどうかすら分からなくなってしまいます。

……ということを前提として、私が自分自身で、ここが特性、ここからは性格と分けて考えている基準をお話していこうかと。

Katz式(敬称略!)に、気が向いたときに書き足していく連載方式にしたいと思います。

(と言いつつ、前置きが長過ぎましたねー!)

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/12/01 (Thu) 23:54:16
ここちさんがあすなろさんをいじめたとは言ってませんよ。
「定型はアスペいじめはしない。思い込みだろう。もしするのであればアスペに問題があると思いこんでいる人が多い」と言ったのです。

そしてあすなろさんや誰かが解説しても無駄だということです。
じゃなければあすなろさんは叩かれませんよ。
いじめたとは違いますからね。

明らかに、健常者とちがうところ
  • あすなろ
  • 2016/12/02 (Fri) 08:03:37
人が持っている性格傾向に、アスペとか、ADHDとか、定型とか、そういう線引きはできない。
あるいは、発達障害は、医師でさえ診断を誤る。

これは事実です。

でも、私は、医師の診断を受けていなくても、自分の障害を実感しています。その違いはどこにあるか。

それは、何かを成し遂げようとした時、その努力する過程で、自分を律することが出来ないことが、あまりにも多い。
こうしようと思っていたのに、こうなってしまった、という無自覚な失敗があまりにも多いということです。

ずっと、私個人の努力不足や、意志の弱さだと思って、さらに頑張っていました。そうすると、ますます大変なことになる。そして、初めはそれほど被害がなかったものが、被害が甚大になってしまうのです。

私の障害とは、私の身体を、私の意志でコントロール出来ない、というところだと思います。

このコントロールの効かなさがどのように出るかで、ASD、ADHD、LD(学習障害)と分類される。そう捉えています。

LDと公表したトム・クルーズは、文が読めない障害です。
なので、台本を読まずに、彼独特の方法で演技を身につけるんだそうです。

つまり、コントロールの効かない部分を、別の方法で補い、結果を健常者と同じにすればいいというスタンスで生きていくのが良い。

それでも、結果を出すためには、健常者が考えるような『努力の仕方』では、全然足りないし、そもそも、その方法がまるで違ってユニークだということです。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/03 (Sat) 15:53:03
具体的に、私の特性は何か、どうやって工夫しているか、ということですが。
これをきちんと認識できるまで、本当に時間が掛かりました。

親も、祖父母も、心配だからこそ、厳しく叱ったり、余計な手を掛けたり、検査に連れて行ったり、それでもいいんだよと慰めたり。
色々やってくれたのは分かりますが、全てが裏目に出たという。
お陰様で自尊心は無く、誰かに依存しないと自分で判断できない人間になっちまいました!
(もう、ほんと、なっちまった!という言葉がぴったり!)

私の年代だと、ほとんどそんな対応をされた人ばかりでしょうね。

結局、同じように無理解な育て方をされた夫と一緒になったはいいものの、夫とは特性がまるで違うので、お互いに『どうしてこんなことするんだ!』と相手を教育してやろうと必死。
立場が弱い私がボロボロになって鬱で倒れるという有様でした。

鬱になって、堂々と精神科に掛かるようになって、自己分析の機会を得ましたが、それでも医者は発達障害を見抜けませんでしたね。

性格分析や、様々なテストで、自分の傾向を知ることができましたが、その時は弱り切っているので、「だから何?」状態。

後で考えたら、この各種テストや性格分析が、自分の特性をよく表していたし、前向きに考えられたら、すごく有効だったのに!と思います。
私の特性
  • あすなろ
  • 2016/12/04 (Sun) 17:19:24
私が、これはADHDの特性だなと感じるのは、

物事の手順を上手に考えられない。
予測を立てるのが苦手(これをやったら、どういうことが起きるかという考えが甘い)
一つの作業に根気強く取り組めない。
どこに何を整理したらいいのか混乱する。
相手の言っていることが深く読み込めなかったり、勘違いしてしまうことが多い。

体調面では、
非常にパワフルな時と、動けない時の差が激しい。
活動停止状態の時は何も考えつかないし、身動きも出来ない。

その他もろもろありますが、これらを克服しようとしても、直接コントロールの利かないものだというところでしょうか。

実際に精神科でやった検査には、この原因となるものがはっきりと出ていたと記憶しています。でも、守秘義務とか何とかで、本人には結果が手渡されなかったんですよね。

覚えている限りは、短期的に言われたことを記憶しておくこととか、口頭で告げられた計算問題をその場で解くという課題が、考えられないレベルで出来なかった。言われたことをある程度覚えていたり、その意味を正確に捉えることが出来ないということです。

また、交感神経ホルモン(活動しているときに出る)がほとんど出ていなくて、副交感神経ホルモン(休んでいる時に出る)ばかりが出ていたとか。

これは、ADHDの人に起きやすい、低覚醒状態の時に検査したからだと思いますが、自分ではこの状態の時は、自分のことを、『冬眠中の熊になったみたいだ』と感じています。

つまり、そもそもの認識機能や、身体の活動機能に、大きな不具合があって、自分ではコントロールできない状態だということです。

発達障害者は、こういったどうにもならない不具合をいくつか持っていることがある。その特性は、いくら同じADHDだと言っても、個人で違うということです。
Re: 私の特性
  • あすなろ
  • 2016/12/05 (Mon) 10:10:07
実際に、何も工夫せずにいると、仕事をする上で、問題多発します。

指摘されたミスを何度もやってしまうので、仕事が短期間で確実に覚えられない。失敗や勘違いが多い。

遅刻、あるいは遅刻ギリギリのことが多い。

雑談から、相手の情報を得られない、または覚えていられないので、コミュニケーションが取りにくい。
(例えば、誰かが離婚したという情報を、みんなが知っているのに、自分だけ知らなくて、旦那さん元気?とか、声を掛けてしまう)

体調が安定しないので、動くのがしんどくてミスが増える日がある。

などなど、です。

私も、自覚するまで、自分の状態が健常者とそんなに違うと思っていなかったので、なぜ、自分ばかりミスをするのか、自分ばかり責められるのか、常に落ち込んだり、イライラしたりしていました。

上に挙げたような問題が起きれば、いくら穏やかな人でも、『失礼な人!』と思ったり、自分の仕事もやりにくくなったりして、穏やかではいられなくなります。

私の行動を、直接叱責する人は少なかったんですが、多くは、内心イラつきながらも、仕事を回さないとか、被害の少ない当たり障りのない雑用をさせておくとか、やんわり排除という方向に行きます。

もし、私が相手の立場でも、イラっと来るだろうなと、今なら分かりますね。

何も工夫しなければ、こんな状態ですが、独特の工夫の仕方で、『出来る人間』にはならなくても、『出来ない人間』をある程度、脱することは出来ます。
Re: 私の特性
  • あすなろ
  • 2016/12/06 (Tue) 08:27:41
具体的な工夫について

これは、スキルを高めるとか、繰り返し練習するとか、無理な鍛錬を強いるとかではないです。

全てにおいて、認識を、自分目線に変えて検証していくということです。

ここが、健常者の工夫とは、明らかに違うところなんですね。
だけど、この工夫が実際効果を上げるには、とても時間が掛かる。
さらに、失敗経験が無いと、認識の仕方が分からないので、数々の失敗経験を積むことが必要になります。

その間、健常者から見れば、『迷惑なヤツ』だったり、指導したことが身につかない『ダメな人』となってしまうのは、仕方のないことです。
相手は、何とかその職場の一馬力に育てたい、あるいは育てなければならない責任があるので、待っていられないし、結果こそ全てなのですから。

職人や芸事をする人は、一人前になるまでに数年、長くて10年とかいうものもありますね。
本来なら、仕事を適職にするためには、そういう準備期間を設けるものなのだと思います。

ひとつひとつ、見よう見まねで覚えていって、覚えたものを自分のやり方に直していく。

これなら、発達障害者も、その仕事をしっかりと身につけられるはず。しかし、世の中が、超スピード社会になってしまったため、わざわざ考えなくても多数派と感覚的に一致すれば、団結してもっともっと多数の仕事が出来ると思い込んで、どんどん仕事を増やし、こぼれた要員は切り捨てていく。
多数派と感覚が一致しない発達障害者が、真っ先に切り捨てられるのは必然になってしまったんです。

その中で救いは、多数派に合わないからといって、不当解雇は出来ないということです。そうすると、職場によっては嫌がらせの応酬がある場合がありますが、それに屈せず、自分なりの仕事の身につけ方を地道にやっていけば、数年越しに、『必要な要員』『定型に劣らないくらいの仕事はできる』ようになると思います。

もちろん、嫌がらせが酷い場合は、その職自体が、それだけの価値しかないロクな職場でないということが大いにあるので、それを見極められるだけでも儲けものです。

要は、心を折らず、コツコツと、自分の目当てだけを見つめていくということです。
Re: Re: 私の特性
  • あすなろ
  • 2016/12/06 (Tue) 09:48:10
続けます。

本当に細かい部分で、認識の仕方を変えるという具体例をあげます。

お名前何度も出して、申し訳ないのですが、かつて、にわとりさんが
にわとりさんが掃除したところは、すぐに汚れる
と上司に言われて、掃除の仕方を練習した。
とおっしゃっていました。

これは、にわとりさんのやり方が悪いのでしょうか?

実際には、その現場を見ていない私には、全く分かりません。
なので、にわとりさんではなく、Aさんがそういう状況になったと仮定します。

この場合、いくつかの可能性があります。

1、Aさんの掃除が雑である。または、肝心なことをやっていない。

2、入った人が汚すことが続いた。それがたまたま、Aさんの掃除した場所と重なっていた。

3、他の人が掃除した場所も、実は同じくらいの頻度で汚れていた。しかし、他のことで目立っているAさんなので、Aさんが掃除した場所を、みんなが意識していた。

こういった要素は、ひとつではなく、複数重なることもあります。

すると、Aさんの掃除した場所は、すぐに汚れるという認識が出来上がってしまうのです。

これは私の憶測の範囲ではなく、実際にこういうことを体験して来たので、実感しているところです。

発達障害者ではなくても、職場では『あの人、ちょっとね』というレッテルを貼られやすい人が存在します。
もともと、人間など、同じ人は存在しないのですから、社交的な人、賑やかな人、孤独型の人、おとなしい人、色々いるわけです。

その中で、孤立型でおとなしい人は、割とターゲットになりやすい。
その上で、仕事の覚え方がゆっくりだったり、失敗が多いとなると、『あの人の仕事は信用できない』という認識が出来上がってしまいます。

職場を転々としたからこそ、私はこういうターゲットがどこにでも存在することを知っていますし、自分もそのターゲットになったことがあるので分かるのです。

自分がターゲットになったときには、なかなかその背景が分からないものですが、私以外の人がなると、そのカラクリがよく見えます。

ある時、こんなことがありました。

ターゲットになった人をBさんとします。
Bさんは、発達障害ではありませんが、物静かで、少し身体の弱い人です。

そのBさんは、反応が遅いため、多動な利用者に対応できないことがよくあります。けれど、静かな利用者には慕われています。

Bさんの特徴を考えると、性格の合う利用者の担当にするのが、管理者の務めだと思いますが、あらゆる利用者に対応できるようにしなくてはならないと思っているのか、Bさんが対応するのが難しそうな利用者も任せます。
ちょっと反応が遅れた間に、危うく事故が起こりそうになった。

しかし、その場には私もいたし、他の人もいた。Bさんのフォローは誰でも出来たのです。

事故にはつながりませんでしたが、Bさんは報告書を書かされました。

この件で、管理者と他の人が、『Bさんが担当すると、こういうことが起きるよね。しっかりしてもらわないと!』と言っていたので、私は『自分もいて、防げなかったし、他にも防げる場面はたくさんあった。Bさんだけの落ち度ではないのでは?』と言いましたが、『Bさんに、しっかりしてもらわなくちゃ、今後困る』という話で、押し切られてしまいました。

どのようにすれば、その仕事がベストの形になるのか。
そういうことを考えられない人が、かなり社会には存在しています。

イメージではなく、なぜ、そういう指導をするのか、どこを反省すれば良いのかが、分かっていない職場は多い。

つまり、本当に仕事をより良くするために必要なものは何か?

を、考えていくと、何でもかんでも押し付けられる業務の中で、重要なものは、数える程しか無かったりします。

なんでも出来てしまう人は、その差が分からず、自分の想像する動きができない人を『仕事の出来ない人』と見限る傾向にある。

個人的なイメージに惑わされず、本当に必要なものを見つけ出して、それに集中して努力することが必要なんです。
Re: 私の特性と経験から
  • あすなろ
  • 2016/12/07 (Wed) 09:35:11
個人的な手記みたいになってきました。
私的なことばかりですみません。
でも、何かのヒントになればと、続けさせていただきます。

長いので、特に興味のある方だけ読んでくだされば(^^;)


ちょうど最近、私に起きた出来事が発達障害者の人間関係の難しさを表しているなと感じました。

前に書いたように、私には『できないこと』が多いので、仕事でも日常でも『何が本当に必要なのか』をひとつひとつ判断して動きます。

予測不可能なこと(イレギュラー)には、ぱっと対応できないので、頭の中で、今日起きるであろう出来事をあらゆる側面からシミュレートします。

車の運転をするなら、『あの交差点では、どこに注意して、こういう事故の可能性があるから、ここで減速して』など……。


健常の人も、自然とやっているのでしょうが、私は『自然と』が出来ないので、徹底的に洗い出して、意識化に上らせる。そしてイレギュラーなことも、いくつかパターン化しておくのです。

しかし、問題は、こうやって意識化に上らなかったことが起きてしまったときです。

私は動けなくなってしまいます。

もちろん、その間も、過去の経験からあらゆる要素を思い起こして何とか対応しようと試みます。

それで何とか事なきを得たこともたくさんありますが、過去の経験に無かったり、思い起こすことができなかったときは、お手上げです。

ただ、この失敗経験は、ひとつの重要なデータとなって残ります。

短期記憶が悪い分、長期記憶に強いのです。

ただ、データが膨大になり過ぎて、どれを使っていいのか分からなくなることはあります。(笑)
また、短期記憶の時点で取りこぼしてしまった情報もあります。

この掲示板の、他の方の過去のお話は、ほとんどそんな感じで取りこぼしてしまっていると思います。



そんな私の特性と、ここでお話されているアスペの方の特徴と照らし合わせてみて、最近、自分の経験について、気付いたことがあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私が今の職場に入った時の上司は、私の行動をいちいち指摘し、否定しました。

新人は進んで動かなくてはと思っているので、気付いたことは何でもやるようにしていたのですが、
それを『勝手な判断で動くな!』と叱責される。

でも、ぼんやりしているわけにいかないので、自分でも『これだけは』という確信のもとに動くようにしていたんですが、それも否定されてしまう。

上司が否定すると、周囲も白い目で見るので、私は居場所が無くて辛かった時期がありました。


その否定される内容も、私が勉強したり経験してきた限りでは、正当なことなのに、上司は気に入らない。
時にはどうしても譲れないこともあって、怒り心頭だったこともあります。

上司はそのうち、別の部署に異動し、一気に気が楽になりました。



離れてから、その上司が普通に親しげに話し掛けてくるので、戸惑いました。

『この人、私のことを憎んでいたんじゃないの?何であんなに嫌がらせをしたのに平気なの?また私に恥をかかせようとしているのかな?』

しばらくは、疑心暗鬼でうまく応対できませんでした。

でも、離れたところでその人を見ていると、どうも私に嫌がらせをしようとしていたわけではなさそうだなというのを感じました。


ここで皆さんの話を伺っているうちに、『もしかしたらアスペなのかな』と思い当たる節が出てきました。
なので、そう思って接してみると、相手には悪意とかが無く、余裕がないだけなのでは?と思えるようになりました。



そして先日、職場の体制が大きく変わって、職員がそれについての心構えのようなことを語ったのですが、その人が、

『毎朝、その日やることを書き出して仕事に臨むのだが、そのほとんどが出来ないうちに終わってしまうので反省している。今後はもう少し仕事をこなせるように頑張りたい』

と言っていたのです。


そこでハッと気づきました。

上司が私のことを否定したのは、上司の組んでいたスケジュールに、イレギュラーなことを持ち込まれて、パニックに陥っていたんだと。

私が自分の特性を克服するためにやっていることを、その人もやってきて、何とかバランスを保っていたのに、そこへイレギュラーなことが持ち込まれると、それが正しいか間違っているかに関わらず、混乱してしまうのでは?と。

そう考えると納得できるなと。

『それは今やらないでほしい』という思いを伝えるのに、
無表情で、クッション言葉を使わずに、『ダメ!』と大声で制止されると、言われた方はどうしてもショックを受ける。

しかし、本人にはそこまでショックを与えている自覚がなかったんじゃないかと。


それまで管理者だった上司は、役職を外れたので、余裕が出来、親し気に話し掛けてくるようになったのかなと思うと、理屈が合います。


発達障害者は、『自分の視点』が狭い。
狭いからその中で、健常者と同じくらいの視点を持とうと努力している。

けれど、それは健常者の何倍もの努力が必要で、とても疲れます。
そのイライラが、どうしても自分でコントロールできなくなるときがある。


個人によって特性が違うので、
ときには狭い視点が噛み合わなくて、発達障害者同士でも衝突するし、
それは視点の広い健常者との関係よりも深刻になることがあるのではないかと、
今回の出来事から感じたのでした。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ぱんだ
  • 2016/12/08 (Thu) 00:17:36
なんかすごい体験ですね。ものすごい体験という気がしました。
Re: Re: 私の特性と経験から
  • あすなろ
  • 2016/12/08 (Thu) 21:31:58
>パンダさん

そんなものすごい体験でも無いのですが、おそらく、ここでアスペの方がご自分のことを語っているのを聞いていなかったら、単に『私は職場で排除された』『上司は弱いものイジメをしたひどい人間で、憎らしい』『私が至らないから排除されるのだ。ここがダメなら、他もダメだ』と考えていたかもしれません。

実際当時は、連日この上司から指摘を受け続けて、怒りと情けなさで、精神的に追い詰められていました。
友人には本音をぶちまけていたので、私の愚痴に付き合ってくれて、偶然にも相手が異動になったことを、心から喜んでくれました。

何年経っても、私は未だにその相手を心から信頼したり、肯定したりできません。

それは、相手が本当にアスペかどうか分からないからです。

アスペだと、本人が打ち明けることがあったら、信頼すると思います。
私を排除したように感じたことは、単なる行き違いだったと証明出来るからです。

しかし、相手がアスペでなく、定型だった場合、それは全く逆になります。相手は私を排除する気があったと証明される。

何故かというと、定型はそういう『言わずに雰囲気で察しろ』という方法を使うことがあるからです。
これは、私の経験上、多くの職場にそういう雰囲気があったからです。

つまり、私のやることをいちいち否定している時点で、
『あなたは、この職場に受け入れられていないのよ。あなたにこの職は合っていないのよ。はっきり言わなくても、自分から身を引くのが筋でしょう?』
という暗黙のメッセージがある場合があるからです。

上司に従って、同調していた同僚には、こうした意図があったと思います。

私とその上司と、一対一の関係だったら、単に『苦手な人』で済んでいたものが、私を苦しめたのは、こうした『定型の同僚』の暗黙のプレッシャーでした。

けれど、仕事に慣れてくると、はっきり言って、私の方が仕事が出来るようになりました。
そうなって初めて、同僚たちは私のことを認めるようになったんです。
本人たちは、そういう集団排除の連帯意識を持っていたことには無自覚で、全く態度が変わりました。今では親しくしています。

ここがおそらく、アスペの人が、悪意ある定型と誤解されやすい点なのかもしれないなと感じます。

定型が意図的に相手を排除しようとする姿勢と、アスペの人が単に、相手に合わせることなく自分の視点で動く姿勢が、とても似通っているということ。

そうでなければ、単に思うように生きているアスペの人に、定型が過剰反応して傷つくなんてことは起きないはずですから。

その見極めが出来るといいのになと思います。

さらに、自分の中で、湧き上がって来た不安感や怒りなどが、どこから来ているのか分析できるようになると違ってくるのかな?と。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/09 (Fri) 17:12:32
この記事が、どうして健常者は、発達障害者を理解できないか、ということを、よく表しています。

42歳「脳が壊れた」ルポライターのその後~私が障害を受容するまで http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50288

健常者の水準は、発達障害者の水準と段違いだということです。

だから、その苦労に同情しろというわけではなく、表面的には攻撃的に見えても、本人は独自の工夫をしているんだろうと、静観することに、歩み寄りの精神が生まれるのではないでしょうか?
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/09 (Fri) 18:18:51
上記の記事を踏まえて……

『やろうと思っていた!』
『解ってる!』

何かが出来ていなくて指摘されると、怒り出す人がいます。

私自身も、こういうことがあるし、私が娘に対して指摘すると、娘がよくこう言って怒り出します。

これ、本当に本人は解っていて、解決するための手順を頭の中でシミュレーションしている可能性が高いです。

本人も何とかしなくては!と焦って、方法を模索している途中。

けれど問題は、その作業に時間制限があったり、相手が絡んでいたりする場合、当人の手順が確立するのを待っていられないんです。

さらに、ADHDだと、その時は『解っていた』のに、他の情報が入って来たら、頭から抜け落ちてしまう可能性も。

これでは、いくら本人の言葉を信用したくても、信用しきれません。

相手が指摘してくれたことを、ありがたいと素直に受け取れればいいのですが、自分の至らなさを責められたように感じられてしまうのです。

こうした焦りは、本来の性格と、障害の性質が解離していると起きやすいのではないかな?と個人的に思います。

私は昔から、『神経質』と言われていました。きちんと手順を踏まないと、気がすまないタチでした。

けれど、ADHDの性質は、物事を手順良く出来ないもので、完璧に仕上げたくても、できないどころか、杜撰になってしまうことが多い。

この解離が、あらゆるところで精神的な苦痛に繋がって来たんじゃないかと思います。

もしも、性格も大らかな方なら、ADHD的な性質も、それほど気にならないのではないかと。

記事にある、過去の『出来た自分』に戻りたくても戻れない、というプレッシャーは、
生来の障害だと、『本来なりたい自分』になりたくてもなれない、プレッシャーに似ているかな?と。

発達障害者は、自分の何が障害なのか、はっきりと区別出来るものがありません。
本当は、障害されていて、どうにもできない部分を、何とかしたくて、不毛な努力をし続け、心も身体も疲弊してしまう傾向があるのではないかと思います。


Re: 基礎と応用の違い
  • あすなろ
  • 2016/12/11 (Sun) 01:46:58
発達障害者が、『仕事が出来ない』と言われる所以について、これまでの経験でわかったことがあります。

定型社会では、基礎(下積み、雑務)→応用(専門性)という順序で仕事を覚えていきます。
基礎は、ひと昔前なら、コピーやお茶汲みだったでしょうか?
今なら資料の印刷とか、職場の清掃とか、基本的な挨拶とか、電話応対とか……。

ところが、発達障害者は、こうした雑務が苦手、あるいは、どうしても出来ないけど、専門的なことの知識やスキルはすごい、という人も多くいます。

建築を専門に学んで、建築会社に就職したのに、資料作成と電話応対ばかり。あるいは、高度なコミュニケーションスキルを要する営業になってしまった。
そんなことがよくあります。

定型の考える『基礎』ができないために、『仕事が出来ない』と決めつけられて辞めることになるケースが多いんじゃないかと。

確かにこうした基礎は大切なのですが、定型の考える基礎→応用が、発達障害者の場合、逆転している可能性はあります。

建築の専門知識はすごいけど、電話応対ができない。

というような感じで。

これは、定型にとっては息をするくらいに簡単なことが、発達障害者には、特別な訓練をしないと出来るようにならない、ということがよくあるからだと思います。

果たして、電話応対が上手でないと、本当に『仕事が出来ない人』なんでしょうか?

知人の息子さんが、『ぎんこう←禁止ワードらしい』に就職したのですが、初任者研修で、近所の神社の落ち葉掃きをやらされたそうです。

この『ぎんこう』は、良い接客をするために、奉仕の心を身につけさせたいと考えたのかもしれませんが、大卒の優秀な人材に落ち葉掃きさせるって?
企業側が大きく勘違いしているな、と思わざるを得ません。

おそらく、社会にはこうした矛盾がたくさんあると思います。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/12 (Mon) 21:31:52
ガーディナーさんのスレにも書きましたが、昨日、重度自閉症の作家、東田直樹さんのドキュメントを観ました。

取材をした人が、自分がガンにおかされ、余命宣告を受けた時、命を引き継ぐことができないことを嘆いたと話すと、東田さんは、人の命は、引き継ぐことが大切なのですか?と問いかけます。

人の命はかけがえのないもの。だからこそ、自分で完結するもの。

そんな内容を語っていました。

さらに、みんなが「自閉症は……」とか、「自閉症なら、どう感じますか?」と聞いてくることに苛立っていて、それは東田さんが『自閉症の作家』ではなく、『ひとりの(普通の)作家』とみてほしいと感じているのではないかと、解説していました。

その通りだと思いました。

障害はその人の個性の部分ではない。
けれど、その障害と一生付き合っていかなくてはならない。

障害をコントロールしながら、自己実現に近づけていく努力をし続ける。

これが、障害を抱えながら、生きるということなんだろうな、としみじみ思いました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • りなこ
  • 2016/12/13 (Tue) 15:37:10
あすなろさん

横レスすみませんが。

雑用が苦手で実務は得意な人に不当な扱いをするのは問題があると思います。
しかし雑用が苦手だから他の社員にそれをさせて、その人は実務だけで良いとの扱いになれば、他の人からは不公平になると思います。
誰だって雑用はやりたくないです。それを皆が我慢してやっているという現実もあります。

できることはできる人にやってもらうのは良いですが、コピーやお茶くみが苦手であれば、それを他の人にやってもらう分、その人はその人の分の掃除をやるとか、そういった対応は必要だと思います。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/13 (Tue) 22:18:55
>りなこさん

現状ではそうですよね。
だから、そういったことができない発達障害者は、仕事が出来ないとか、輪を乱すということで、排除されることが多いわけです。
決して大げさではなく、そんなことも出来ない、あるいはやりたくないからやらないんだろうと言われて、排除され、社会に出て行けなくなった人は多いと思います。

これは、大問題です。

お茶を飲みたければ、自分の淹れ方で、好きな時に飲めばいいのではないですか?
自分が請け負った仕事なら、コピーも資料作りも、全部自分でやるものですよね。
もし、コピーが苦手なら、パワーポイントで代用するとか、一斉メールで送ってそれぞれで印刷してもらうとか。
いくらでも工夫ができるはず。大事なのはコピーじゃなくて、その内容ですから。

現状の仕事のあり方、そのものがおかしい。そういうことを言いたいわけです。

もちろん、現状は、どこの職場も、そんなことを言えるような状態ではないことは、百も承知です。

だから、発達障害者が仕事をするのは厳しいということです。

卵が先か、ニワトリが先か。
どちらにしても、変えようとする意識のある人が増えない限り、堂々巡りですね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/17 (Sat) 09:22:47
ガーディナーさんのスレでの、パンダさんとのやり取り、その後のガーディナーさんのお話などから、また少しアスペ定型の起きやすい行き違いについて考えてみました。
これは、私がアスペの家族たちに感じている正直な気持ちですし、別にどちらかを擁護したり否定したりするものではなくて、素直に『どうしてなのかな?』と疑問に思うことなので、それを受けて、自分はこんなだとか、そう感じる方が悪いと思われてしまうと先に進めません。 単に、そういう行き違いになるのか、と思っていただければと思います。

ガーディナーさんのお言葉で、私にとって気になるのは、ご自分が悪いかもしれない、おかしいかもしれないという注釈が何度も入ることなんですね。
みるきさんにも前にお話しした(自分でははっきりどのように書いたか覚えていなくて、すみません)ようですが、ガーディナーさんやみるきさんだけでなく、息子と娘の言動も、ここが最も気になるところです。

息子は『俺が死んだら、それは解決する』とか、『俺が邪魔だと言いたいんだろ』みたいなことを、さらっと言うんですが、それが私には苦痛なんですね。
どうやら、息子の言葉選びがおかしいだけで、根底はガーディナーさんのように、自分は間違っていると仮定した上で話をしているようなんです。

Katzさんのお話がすんなり入ってくるのは、こうした注釈が入らないからです。事実と、Katzさんの感じ方だけを書かれているので、相手はこう感じるかもしれませんが、という注釈がないので、分かりやすく、その内容も、決して間違っていないし、共感できる部分がとても多い。

ガーディナーさんやみるきさんのお考えも、本当にその通りと思うことがたくさんあって、すごく理解できるのに、『私が間違っているかもしれませんが』という注釈が入ると、途端に息苦しくなってしまうんです。

でも、どうやらアスペの方は全然そこまで深刻な意味で使っていない。話を円滑に持って行くためのニュアンスと捉えているようで。

みるきさんが、ストレートに話をすると冷たいと言われてしまうから、とおっしゃっていましたが、確かに、今度は『違います!』と言い切られてしまうと、自分を全否定されたように感じてしまうんですね。

何だか定型的感じ方が、アスペの方にはややこしくて謎だらけというのが、すごく分かります。
相手に自動的に感情移入してしまうというのが、どういう感覚か、アスペの方には非常に理解が難しいし、逆にそういうのがない(これは共感とか思いやりとは全く別問題です。あくまで自動的に歪んだ形になって伝染してしまうという感覚です)ことが、定型には想像できない。

すると、ちょっとした言葉のやり取りが、お互いに真逆の捉え方になってしまうのかもしれないと、感じました。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/12/17 (Sat) 12:32:35
アスペも感情移入はしますよ。だからアスペ側の人はにわとりさんが落ち込んだ時にほっとくと言ったのでしょう。
定型に対しても感情移入しますよ。
声掛してもその現実が戻るわけではないからほっとく。

前ににわとりさんも状況によっては人に自動的に感情移入することもあるとお話なさってましたが、相手に反発されたり、八つ当たりされた。
かといって何もしないであたるしないでいると冷たいとい言われる、人に利用されたと仰っていましたね。
そうなると、「めちゃくちゃ言ってるのはあんただろ!」と怒りが増して、感情移入も優しさも持ちたくなくなるケースもあると思います。
そういった人は他の人には優しいからなかなか皆さんには信じてもらえずに被害妄想とか定型攻撃だととらえられるんですけどね。
めちゃくちゃな扱いしてきた人に優しくなれるはずないですよね。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/12/17 (Sat) 12:35:59
↑他のスレに書く答えでしたが、間違ってこちらに書いてしまいました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/17 (Sat) 13:38:13
>やっぱりおかしいさん

他のところのお返事ということなので、関係ないことかもしれませんが、私の書き方が誤解を招くといけないので、補足しておきます。

アスペの人が感情移入できないというニュアンスだとおかしいので、定型の人はアスペの人とは全く違う形に感情移入してしまう。それは定型同士では自然と伝わるものなので、特に疑問を感じない。としておきます。

我が子たちも、バリバリ感情移入しますしね。
特に動物のドキュメントなんて観て、ボロボロ泣いていたりします。
逆に定型以上にハマりすぎて抜け出せなくなるという感じに、私は見えます。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/18 (Sun) 00:45:05
>やっぱりおかしいさん

言葉だけのやり取りというのは、本当のことを本当に伝えるには限界があり過ぎるのだなと、つくづく感じます。

パンダさんと私のやり取りで、なぜにわとりさんのことが出てきたのか、私には分かりませんし、『歪んだ』という言葉は、にわとりさんを理解しようとしたアスペの人たちに向けた言葉と捉えられたのが何故か、まるで分かりません。

私は、やっぱりおかしいさんの書き込みを歪んで捉えているので、真意が分かりませんし、やっぱりおかしいさんも、私の書き込みを歪んで捉えています。
つまり、そういうことを言いたいのです。

ここは、二重三重に歪みが出来ているので、多分何かを書いても誤解されるのがオチだと思います。

とりあえず、ガーディナーさんが、りなこさんの書き込みを例に出されていたというだけで、にわとりさんとの繋がりは一切ありませんので。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ガーディナー
  • 2016/12/18 (Sun) 04:57:35
あすなろさんへ。

困っています。

>ガーディナーさんのお言葉で、私にとって気になるのは、
>ご自分が悪いかもしれない、おかしいかもしれないという注釈が
>何度も入ることなんですね。
あすなろさんは、いったい私の文章のどこの部分を見て、
そのような解釈をされたのでしょう?

>根底はガーディナーさんのように、
>自分は間違っていると仮定した上で話をしているようなんです。
誰の文章を読んでいらっしゃるのか、私にはわかりません。

多分私が無意識のうちに書いている、文章中のニュアンスのようなものを
あすなろさんは感じ取っていらっしゃるのだと思います。
でも、それは、例えば、しゃべりでいえば、
ことばのイントネーションとか、表情とか、そういったものではないでしょうか。

あすなろさんはそれをアスペ独特のものだと指摘されました。
もちろん悪く言うつもりがないことは百も承知ですが、
私の気持ちとしては、これ以上もう次を書くことが難しくなってしまうのです。

これがあすなろさんの個人的な生活の中で感じられた
定型とアスペの問題として言われるのならば、それは分かります。
ですからご家族の中で、こう感じられた、とここに書かれるのは良いと思います。
でもなぜ私の名前をわざわざ出す必要があるのでしょうか。
その方が、他の皆さんに分かりやすいと思われたのかも知れませんが、
私にも感情はあります。
それを読んだ時に、平然と受け入れるほどの器ではありません。

少なくとも私は現実の生活の中で、
仰ったような意味で、人を息苦しくさせていると感じたことはありませんし、
何ら不自由を感じてはいません。
もちろん自分が悪いとか間違っていることを仮定してもいません。
ただ、自分にとっての善が、他の人にとっては悪であるという可能性はあります。
常に自分が正しいとは考えていないということです。
それは皆さんも同じでしょう。

>それを受けて、自分はこんなだとか、
>そう感じる方が悪いと思われてしまうと先に進めません。
と初めに書かれているので、
それに関しては何も言って欲しくない、ということかもしれませんが、
私も今、もう先には進めないと感じているのです。

「いや、そんなことはない、私の言うことなど気にせずに、どんどん書いてください」
と仰るかもしれませんが、
気にするなと言われて、気にならないのであれば、
それも楽でしょうが・・・。

困りましたね…。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/18 (Sun) 06:34:17
>ガーディナーさん

大変失礼しました。
漠然とした表現では、何かガーディナーさんの書き方が悪いと言っているように受け取られてしまいますね。

私が気になったのは、この言葉なんです。

>その押し付けがましい気持ちは、書いていてやっぱり恥ずかしいですね。
どうしようもない不遜な気持ちですね。
私の恥ずかしい告白は、まだまだ続きます。

なぜ、恥ずかしいんだろう?なぜ、押し付けがましいんだろう?
何もガーディナーさんのご経験は恥ずかしいものではないのに。と、ちょっと切なくなってしまいました。

言葉の綾かな?と思っていたのですが、その後、やはり恥ずかしいことではなかったんですね、とおっしゃっていたので、本当にご自分の経験をあまり人には言いたくないとおもっていらっしゃったんだな。どうして、そんなに恥ずかしいのかな?と感じたのです。

みるきさんとも、こういう行き違いがあって、そこまで考えていないですよ、と後でおっしゃっていたので、私がどうしてこの言葉に反応してしまうのか、何か聞いてはいけないことを聞いているような気になってしまうのか、探りたかったんです。

日常でも、『そこまで考えてない!そんなことは言ってない』と言われることが多いので、根本的に意味解釈が違うんだと感じています。

今回も、私の言葉をガーディナーさんは、そう取られてしまうのか、と思いました。やっぱりおかしいさんにも、違ったニュアンスに伝わってしまったようで、何か、意味解釈の仕方に隔たりがあるのかもしれないなと。

いえ、私個人の独特の読み方かもしれません。

私が気になったのは、その部分だけで、ガーディナーさんのお話についてではないのです。

要らぬ誤解を招くようなことを書いて、申し訳ありませんでした。

Re: Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/18 (Sun) 09:18:15
私が気になるという点は、おそらくこういうことなんだと思います。
褒め言葉とは、ちょっと、ニュアンスが違うのですが……。

http://blog.tinect.jp/?p=34611
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • りなこ
  • 2016/12/18 (Sun) 15:54:51
あすなろさん

そうですね。自分のことは自分でする。そういった工夫ができると良いですね。
発達障害者が雑用ができないとの理由だけで仕事ができないと評価を受けるのは問題だと思います。

ただトイレ掃除とかそういった雑用というのも交代でやらなければいけないものだってあります。
お茶くみもやかんひとつでやった方が効率よくて早いという現実もあります。
あすなろさんは発達障がい者が雑用できないのであれば、他の人がやれば良いとのお考えのようですが、だれだってやりたくないものですから、発達障がい者にも苦手なものはさせる必要はなくとも、そのかわりにできる雑用はさせるべきだとの考えはやはり変わりません。
Re: Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/18 (Sun) 21:19:03
>りなこさん

ひとつ誤解があるのですが、『発達障害者』でも、掃除を徹底的にやる人や、お茶をとても美味しく淹れることが出来る人はいます。特にアスペの人は、そういうところに長けた人もいると思います。
発達障害者だから出来ないではなくて、出来ない人、下手な人もいるということです。
現在の社会では、一律に同じ質の仕事が出来ないとダメと見られます。
出来ないからやらないではないのですが、やってもうまくできない人を揶揄したり、排除したりする傾向があるのが問題だと思っています。

神戸か、その辺りで、障害者雇用で役所に就職したにも関わらず、その人が、特性上、どうしても出来ないことを無理にやらせようと指導して、本人がPTSDを発症し、辞めざるを得なくなった。その後、職場を訴えたというニュースがありました。
誰もが、同じことを出来るわけではない。ましてや障害者枠で入って、支援が必要だと言われていた人に対しても、こういうことを平気で押し付ける世の中は、大きく間違っていると思います。

協力体制というのは、それぞれの持つ能力を持ち寄って補い合うもので、みんなが同じことを同じようにやることではないと思います。

あくまで理想ですけどね。
みるきさんへ
  • あすなろ
  • 2016/12/18 (Sun) 22:26:20
>みるきさん

みるきさんに甘えて。
ちょっと、参考までにお聞きしたいのですが。
63のところでご紹介した記事の内容、どう思われますか?

これって、定型とアスペの人では感じ方が違うのかな?
それとも、みんなこういう感じを受けることがあるのかな?

その違いによって、これまでのやり取りのズレの構図が分かってくるような気がするのですが。

つまり、にわとりさんが『自分はこうです!』と正直に話すことが、定型的な人には『私はどうせ、こういう(悪い意味での)人間でしか無いから諦めている!』という自虐的な感じに受け取れてしまう。
それによって、『いや、あなたはそんな人ではないよ。そんな風に思わないで』と必死になってしまう。

しかし、その『思いやり』が、にわとりさんには、全く余計なことであって、余計、にわとりさんを混乱させてしまった。

という行き違いが生まれたのかな?と。
そんな仮説が立ちます。
もちろん、違ったら、私の思い過ごしということなので。

それは、まさに『言葉選び』の問題だと思うんですね。
否定的な言葉に過剰反応する定型と、事実として否定的な部分も正直に話すアスぺと……。

正直に、記事に書かれているような褒め言葉を否定されると良い気がしないという感覚が分かるかどうか、教えていただけるとうれしいです。

急ぎませんし、よく分からないでも大丈夫です。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ガーディナー
  • 2016/12/18 (Sun) 23:21:00
あすなろさんへ。

分かりました。

私の文章を読んであすなろさんが、ご家族と結び付けたり、
ご紹介いただいたブログで語られていた
後輩サラリーマン氏の姿とダブらせたり
息苦しくなったりするというのは、
私の問題というよりも、むしろ、
あすなろさんご自身の問題であると、考えることにします。

残念ながら、これに関しては、
私はあすなろさんと問題の共有はできません。が、
隣の掲示板では、あすなろさんコメントを受けて、
私の感じたことを投稿しました。
お時間のある時に、どうぞ…。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/19 (Mon) 00:24:01
>ガーディナーさん

お返事ありがとうございました。
なるほど。やはりガーディナーさんにとって、『恥ずかしい』という言葉は、それほど深刻な意味として使われていたわけではなく、私の方の受け取り方がご本人には無い深刻さを受け取ってしまったわけですね。

この差が分かったことは、大きな収穫です。

にわとりさんにしろ、一旦この掲示板を離れますとおっしゃった時のみるきさんにしろ、わたしは今回と同じ『痛み』を感じてしまったんですね。

何でみんな辛そうなんだろう?と。

これは、私の推測ですが、にわとりさんに対して、定型側にいた人たちは、おそらく私と似た『痛み』を感じたのではないかと。
だから、必死に『こうしたらどうですか?』『こうやって考え直してくださいよ』とアドバイスしていたんだと思います。

ところがその『痛み』自体が、受け取った側の妄想だった。
さらに、そのアドバイス自体がはた迷惑なものだったら……。

これは、どちらにとっても、不幸としか言いようがありません。

ガーディナーさんのスレも拝見して、またさらに、それを確信しましたし、息子が言っていた感覚に近いなと感じました。
定型が自動的に感じる『共感』のノウハウを知る……という感じでしょうか。

本当に語っていただかないと分からないことです。

貴重なお話をありがとうございます。
『こんなこと、今更言わなくても』と思われることも、もしかしたらアスペ以外の人には驚きになるかもしれませんね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • Katz
  • 2016/12/19 (Mon) 01:04:22
> りなこさん、あすなろさん

横から失礼します。仕事の話なのでちょっと口を出したくなったのと、このままだとお二人の御意見が平行線を辿って、お互い納得いかないまま終わるという形になりそうなので、違う視点を提供してみます。

そもそも「雑用といえども社員の仕事の一つ」という前提条件がどうかな…と私は考えています。労働生産性の観点からは、雑用を正社員がやる意味はありません。売上につながらない仕事は、安いアルバイトでも雇ってやらせた方がいい。そうすれば正社員は本来の(値段の高い)仕事に集中できます。

そういう考え方をする経営者はあんまりいませんけどね。正社員にサービス残業させれば0円ですから。問題は、それを許している労働者側にもあるのではないかな、と私は考えます。サービス残業全廃を声高に叫ぶと、今の不景気の世の中では生きづらくなってしまいますから。

その辺りに、雑用を社員がやらなければならない現実と、雑用が苦手な人間の立場とがぶつかってしまう原因があるのではないか…と考える次第です。

ちなみに。この「雑用は社員がやらない」という考え方は、別に突飛なものではありません。予算にある程度の余裕のある職場なら、お茶汲み用には給茶機や自販機が置かれて、トイレ掃除や部屋掃除には専門業者が入ります。もっと本業に近い雑用係としては秘書という仕事もあります。本物の秘書さんなんか私は見た事ありませんが…秘書、雇いたいですねぇ…
あすなろさんへ
  • みるき
  • 2016/12/19 (Mon) 11:08:41
呼ばれちゃったー^^呼んでくれてありがとう~

いまぱっと浮かんだのをばーっと一回書くね(まったり)

みんなでのっぱらでのびのび楽しく遊んでました。

あるときちょっとやんちゃ盛りで元気いっぱいの子がのっぱらの真ん中にあるりっぱな木にのぼりはじめました。

それを見たほかの子も興味深そうにやってきました。

木のぼりしていた子はえっちゃらえっちゃらついにいいかんじのとこ(どこだよ(笑)←てきとー)にたどりつきました。

そこは今まで感じたことがないくらい空が近くてとってもきれいでした。

心なしか空気もきれいでおいしく感じます。

のっぱらも今までとは違って見えてとてもひろくてどこまでも果てしなく広がっている光景に小さな胸が世界でいっぱいになりました。

しばらくその綺麗な世界と1つになっていました。

するとそこに下から声がしてきました。


「おーい」「どんな感じだーい」「大丈夫かーい」


下にいる友達からでした。


その子は「うん^^とっても綺麗だよ!とっても気持ちがいい!最高だよ!!」と答えました。


それを聞いた下で様子を見ていた友達もよしやってみようとうんしょうんしょとよじ登り始めました。


すんなり自分でよじ登れた子もいましたが、何度やっても難しい子もいました。


見てるのは好きだけど自分は登らなくていいやーという子もいました。


それよりも上の様子とかそのときのわくわくとかどきどきを聞かせてよーという子もいました。


はじめのうちはのぼった子ものぼらなかった子もみんななかよくおしゃべりしていました。


でもいつごろからだったでしょう?のぼった子はのぼれる自分は特別すごいんだぞ!と思い上がるようになりました。

その場所の素晴らしさを感じることよりも、その幸せを分かち合うことよりも、みんなとなかよくすることよりも「自分だけ」が特別で「自分だけ」がその素晴らしさを知っている、知っていればいいと思うようになりました。

すると誰も届かない上にいる自分はすごいけど、のぼってこない、のぼれない子たちは自分よりもあんなに下にいると思いました。

下にいた子の中にはもうやめて他のことで遊びだした子もたくさんいました。

でもまだそこでのぼろうとしてる子もいました。そして、木登りには興味なかったけどその子が好きで一緒に遊びたくて残っている子もいました。

とそこでまた声がしました。

「みんなーごはんできたよー」

ごはんができたようです。

みんなごはんをたべるのが大好きです。

どの子もいっせいに走り出しました。ごはんめがけて(笑)

当然、下で遊んでいた子達のほうが早くやってきました。

木登りしてた子達はどうなったでしょう。

みんなするするおりてかけだしていました。

でも1人どうしてももたもたしてしまっておりられない子がいました。

最初にのぼったやんちゃな子でした。

のぼるのは得意でもおりるのはちょっとだけ苦手だったみたいです。

みんながいってしまったのでますますあせってしまってなかなかうまくいきません。

みんなごはんのことに夢中なのでそのやんちゃっ子がまだ木から下りられないことに気がつきません。

悲しくなって、さみしくなって、くやしくなって、こわくって、なさけなくて、泣きながら汗まみれぐしょぐしょになってようやくのっぱらにおりてきた頃、そういえばなんだかずっとこの大地の優しさもふみしめた土のやわらかさも見上げた空の高さもずっとずっと忘れていたような気がしました。

なんだか無性に泣きたくてひとりぼっちがさみしくて、不安でいっぱいになったときふと近くに1人だけ友達が残ってくれていたことに気がつきました。

最初から木登りは興味なかったけど、その子と一緒に遊びたかった子でした。

ふだんはなにもしゃべらないその子が「一緒にごはんいこ」って言ったとき、なんだか急に目から雨がふってきました。

嬉しくて、なさけなくって、はずかしくて、みっともなくて、なんだか世界にとけてきえてしまえばいいのにと思いました。

きえたくなったちっぽけな自分のてをにぎってくれたそのこの手はとても大きくてつよくてとてもあたたかかったことにまたなみだがあふれました。

その子に連れられてごはんをたべにきたら、あれ?ずいぶんのんびりしてたねーとみんなが声をかけてくれました。ちゃんとごはんも残しておいてくれました。

その日やんちゃっ子は自分もすごいけど他のみんなもみんなすごかったことを思い出しました。

自分はちっぽけで、1人きりではいられないことも思い出しました。

みんなが大好きだったこともみんなが自分を大好きだったことも思い出しました。

次の日、やんちゃっ子は木に登りました。

そして、木に登りたい子にのぼりやすいやりかたを優しく教えてあげました。

見てるからいいよという子にはじゃあ遊んでくるねと優しくほほえみました。

上の様子が聞きたいという子には自分に見える景色、感じたことを話しました。

そして、木登りには興味のない、でも自分と一緒に遊びたいといってくれた子に、一緒にあそぼう!何して遊ぶ?とうれしそうなしあわせそうな顔でききました。

あすなろさんへ
  • みるき
  • 2016/12/19 (Mon) 11:21:53
あすなろさんへ第2弾^^

いまいるところにあすなろちゃん一緒にいるよー(にっこり)

一緒におしゃべりしてたら、「あっリス!」「あっ!」っていろんなことに夢中みたい^^

急におもしろそうなもの見つけたのか、ばーって走っていった(笑)

きっとそのうち、「おもしろいものあったー」ってもどってきそう(笑)

なにみつけたのかな?楽しみ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ちょっと今反復よことび、しかも高速ね^^に忙しかったので、少し位置関係がずれてるから、とりあえず、ある地点での会話を試みてみました(ほっこり)

疲れたらいったん休憩に戻るからそしたらまた今度はお姉さん風コメントを考えてみますね。
ふふふ。
あれこれあって楽しいですね!
さっきのはてきとーに流してくださいね。私の独り言です。

また改めてお話しましょうね~




あすなろさんへ
  • みるき
  • 2016/12/19 (Mon) 13:40:49
年齢相応バージョンのみるきです(笑)

○「ちょっと、参考までにお聞きしたいのですが。
63のところでご紹介した記事の内容、どう思われますか?

これって、定型とアスペの人では感じ方が違うのかな?
それとも、みんなこういう感じを受けることがあるのかな?」

私は記事を読んで一理あるなと思いました。たしかにそういう見方は当然あるし、誰の立場もよく分かりましたし誰にでも共感、感情移入できました。

アスペか定型か、アスペと定型、というよりは人間誰しも同じかな、ただ視点を変えられるかどうかで自分もそうだなと思えるか思えないかは違ってくるだろうけどと思いました。

考えられる要因は人それぞれでしょうから何を言っても当たってるし違ってるしとなりそうなので私個人のお話としてだけで書きますね^^

褒められて構えてしまう・・って私の場合なら、①恥ずかしい②照れた③どういう意味?何か含みがあるとかそういって私を調子に乗らせてもっと使おうって魂胆か?④自分では自信がないところだったのでとまどった⑤定型さん社会のお世辞とか社交辞令にろくなめにあってない経験から素直にとるのかお世辞だから真に受けないほうがいいのか分からないだけ⑥なんでお前に(あなたに)褒められないといけない⑦ほんとは嬉しいんだけど時差が起きるのでとっさに喜びを表現できない(①②④あたりもここにつながるけど、急なことに反応するのが苦手。サプライズに無表情・無反応とか。心からの感情がにじみ出てくるまでに喜ぶ?感謝するタイミングを逃すこともある。)

③は私の人間不信とびびりで臆病なところ。まあこれは相手にも失礼だから今後気をつけてもっと相手と自分を信じられるように頑張る。

⑤は社会で生き抜くために後からつけた慎重さ。これをしなかったらなんでも「あ、そう^^」と調子に乗りそうな部分も自分の中にはあったりもしないではない。
(私は昔から他人をすぐに信用しすぎてしまう部分があるのですぐにころっといい人~となりやすいのでこのくらい慎重にかかるくらいが望ましいと思っている。ほんとにみんないい人な世界だったら何も問題などなかった。)

⑥褒めるという響きがなんか上から目線で気になることがある。というか、本当はこれは相手ではなくて自分の問題だと知ってる。
相手が自分と対等と認めている場合やこの相手を尊敬してます!みたいな場合には素直に嬉しいしなんとも思わない。
は?と思うときの自分はだいたい、根性悪いが、相手を自分よりも下だと侮っているとき、もしくは単純に相手が好きじゃないとき。(同じ相手でも相手を認めたり好きになったりすると気にならなくなる不思議。どう考えても自分の問題。)

こんな感じです(笑)
多少、アスペ特有もあるかもしれませんが、基本的にはだれでもそうだと思いましたけどどうですかねー^^?

あすなろさんはありませんかー?

この人に褒められると素直に嬉しいし信じられるけど、なんだかこの人だとちょっとビミョーみたいなの(ほけほけ)

単に、信頼関係の問題とか好き嫌いとか、タイミングとか、そういうのもあるように思いました。


あと、そのあとに書いてあった、にわとりさんの例なんですけど、私にはこんな感じに見えました。

例えば、今の私は「無職」です。

私がとくになにも無職について感慨もなく、特に不安も苦痛も恥ずかしさもなにもなかったとします(笑)またの名をそこについてコンプレックスがない人ってことです。
それで私が、「今さー無職でさー」と話し始めたとします。
すると「無職は恥ずかしいものだ」「無職はだめなんだ」みたいにどこかで思ってる人はきっとこう言ってきます。
「無職でも気にしなくていいって」「そんな時期もあるって」。
そしてそのときの私の反応でまた私は私を知ることができます。

①まるで気にしていなかった場合:「うん?そうなんだよ^^気にしないしとりあえず今はそんな時期なんだよーでさー話続く」
このとき相手:ほっ。そうか気にしてないんだな。よかったよかった。話続く。

②気にしてないって言ったけどやっぱりどこかコンプレックスだった場合:「①と同じだけどどことなく気にした雰囲気を醸している(なんかもやもや)」→これは当人の問題。

③実はコンプレックスの塊だった場合:「なんでそういうこというの!?」もしくは、不機嫌、無言。
→これも当人の問題。だったらそこ別に言わなくてよかったじゃん。最初から会わないって選択もできたし。


そして、最初から無職についてなにも思っていなかった場合、そもそも‘「無職でも気にしなくていいって」「そんな時期もあるって」。’がいらない。

ただ、「あーそうなんだーそれで?(続きはー?)」でいい。


ようするに、よかれと思ったはず?の気遣いが空回りしあっているというか、その声かけを必要としたのは本当に相手なのか?それとも自分の問題か?そこの見極めが問題だ・・・って感じですね^^

Katzさんへ
  • あすなろ
  • 2016/12/19 (Mon) 21:21:36
件名にお名前を書くという、みるきさん流にしてみました。↑

りなこさんのご意見は、全くおっしゃる通りだと思います。
現状では、本当にそういう意識が無いとやっていけません。
出来ないものを『出来ない』と主張すれば、『ふざけるな』と言われるか、『だったら要らない』と言われるのがオチですからね。

私が語っていることはあくまで理想型ですし、現状が変わらないのに、現状を批判するのは虚しいことの方が多いかもしれませんので、確かにりなこさんのご意見の方が現実に即した形といえると思います。

しかし、やはりずっとそれで良いとは思えません。
変わらなくてはいけないし、必ずどこかで変わって行くものだと思います。
それが、私の主張では、あまりにも漠然とし過ぎていて、説得力が無かったのが、Katzさんのお陰で、少し現実に近づいてきた感じがしました。

ただ、やっぱり先立つものがあることが大前提なんですよね。
職員に無理を押し付ける職場というのは、大抵余裕がないものです。だから、苦肉の索で一人の職員にかかる負担が大きくなるんですよね。

偉そうに理想を語っていても、万が一私が経営者になったとしたら、人件費に悩まされて職員に無理を押し付けざるを得なくなるかもしれません。

ブラック企業やサビ残、過労死の問題も、元を辿れば全て経済の悪化に行き着くんですよね。

おカネが無くとも心に余裕が持てる……これは、相当精神的に強い人でないと難しいのかもしれませんね。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/19 (Mon) 21:35:11
>みるきさん

ちょっと質問の内容とは違う気がするけど……。ま、いいか(≧∀≦)

みるきさんには、私がてっぺんまで登っちゃって降りられなくなってるように見えたのかな?

うーん。
あっちの木、こっちの木に飛びついてたのは確か!(爆)

でも、どれも大して登らずに降りてきちゃってるので、おりられなくなってはいないですよ。
ただ、ご飯によばれても、そっちにもいけないんだな。

どうしても挑戦したい木があって、それに登るために、あちこちの木で練習してるので。

これがどうやっても登れないんだわ。

あ、おととい辺り、中間まで行ったのに、今日またできなくなっちゃって。

なので、気分を変えるために、またこの木に戻ってきたところです。

やっぱりこの木はいいなぁ。
なんか登りやすい。

それに、登ろうとしてる仲間がたくさんいるし。

ちょっと自信をつけてから、また目標の木に挑戦してきまーす!!
みるきせんせーい!
  • あすなろ
  • 2016/12/20 (Tue) 07:13:21
やっぱりこの木は登れるんだよ。
上まで登れたよ。
みるき先生が教えてくれるから!

目標の木も登れる気になってきたよ!

でもあの木の周りには、余計なこと言う人や、間違った方法で登ってる人がたくさんいるから、困るんだよねー。

忘れそうになったら、また戻ってくるから、教えてくださーい!!

目からウロコが落ちまくり。

私がどう理解したか、詳しくは後で書きますねー!

先生!!(としか、言いようがない!)ありがとう~~♪───O(≧∇≦)O────♪
あすなろさんへ
  • みるき
  • 2016/12/20 (Tue) 12:46:40
゜.+:。(*´v`*)゜.+:。

やったね!どういたしまして~
Re: みるきさんの分析から考えるアスペ定型問題
  • あすなろ
  • 2016/12/21 (Wed) 01:11:31
タイトル、なっが!!

改めて、私が投げかけた疑問、質問に、ガーディナーさんとみるきさんからお返事いただいて、またさらに、問題点がクリアになってきました。

まず、これまでずっと感じてきた疑問点です。

アスペの方が(うちの子も含め)「私はこういう人間です」と自分のことについて語るとき、私はどうしても「(どうせ)私はこういう人間だ。(だから、ダメなのだ)」というニュアンスに感じてしまうことが多く、慌てて「そうじゃないですよ!」「こうすれば、そんな否定的に考えずに済むのではないですか?」とフォローしようとしていました。私の中では、相手を良く見たくて、本心から改善策を探そうとしているので、そのこと自体は出まかせではありません。
問題は、このフォローは、相手が自分のことを否定していることが前提です。
しかし、私がアスペの方に感じた『自分否定の言葉』というのは、どうやら否定ではないということが分かりました。
あるいは、人は誰でも、自分について『否定したい部分』もあれば、『肯定できる部分』もあるとすれば、否定したい部分を正直に語ったに過ぎない、といえます。

すると、私の全力のフォローというのは、相手の個性を否定することになってしまいます。「私にはこういうマイナス要素があります。(けれどそれも私の一部であり、別に悪いとは思っていません)」と主張している時、私が「そのマイナス要素を改善するにはこうすればいいですよ!」ということは、逆説的に考えれば、(あなたのマイナス要素は許せないものだから、ちゃんと改善しなさい)と言っているのに等しくなってしまいます。

私はずっと、アスペの方がご自分のマイナス要素を語るとき、そのマイナス要素を受け入れられないと考えているものだと勘違いしていました。

それは、私自身が、自分のマイナス要素を受け入れることが出来ていないからです。

ガーディナーさんがおっしゃるように、私自身の問題だったんですね。

息子が淡々と「俺はそれは出来ない!」と言うことがあるのですが、「だったらこうすればいいじゃないの?」とアドバイスすると、「できないものはできない!」の一点張りで受け付けない。しかし、その後あっさりやっていることがあって「できるじゃないの!」というと、「あの時点ではできなかったけど、ちゃんとどうしたらできるようになるか分析していたんだ。だから今なら完璧にできる」ということがあります。
その時点で「できない」と言われたことを、私は「一生できないから、諦めてやらない」と受け取ってしまうので、焦ってしまうわけです。

何回か前に、『仕事ぶりを褒めると、過剰に否定する部下の対応に悩んでいる上司の記事』を紹介しました。
私は自分自身にも褒め言葉が苦手な傾向があるけど、その上司の立場になったら『せっかく褒めているのに、そんなに全力で否定しなくてもいいじゃないの?』と感じると思います。
しかし、みるきさんの分析で、そんな単純な図式ではないよなと分かりました。
みるきさんの分析は、以下のような、いろんな状況が絡み合っているのでは?ということですが。改めて↓

①恥ずかしい②照れた
③どういう意味?何か含みがあるとかそういって私を調子に乗らせてもっと使おうって魂胆か?
④自分では自信がないところだったのでとまどった
⑤定型さん社会のお世辞とか社交辞令にろくなめにあってない経験から素直にとるのかお世辞だから真に受けないほうがいいのか分からないだけ
⑥なんでお前に(あなたに)褒められないといけない
⑦ほんとは嬉しいんだけど時差が起きるのでとっさに喜びを表現できない

①と②は、だいたい同じような感覚なので、一緒と考えられます。
そして、私の感覚も、この上司が想像する状況も、①②が中心ではないかなと思います。だから、つまり、『本当は嬉しいが、褒められた経験が少ないので素直に受け取れない(かわいそうな状態)』
そこでこの上司はなんとか部下の心をほぐそうとしたり、かえって悪い印象を持たれないように社交辞令として『ありがとうございます』と褒め言葉を受け入れるよう、アドバイスしています。

この記事については、多くの賛同が寄せられていました。
自分も素直に褒め言葉を受け入れられなかったので、これからは気をつけたいと言う人もいました。

定型的な目線では、とても納得できる感動的な話なのですが、みるきさんの分析では、全く逆のことが起きる可能性もあります。

特に、③⑤⑥⑦という状況だったとき、この上司の気遣いは、全くトンチンカンですし、むしろ部下の気持ちを逆なですることになります。

中でも、⑤と⑦は発達障害者が抱えやすい、独特の感覚ですね。

これでは、ますます、定型への不信感が募ります。

その上、⑥のような自信を持っていたら、もうこの上司の言うことは信用ならないでしょう。

自分は思いやり深いと信じる上司と、押しつけがましい上司の態度にうんざりする部下の相関図が目に浮かぶようです。

アスペ定型の問題、発達障害者と健常者の感覚の違いが、とてもよく分かる分析です!

そして、定型度が高ければ高いほど、一面的な見方にこだわる傾向が強くなる。ある意味偏った視点でしか見られない『障害』と言えるかもしれません。

前に『定型発達者の特性』みたいな記事をまとめているのを紹介したような気がしますが、定型には定型の大きな障碍があるという見方もできますね。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ガーディナー
  • 2016/12/22 (Thu) 14:40:09
あすなろさんへ。
いろいろありがとうございました。

すごいッ!圧倒されました。

内容については、<私はなぜ悩みを…>の掲示板で、ボチボチと思いついたことを書いていきますが、今日はそれよりも、あすなろさんご自身に感激したことを書きたくなりました。

12月17日のコメントを頂いた時、私は大きなショックを受けたとともに、怒りの感情を持ちました。そんなことは初めてで、まさか自分がブログを読んで怒り出すだなんてこと、考えてもいなかったことなので、その事実に驚き二重のショックを受けました。
それは、自分の立ち振る舞いを笑われたように感じたからです。

ブログの投稿のみのお付き合いをしている私たちにとって、文字が全ての相手を知る方法です。話の内容は内容としてありますが、それとは別に、書き方の癖や、使う言葉の傾向、口調などが、本人の自覚のないところでにじみ出て、それがその人の人柄として認識しあってしまうことも多いでしょう。だからこそ、あすなろさんが私の口癖の様なものに「引っ掛かり」を感じられたと言われたときに、何か私が努力してもどうしようもないところを咎められたような気分になったのです。
例えそれが良心からくる、誠実なアドヴァイスであったとしても、そもそも他人のアドヴァイスを受けることは苦手です。どうしても素直には受け入れられない私でした。

先ほど私は自分の立ち振る舞い、と書きました。それをもう少し詳しくお話ししますね。
定型の社会の中では、本当に努力してもどうしょうもない、私には理解できない<通常感覚>というものがあり、例えばちょっとした手紙の書き方、贈答品の作法、座る場所、立ち位置、挨拶の順・・・、その場その場によって微妙に変化する暗黙のルールは、とても覚えきれるものではありません。
今私と付き合ってくれている人たちは、もう私のことはよく知ってくれているので、それで顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうというよなことはほとんどありません。何かルールに反することをしてしまった時、笑いながら「それが常識よ」と軽くたしなめられ、私も笑いながら「あら、そうだったのね、ごめんなさい!」と返します。そうしてその度に、キュキュッと疼く胸の痛みの様なものを、私は微笑の中に紛れ込ませ、笑いも痛みも同化さることにすっかり慣れてしまいました。

あの時、あすなろさんが常識論を私に教えようとしただなんてことは微塵も感じていません。でも、定型の人たちの目にはどこか滑稽に映る、私の身のこなしを指摘されたような気分になってしまいました。
「そうよ、私はそういう人間よ」と100パーセントは開き直り切れない、何か<恥>の様な感覚が刺激されてしまったのでしょう。

これは、私自身の問題です。重々理解していました。そう思ったからこそ、今度は「これ以上傷つきたくない」という思いから、あすなろさんに向かって

<これはあすなろさんご自身の問題ですよね>と

無意識のうちに反撃をしたのです。

あの時の私の文章を読み返してみると、感情的になりそうなのを無理に抑えていることがよくわかります。この怒り、あすなろさんや他の読者の方たちにも、やっぱり伝わりましたよね。それともうまく隠し通せたのでしょうか?

その後私宛に書いてくださったあすなろさんの文章は謙虚で、鷹揚で、感情に振り回されない、とても読みやすいものでした。私があんなコメントを送ってしまったことについては何のこだわりもなく、でも内容に関しては、私の感覚を端的に整理して下さっていました。あれだけ高ぶっていた私の神経が、すうっと引いていくのが分かりました。怒りが完全に解けました。
それは、あすなろさんがもともと持っていらっしゃる読解力・分析力によるものもありますが、ベースに流れているのは「相手を理解したい」という謙虚な姿勢と、そのためには自分の固定観念を崩されることも厭わないというある種の自信なのでしょね。

私もそうありたいです。

ところで、一つだけどうしても教えて頂きたいことがあります。
私の12月18日の第一回目のコメントを読まれ、隠された怒りを感じ取られましたか?
それとも全く気が付かれなかった?
同日第二回目のコメントの場合はどうですか?
YES,NOで良いので教えてくださいね。
これは単純に興味本位な質問です。

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/22 (Thu) 18:24:28
>ガーディナーさん

ご体調いかがですか?
私も昨日の夜から寝込んでしまいました。どうやらノロっぽい?
一日中寝ていたら、少しずつ回復してきたところです。
インフルもノロも、どこに転がっているかわかりませんね。

ガーディナーさんに、真意が伝わってホッとしました。
私はついウッカリ人の気持ちを逆なでするようなことを言ってしまうので、正直、『またやっちまった!』という気持ちの方が強かったです。
ガーディナーさんの怒りというより、無頓着に人の気持ちを傷付けてしまったことにショックを受けました。

日常でもこういうことが多いので、気を付けているつもりでも、どの言葉が他人を傷付けるのか、よく分からないのです。

これも、私の特性なんでしょうね。
ガーディナーさんが、定型社会の暗黙のルールがわからず慎重になられているのと同じように、私も相手の背景を想像して、言っていいこと、悪いことを判断するのが苦手です。

ガーディナーさんが受けたショックは、私がガーディナーさんを意図せず傷つけてしまったというショックと同じようなものかもしれません。

ガーディナーさんの怒りというより、ショックを与えてしまったことにショックを受けたという感じです。

そこまでお怒りだったとは、後から聞いてまたショックですが、その点、ガーディナーさんは、怒りを抑えて淡々とお話されることが出来る方なんだなと感じました。

もともと、素朴な疑問でしかなかったのですが、誤解を与えるような書き方をして申し訳ありません。
でも、私にはそれがどうしてショックを与えるのか、やっぱり推し量ることができないんだなと感じました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/12/22 (Thu) 20:35:31
完全な横ですけど、あすなろさんが怒りを持たれやすいのは、無神経だからではなく、あすなろさんは先を見据えた視点、広い視野で物事を見られるからかなと感じます。
かなり古い言葉を用いると、あすなろさんが「壊し屋」に見られやすいのかも。

あすなろさんが定型優位の社会に警鐘を鳴らす時に、定型の方から苦情を寄せられることがありますが、自分達の問題を薄々感じていて、自分の問題を認めたら自分が崩壊すると感じるんじゃないかな。
例えば、お仕事のことでも定型の感覚をお持ちの方(特に職場にアスペがいる場合)には受け入れがたいものだと思います。
ココチさんがにわとりさんが意味不明な同じことの主張ばかり繰り返したとかあすなろさんが滑稽だと揶揄したのも、あすなろさんのせいにすることで、問題点をすり替え、本来解決すべき問題の妨害をなさったんじゃないかなと思います。

あすなろさんの心や人格や障害特性のせいではないと思います。
ただ今の常識や価値観を共有している人が多いから、あすなろさんが「人の気持ちを逆撫でする」と悪い評価を与えられるんだと思います。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/12/22 (Thu) 20:46:28
Katzさんのお話に釘を刺す形になりますが、掃除の全てを専門業者がやるわけではないんですよね。細かい部分はやはり会社の人間がやるわけで。

Katzさんのおっしゃるように安いパートの人を雇うのが一番だと思いますが、その人件費や清掃業者を雇う費用を省くところもあると、対立は免れませんね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • Katz
  • 2016/12/23 (Fri) 19:27:41
> やっぱりおかしいさん
おっしゃる通りです。他人任せにはできない雑用もあります。そこの所は考えなければなりません。

> その人件費や清掃業者を雇う費用を省くところもあると、対立は免れませんね。

ここの部分はちょっと誤解があるようです。

本来、正社員の人件費はものすごく高いんですよ。正社員は高過ぎるからパートだのアルバイトだのを使って、余った正社員をリストラするなんていう昨今の経営の流れが出てくるワケです。そこをご理解いただかないと、私の主張「雑用はバイトにやらせろ」は方向を見失ってしまいます。

問題は、なぜ人件費が高いはずの正社員に雑用をさせ続けているのか、その理由です。要するに残業代がタダだからです。バイトにさせるよりも、正社員に残業させた方が安く上がる(というか無料で出来る)。だから経営者は、掃除等々も社員にさせたがるのです。ここに対立の根っこがあるはず…というのが私の主張でした。

ものすごく余談ですけど、正社員の残業代がタダというのは、幻想どころか違法行為です。本当は。
あすなろさんへ
  • Katz
  • 2016/12/23 (Fri) 20:05:32
↑私もやってみました(^_^)

本題とは異なる話を長々と続けるのも申し訳ありませんが…

> しかし、やはりずっとそれで良いとは思えません。
> 変わらなくてはいけないし、必ずどこかで変わって行くものだと思います。

これも、変わらなければならない明確な理由があります。一言でいえば外圧ですね。黒船来航。

今、日本の労働生産性は、先進国中で最低レベルなのだそうです。1990年頃から全く上がっていない…でしたっけ。他の国々はずっと右肩上がりで生産性が上がり続けています。このままいくと、日本企業の国際競争力が無くなってしまいます。既にその兆候は見えてますしね。一方、労働者の品質は相変わらず世界トップクラスという調査もあるようです。

その前提で、もうしばらくするとどうなるか。日本の労働市場は外資に乗っ取られます。外国企業が日本に工場だの支社だのを作って、最先端の仕事のやり方を持ち込んで日本の労働者を使って生産する事になります。で、日本企業はそういう外資企業に値段で勝てず、すべて倒産。そんな事態はイヤなので、日本企業は政府に全力で守ってもらう事になるでしょう。が、TPPなどの外圧がありますしね、そんな歪なやり方はいつまでも続かないでしょう。

更に言えば、日本に入り込む外資企業って、日本人の憧れているような欧米のトップブランドとは限りません。例えば韓国企業の可能性もあります。韓国の労働生産性はもう少しで日本を追い抜くようですので、あり得ない話ではないでしょう。こういうのは一部の人にとっては屈辱的に感じるのではないでしょうかね。そういう差別意識はどうかという話もあると思いますが、それはそれとして、そういうのをバネにしてでも日本の経営者には頑張っていただきたいものです。

> ただ、やっぱり先立つものがあることが大前提なんですよね。
> 職員に無理を押し付ける職場というのは、大抵余裕がないものです。だから、苦肉の索で一人の職員にかかる負担が大きくなるんですよね。

営利企業が「儲かる経営」をしているか、という話になるんでしょうか…何だか矛盾を感じる設問ですが…

> おカネが無くとも心に余裕が持てる……これは、相当精神的に強い人でないと難しいのかもしれませんね。

だからがばいばあちゃんがもてはやされたのでしょうかねぇ。
あすなろさんへ、再び。
  • ガーディナー
  • 2016/12/23 (Fri) 23:52:29
あすなろさんへ。
もう、お元気になられましたか?
体調の良くない時に、ショックを与えてしまって、
本当に申し訳ありませんでした。

当たり前のことですが、どんなにしっかりした強そうな人でも、
怒りの感情を向けられれば、
しかもご自分にとっては全く意図しないことで傷ついたと訴えられれば、
ショックと思われるのも当然でしょう。
そこは本当に私の想像力の至らないところでした。

始めにお伝えさせてください。
私は前回のコメントをあすなろさんに送った時には、
あすなろさんへ向ける怒りの気持ちとか、非難の気持ちなど、
微塵も持っていませんでした。
お伝えしたかったことはただ一つ、刺々しい気持ちでいたところを、
あすなろさんの誠実なコメントを読み、
心が洗われたように穏やかになった。
それだけです。
それに対してお礼を述べたいという気持ちでいっぱいだったのです。

ではその前になぜ刺々しい気持ちになったのか、そのきっかけは、
あすなろさんのコメントを読ませて頂いたことに端を発したわけですが、
普通だったら(多分)聞き流されるであろうコメントに、
なぜ私はそこまでショックを受けてしまったのか、というその流れを、
アスペルガーの当事者として正直に語り、
それを皆さんに聞いて頂きたかった、
というのがその時の偽らざる気持ちだったのです。

これも私のアスペルガー的な特質の表れなのでしょう。
というと、何でも障がいのせいにしているようで
お聞き苦しいかもしれませんが。

私が自分の心の内を語ろうとすると、
もうそこに全神経が集中してしまうのですね。
「怒りが解けた」というからには、
その前段階としての「怒り」があるわけで、
そうすると私の「怒り」が頂点に達するまでの過程を
余すところなく表現したくなってしまうのです。
そこには、他者であるあすなろさんのお気持ちを考えるという発想はなく、
ただただ自分の心の世界に入り込んでしまうのです。
そうすることが私の謝意につながると、その時点では本気で信じています。
あすなろさんへお礼を述べたい、という私の心が誠実に働けば働くほど、
あすなろさんをショックに追い込んでしまう、
という図式が成り立っていたようですね。

多分私の中のあすなろさん像は、いつも冷静で公平で、
私が多少何かを言っても揺るがないとても強い人であったと思います。
もちろんそういう面もたくさん持っている方だとは思いますが、
それだけではなく、突然の怒りの独白に心の動揺を隠せないという、
ごく普通の感受性も持ち合わせた方であることも
忘れてはいけないということですね、当然ですが。

今回のことは、とてもとても勉強になりました。
アスペの私にとっての精一杯の誠実さが、
非アスペのあすなろさんにショックを受けさせてしまった…。
あすなろさんには、お詫びをする以外に何もありません。
でも私たち二人のやり取りを通して、これをご覧になった皆さんが、
「アスペと定型」について考える際の、なにがしかの参考になれば、
それはそれでありがたいことだと思っています。
Re: Katzさんへ
  • あすなろ
  • 2016/12/24 (Sat) 00:10:27
なるほどなぁ、と思う記事を見つけました。
Katzさんは、どう思われますか?

http://con-isshow.blogspot.jp/2016/12/komuronaoki.html?m=1
ガーディナーさんへ
  • あすなろ
  • 2016/12/24 (Sat) 06:43:47
そんな深刻に取らないでくださいー!

そもそも、私の疑問自体が、本当に素朴で、ある意味幼稚なもので、知りたかっただけなので、もう少し、大人の目線で見なさいよという戒めになったと思います。本当に笑い話のようなものです。

ガーディナーさんには公平とか、誠実とか受け取られたかもしれませんが、そんな高尚なものでは無く、本当に子どもが無邪気さから人を傷つけてしまう、そういう類のものだと思ってください。

けれど、ガーディナーさんのお陰で、ずっと引っかかっていたことが解けたのは事実です。

それにこれは、にわとりさんの発言と、それに対する定型側の『誠実な』コメント。それに対するアスペの方の『怒り』の図式に繋がる気がするんですね。
ガーディナーさんがもたれた『怒り』を淡々と説明してくださるのは、これらの大きな誤解の謎を解く、とても大きなヒントになる気がしています。

私だけかな?

私以外にも、この発見を喜んでくれる人いないかしら?

私はものすごい発見をしてワクワクしてるんですけど?

ガーディナーさんのお話を追わせていただきながら、その『裏付け』が取れるといいなと思って期待しています!
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/24 (Sat) 08:03:23
『ADHDとリス』を紹介されていた方たちのツィートまとめに、こんなのがあります。

https://togetter.com/li/1030486

ASDとADHDの違いとか、ものすごく核心を突いているというか……。

多分、ガーディナーさんとの行き違いも、こんなところから生まれたものでしょう!

この方が、定型発達の姪御さんの育ち方を見て感激した!という話も載せていらっしゃいます。
どこかにリンクがあるので、それも参考に!
あすなろさんへ
  • Katz
  • 2016/12/24 (Sat) 23:04:48
あすなろさんにご紹介いただいたブログ記事、なるほどなぁと思います。この今一生という方は、私は良く知らないんですが、ツイッターでよくリツイートする友人がいて、その発言は時々見かけています。何というか、ものの考え方なんかが私とよく似ている気がします。いえ私も立派だという事ではなくて(^_^;) 自分の知識の中で合理的な考え方をしようとしている所とか、その語り口とか。問題は前提となる知識だったりするんですけどね、私もよく偏ってますが、この方も時々偏った知識に基づいた合理的な思考をしているように感じられて、何と言いますか、…同族嫌悪?(^_^;)

記事の内容についてですが。日本の官僚が持つ意識について、歴史的な流れはなるほどそうなのかも知れないなぁと思います。勉強になります。しかし後半についてはちょっと私とは意見が異なりますね。資本主義の精神とか。資本主義に精神性も何も無いんじゃないかなぁ…という気がしています。会社は社会正義に則った経営をするべき、なんて主張しといてナンですけど。私の主張はその方が好都合という合理性の追求の結果であって、資本主義かくあるべしという事ではありません。

もしそういう精神性をもって資本主義を定義するなら、それを維持する為の教育までをワンセットで主張しなければなりません。教育を放っておいて精神性を主張しても、長くても2世代3世代くらいで完全に崩壊するんじゃないでしょうか。問題はその教育で、目的と目標を明確にするのがまず難しくて、それを具体化するのがまた難しくて、それを子供に関わるすべての大人に浸透させて育児や教育に反映させるのが更に難しくて…というのはアスペ問題に関わる方ならよくおわかりでしょう。

もう一つ。最後の今一生氏の主張は「俺は今の腐った支配体制に背を向ける」という事だと思います。私もそれには賛成ですが、ここまで書いたなら、腐った官僚をどうしたら改善できるかまで考察して欲しかったです。ちなみに私の結論は、人事制度を変えなきゃダメだ、と。それ以外は恐らく、何をやっても小手先の小細工にしかならないでしょう。

追伸。
今夜のNHKスペシャルで、長時間労働を無くそうという話を取り上げてました。なんてタイムリーな(^_^)
あすなろさんへ
  • ガーディナー
  • 2016/12/25 (Sun) 00:23:23
あすなろさんへ。

な~んだ、深刻にとらなくてもいいわけですね。
ちょっとホッとしました(ヨカッタ、ヨカッタ)。

そうですね。
私もこれを書きながら、
なんかにわとりさんと定型の方々の
心の行き違いに通じるものがあるのかな?
なんて思ってもいました。

でも、何度も言うように、
私は当時のやり取りをリアルタイムで見ていたわけではありません。 
私はにわとりさんのことをよく知らないし、
知っていたとしてもそもそも別人なわけですから、
やっぱりニワトリさんのお考えとはズレていると思うんですね。

だから、本当に最大公約数的なところで、
こんな可能性もあるのでは?ということを、
あくまでも私の個人的な心の問題として、
聞いて頂ければありがたいと思っています。

少しずつ思いついたことをお話ししていきますね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • アンブロ
  • 2016/12/25 (Sun) 00:57:36
あすなろさん

アンブロは....拍子抜けしております
Σ( ̄ロ ̄lll)

まさかの...私に対して怒りを感じていた...わけではない!?
嫌われたと思っていたのは勘違い?(゜ロ゜)

えぇ(゜ロ゜)

でも、ガーディナーさんのお話を読むと

今まで、謎だった「怒りの言葉」と「行動」の
違いに説明がつきます...


えぇΣ( ̄ロ ̄lll)←しつこい(笑)

驚きと混乱してますが、

でも、やっぱりある程度「信頼」してる人にしか
話さないところは、再確認で嬉しいですねー
(/≧▽≦\)
Katzさんへ
  • あすなろ
  • 2016/12/25 (Sun) 05:45:16
さすが!
鋭い点を突いていますね!さらに、私がこの記事を読んで、というか、今さんの主張を色々と見てきて、感じていたモヤモヤがはっきり分かりました。ありがとうございます。

補足として……
『資本主義の精神』と言っていたのは、今さんではなく、小室先生という方ですね。まず、この日本独特の資本主義が出来上がるまでの過程について、小室先生の分析をどう思われるかな?と思ったのです。

Katzさんが、労働者の質は世界一なのに、一人当たりの労働生産性が最低になったというニュースを挙げられていたので、おそらく、こういった日本独特の『資本主義モドキ』が、長い歴史の中で定着してしまい、あたかもそれが資本主義だと思い込んでしまった過程があるために、歪みがピークになっている可能性は高いなぁと感じたもので。
資本主義の精神とかいうと、確かに成果主義に精神もクソも無いだろうと思いますが、要は、究極に合理的なものを求めるシステムだったところへ、おかしな日本的精神をミックスしてしまったところが間違いだったので、そこから見直さなくてはいけないということなのかな?と、

ここまではなるほどと、頷けるのですが、今さんの記事に感じるモヤモヤは、『はて?そこからどうしろと?』というところなんですね。
今さん自身は、既存の価値観に囚われない企業を作っていこうという運動を展開されているようですが、そうやって一念発起する人がいるのも稀だし、そうやって出来上がった団体や企業が、果たしてどれほどの影響を与えられるだろうか?と考えると、途端に現実から遠ざかってしまいます。

その点、Katzさんがおっしゃる、『教育から変える』という発想は、とても現実味がありますし、大衆と革新派を分断することなく、自然な形で社会を方向転換していける方法ですよね。
そもそも、社会を変えるとき、そういう人材を作り上げて行くところから始めなくては、価値観の出来上がった人を変えるのは不可能に近い。対立とか紛争とか、そういった形でしか成り立たないと思うので、学校というものがネックになりますね。

まあ、最悪の例が、戦前、戦中の国民学校ですが。
あれは、大人の側にも戒厳令が敷かれていたので、結果が出たかどうかは何とも言えませんけど。

そう考えて見ると、現在の学校そのものが、ブラック企業の経営者やブラック官僚を育成しているような節があります。
教育委員会そのものがブラック企業の経営母体。校長、教頭がブラック経営者。従業員(子ども)同士を競わせて、食らいついていけるもの、教師の評判を取り付けられるものが生き残り、疑問を感じたものは学校を去る。(不登校=自主退職)自殺に追い込まれるものもいる。(過労死)

書いていると冗談のように思えてきますが、実際に、起きていることであって、こうでない学校の方が全国的に少ないのですからね。

どうしてこうなったのか……それは、一周回って、小室先生のお話に繋がりますね。

我が子の進学に関して、数少ない革新派の先生方と出会いました。
私もその一助になりたいなぁと思っているところです。

たかが、教育。されど教育。
学校だけでなく、育てる親の側が革新的な視点を持って、内外から変わっていければ、よりスムーズに事は進むかもしれませんね!
ガーディナーさん、アンブロさんへ
  • あすなろ
  • 2016/12/25 (Sun) 05:57:08
>ガーディナーさん

にわとりさんとのやり取りをご存じないからこそ、興味深いのです。
つまり、ガーディナーさんの本来お持ちの感覚が、にわとりさんとどこまで共通するのか、にわとりさんのお気持ちが分かると言われたアスペの方々とどこまで共通するのか、そこが大きなポイントだと思います。
アスペの方にとっては、自分の本来持っている感覚が、定型とは違うとは、全く分からないと思いますし、定型からしても、それはにわとりさんやガーディナーさん独自のものなのか、判断が付かない。

だけど、にわとりさんのことをよく知らないガーディナーさんが同じ感覚をお持ちだとしたら、それは明らかにアスペの人が持っていて、定型にはない感覚なんですから。

また、素朴な疑問を投げかけるかもしれませんが、今度は単に『あすなろには分からないから聞いているだけ』と思っていただければ、と思います。
よろしくお願いします。


>アンブロさん

『私に怒っていたわけではない』の、私は、アンブロさんですか?
ええと、ちょっと、どのお話と繋がっているのか分からなかったので、詳しく教えていただければと思います^^;
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • アンブロ
  • 2016/12/25 (Sun) 11:51:04
あすなろさん

あっ(゜▽゜*)すみません。

また自分の話に持っていってしまいました(汗)

ガーディナーさんとあすなろさんのやりとりや
もちろん今までのみなさんのやりとり


と、私と彼のやりとりがとてもよく似ていて...

でも、頭ではぼんやり『自分のことでの怒り』を誰かに伝えるとき、

ガーディナーさんの言葉では

『私は、最低だ❗』と、書かれているからわかりますが

彼の場合は

『最低❗』のみだけだったので...

最低...私が?Σ( ̄ロ ̄lll)?

と、なりそのあとはズレまくっていたという...

私は、『私のことにたいして、怒りをぶつけている』

としか、思えなかったしなぁ...(何に対して怒っているのかも、わからなくて)


でも、その部分がどうしてもアスペの方々には理解できににくいところだったんですもんね。


ガーディナーさんのコメントに『自分を立て直すための言葉』を口から吐き出す。と書いてありましたが、

私はそのときの気持ちというか、どう思っているか?を理解したかったんだと思います。
(というより、嫌われているのか?だったら

離れるしかない。と思っていたので)


でも、その時に相手(私)のことは全く頭にない。


だから、相手が傷ついたり、悲しむとか意味がわからなかったんですね。

前からこの手の掲示板は出ているのに、なんとなくしかわからなかったところ?というか、自分の中で
形になったと思います。(*^ー^)ノ♪

でも、いまいち自信もないので、あすなろさんの
言葉で説明お願いしてもいいですか?

姐御の言葉はなんか不思議なものがはいっているのか

強く頭に残るんですよね。脳天をつきぬける?というか...

ハッ!( ̄□ ̄;)とさせられるというか..._
とにかく、

あすなろさんの分析が聞きたいです(* ̄∇ ̄*)

アンブロさんへ
  • あすなろ
  • 2016/12/25 (Sun) 23:36:39
いやいや、それは無茶ぶりですわ!(≧∇≦)

私もまだ、何となくこんな感じ、というくらいで、うまく言葉にできませんよ。

ちょうどガーディナーさんが、新たな視点を提供してくださったので、そこについても考えてみようかなと。

そう、まだまだ、グルグルと考え途中ですよ!

なんか姐御のイメージ持たれちゃってますけど、頭の中は、デパートの中をあちこち飛び回ってるお子ちゃまだったりします!

うわぁ、マセ餓鬼って感じ?
扱いにくそう!!(笑)
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • アンブロ
  • 2016/12/26 (Mon) 09:50:57
あすなろさん

あ...あれれ(゜▽゜*)

無茶ぶりでした(笑)?
それは失礼しました(≧▽≦)

姐御...そのイメージを変えるのは難しいかもです
(  ̄▽ ̄)だってスゴいな~と思うのは事実だからです。

私から見れば、あすなろさんだけでなく

私と違った視点・考えは全て


驚きと面白さを感じています。やっぱり世界は広いなー
と思います。\(^▽^)/
本音で語らない社交辞令
  • あすなろ
  • 2016/12/27 (Tue) 10:12:17
職場で、来年、別のところに異動する話が出たのですが、その話をしている時に、イライラとしてきたことがありました。
異動の話は前にも打診があったので、こちらも覚悟していたのですが、それに関して正式な話になったとき、『色々と検討した末』とか、『異動先の方があなたの力を活かせる』とか、あれこれ理由を言うのです。それも何度も同じ話を繰り返して。
大きな職場になれば、異動の打診があって、辞令が下されるだけですが、小さな所なので、上司が最大限に気を遣っているのだろうと思います。
人手が足りなければ元のところにヘルプに入ることもあるかもしれないので、関係を悪くしたくないというのがよく分かりました。

ところが私にとっては、『異動してください』と端的に命令された方が分かりやすいし、別にそれで嫌だと言えないことも承知している。またヘルプに来てくださいと言われて、あの時一方的に言われたから嫌だよ!なんて言えませんし、言うつもりも無い。
それだけの話に何をそんなにクドクドと説明されなくてはいけないのだろうかと思ったわけです。

で、考えて見ると、これが定型社会の『気遣い』なんですね。
『あなたの力を活かせる』かどうかなんて、私自身も分からないのに、他人のあなたに分かるんですか?
ストレートに取ればそう思いますが、これは裏を返せば、今の職場に私が馴染んでいないことを言っているのです。
私自身、少し主張の強いところがあって、(まあ、この掲示板でやらかしていることを考えれば、お分りいただけると思いますが)周囲の人が引いてしまうこともあるんですね。(一番引いていたのは上司だと思いますけど(笑))一言で言えば、『うざったくなった』わけです。

何も言わなければ、そんな詮索もしないのですが、繰り返しフォローするところが怪しいわけです。

もちろん、私の方は大歓迎!
はっきり言って、私も『うざったかった』ので!(←おいおい……。ここだけの話ですョ!)

思えばこれが『定型』のやり方なんですね。
絶対にそうだとは言いませんが、相手を持ち上げることや、自身を卑下する言葉が頻繁に繰り返される時は、相手を認めていない、非難が含まれていることがある。
私のように、そういう社交辞令が嫌いな人間はなかなか受け入れることができないけど、これまで『お互いそういうものだと思ってやってるのだから』とうまくかわしてきた人たちから学んできたので、あからさまにイライラを見せることはしませんが。
私はこういうのが嫌いなんです。

で、振り返ってみて、アスペの人は、嫌いどころか、どうしてそんな話になるのかすら、分からないのではないかと。言葉通りに喜ぶとかそういうことではなく、相手がどんな切り札を持っているのか分からない。これって不安じゃないでしょうか?

私がガーディナーさんのおっしゃる『恥』という言葉に過剰反応したのは、定型社会のこういう社交辞令にうんざりしていたからというのもあります。人が自分のことを『へりくだる時』その背後には『大きな自信』や、『こちらへの牽制』がある。
それに辟易していた。

しかし、ガーディナーさんをはじめとして、アスペの方が自分のことを語るとき、良い面も悪い面も、ありのままを語っているに過ぎない。悪い面だってそれも自分の個性と肯定している。

定型のそれとは、根本的に異なるものなのに、定型側の使う『社交辞令』に非常によく似た言葉になる。

ここが大きな誤解になるのかなと感じました。

いかがでしょうか?
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • lo
  • 2016/12/27 (Tue) 14:50:43
どうしてあすなろさんが自己主張が強いと言われるのでしょうか?あすなろさんは的を得たことを言っているだけですよね。むしろどうして非難されてうっとうしがられるのかが疑問です。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ガーディナー
  • 2016/12/28 (Wed) 02:01:38
あすなろさんへ。

ハイ。私はたくさん恥ずかしい思いをして生きてきました。
私の自分史は、そのまま恥の歴史でもあります。
・・・なんて言うと、あすなろさんはまたびっくりして、
私に質問されたくなるでしょうか?

でもね、恥を語ること自体、
私にとってそれほど恥ずかしいことではないのですよ。
内容にもよりますが。
むしろ、恥ずかしいことを隠しているのを、
他人に見つかってしまった時こそが恥ずかしいので、
恥の部分を公表することは、
むしろ誇らしかったりもするのです。
というか、公表した時点で、恥は恥でなくなるわけです。

小さい頃は違いましたけどね。
高校生くらいからでしょうか。
恥の部分を敢えて隠さず声に出す。
そうすることで、カタルシスを得ることすらありました。
例えば生物のテストでひどい点数を取り、
「きゃ~、あたし△△点とっちゃった!」
とか言って叫んだ瞬間に、それが一つの儀式となり、
以降私は、学業成績を全く恥じることなく生きられるようになりました。

もちろんテストの点数なんてものは、どう考えても、
人間の恥というには足らない、些細なことなのですが、
高校生の私にとっては、まだまだ捨てきれないものがあったのでしょう。
だから、公表をすることは
「私は点数なんて言うくだらないものに振り回されずに
自由に生きていきますよ」と宣言するパフォーマンスにもなりました。

そうやって、幼少期から知らず知らずに身にまとわされていた、
見栄の様なものを、一枚一枚脱ぎ捨てるようにして身を軽くしながら、
私は自由を獲得していったのだと思います。
「ああ、恥ずかしい」と叫ぶその声は、
まぎれもない喜びの声でもあったのです。

大人になってからは、テストの0点など問題にならないくらいの
自分の中の奥深く眠っている恥に気付くことも増え、
それを脱ぎ捨てる快感、秘かに囲う後ろめたさ、
他人の中に通ずるものを見つけた共犯者の喜び、
葬ったはずの昔の恥に追いかけられながらの諦念・・・、
生物の点数ほど単純には割り切れない、
様々な恥と向き合っています。
捨てきれない恥を抱えて生きていくのが人生か、
などと、分かったような、分からないようなことを呟きながら。

こういうの、皆さんもそうじゃないのかな?
それともアスペ特有のものですか?
似てるけど、ちょっと違うとか?
もう、自分ではなんだか分かりません。
(分からないことがまた面白い!)

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/28 (Wed) 06:57:58
>Ioさん

はじめまして。
Ioさんは、発達障害をお持ちの方でしょうか?
詮索するつもりではなくて、おそらく定型的な感覚の人なら、私の『うっとうしさ』に気づくと思ったもので。

主張している内容というか、主張する時と、場の問題です。

いくら正しいことでも、相手の状況を察して伝わるようにしなければ、ただわめいているだけになってしまいます。

私はその状況を察することができないので、『うっとうしく』思われるのです。
分かっていて、ある程度は自制していますが、言わなくてはいけないと思うことは言ってしまいます。
しかし、言ってよい場ではなかった。

そういうことが重なると、周りはうんざりしてしまいます。

できるだけ、言葉ではなく行動から、と心がけていますが、この行動もまた、やって良い場ではないことも多く……。

この判断が出来ないことが致命傷で、今後どうしていくかが課題です。


>ガーディナーさん

恥が誇らしい

まさにここが、私の感覚とは正反対だったんですね。
定型アスペの問題かというと、そうでもないと、私は思います。

なぜなら、アスペの夫は、この『恥』を私以上に恐れているからです。
彼の行動は、とにかく他人に『恥』とうつらないように振る舞うこと。
しかし、アスペなので自分がどういう状況で『恥』をかいているのか、は、判断が難しいらしく、私から見て、『それは恥ずかしい』と思うチグハグな行動も、本人には自覚がありません。
家族から見てチグハグでも、他人が社交辞令で『良いですね』と言えば、『良いこと』になり、それに沿わない家族の方が『恥』になってしまうのです。

なので、自分の行動が社会規範に沿う恥ずかしくないものであって、それとは逆の私の行動こそが『恥』となってしまうのです。

なのでよく『お前は恥ずかしい人間だ』と言われます。

これは、おそらく生育歴と覚悟の問題ではないかと。

私自身も、ずっと『世間様に恥ずかしくないように』と躾けられて来たので、世間という集団から外れた行動を恥ずかしいと感じ、その行動をしてしまう自分を『恥』と思っていました。

幼い頃は『恥』の感覚が分からなかったのですが、母がそういうことに敏感で、恥ずかしいことをしてしまう私を、世間から隠そうとしていました。つまり、恥ずかしいことをする私という存在事態を否定していたわけです。

母が特別かといえば、そうでもないと思います。

現在、学校や社会で起きているイジメは、そうした集団から外れたことをする人の存在を否定し、排除する目的で行われています。

あるタレントが、週刊誌に私生活を暴露されて行方をくらましましたよね。あのタレントも『恥』をひたすら隠そうとしていたのだと思います。

私にとって『恥』という言葉は、存在自体を否定される言葉として受け取れるんだと思いますし、私の周囲の人間も、そういう感覚で生きている人が多いように思います。

ただ、私自身もようやく、ガーディナーさんの心境に近づいてきています。
だって、それが私だもの!と開き直れるようになってきました。
今回のことで、またさらに世界が開けましたね。
そこまで達観できる人がきるんだ!と!
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2016/12/31 (Sat) 12:56:05
横レスなんですが。

>相手の状況を察して伝わるようにしなければ、ただわめいているだけになってしまいます。

そうでしょうか?
例えばあすなろさんは発達障害者に対する職場からの排斥に対する問題を仰ってますよね。
しかしどんなに相手の状況を察した言い方をしたからといって、相手が納得して受け入れるかどうかは別だと思いますが。
過去ログで、にわとりさんを叩いていた方に対し、あすなろさんは相手の方を最大限配慮なさっている印象を受けましたが、お相手の方は納得してませんでしたよね。
その方は職場のアスペに足を引っ張られていた方だったと思いますが、ほとんどの方は同じ反応を取るのではないでしょうか?
定型優位の物の見方に賛同しない限りは反対意見を持つ人は反発されやすいと思います。

あすなろさんが叩かれやすいのは、あすなろさんの人間性とか相手の気持ちがわからないからではないと思います。
あすなろさんの場合、内部の人から見れば、共同幻想を壊しかねないと感じるから叩かれやすいのではないでしょうか?
定型優位の社会の細部に渡って、あすなろさんの見解を包み隠さず切り込まれれば、そこの共同幻想が相手も守りの姿勢に入るのは当然だと思いますよ。

相手に伝わるような言い方をして状況が変わるのであれば、社会の仕組み自体がすでに変わっていると思いますが。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2016/12/31 (Sat) 15:35:36
>やっぱりおかしいさん

>内部の人から見れば、共同幻想を壊しかねないと感じるから叩かれやすいのではないでしょうか?

はい。おそらくそういうところだと思います。
共同幻想というのは、ここで議論されていた名称ですが、要するに、『かろうじて均衡を保っている人間関係を、破壊する』と思われるのだと思います。
職場だけではありません。PTAの活動でも、同じ排除を受けました。
その時、にわとりさんは、そのカラクリがわかるとおっしゃっていました。
私から見れば、定型社会は非常にバランスの悪いところに、かろうじて乗っかって、相手の動きを見ながら自分が動かなくてはいけない。そうでなければ、相手も自分もひっくり返る危険をはらんでいる。
そんな風にうつります。

なので、もう少しバランスをよくする方法がありますよ、と教えたいのですが、戦々恐々としている場所では、そんなことをしたら、転覆するじゃないか!と、途端におよび腰になるのがオチです。

つまり、私のやることがとても危険なものとうつって怯えるようなんです。

本当はそんな難しいことじゃないのになと、いつも思います。

私が空気を読めないのは、そうした定型側の複雑な心境が分からないからです。
定型同士だと、相手の怯えや心情を推し量ることが出来るので、どちらかといえば、そういうことに無頓着な私よりも、心情の分かる者同士でくっついていた方が安心するみたいですね。

自分で間違ったことをしているとは思っていません。それが間違っていないことを証明するために、たくさん勉強してきましたし、今も裏付けを取るために勉強しています。

しかし、いくらそれが正論だと証明されても、受け入れられない心情があるのが、定型の社会の難しさです。
あすなろさんへ
  • Katz
  • 2017/01/03 (Tue) 22:56:11
えーと、クリスマス以来の投稿…かな?
皆さん明けましておめでとうございます。今年もしょーもない話が中心になりそうですが、よろしくお願いします。

で、あすなろさんからいただいた引用記事についてです。今の話の流れを横切るようで申し訳ありませんが。

日本における資本主義の歴史、その小室先生による考察についてでしたね。ただ、これも、今一生氏による要約なので、どこまでが小室先生自身の御意見なのか、少し掴み切れない所があります。どうも若干、ピントがぼやけているような気がするんですよね。いえ今一生氏を悪者にする気持ちはありませんが…

論としては明らかな矛盾も無く、明治維新以来の大きな流れを掴んでいると思います。一言でまとめると「資本主義の枠組の中に、封建制の精神を残している。だから今の官僚が腐っているのは必然だ」という事でしょうか。

日本の現状について、一つの真実を突いているのかも知れないなぁ、と思います。ただどちらかというと、これに反論する為の明確な論拠を持ち合わせていない、という消極的な感想なんですけども。

実は最近の私は、こういう話を聞くと少々身構えるようになりまして。日本の近現代史を厳密に研究した訳ではありませんが、ちょっとずつ聞きかじった所をつなぎ合わせて感じる事は、日本の歴史や文化は一筋縄ではいかないという事です。価値観が一つではないんですよね。複数の価値観が同時に並立していて、しかも絶妙に絡み合っているようです。その意味では、日本の社会はとても広くて大きい。誰ですか狭い国土で小さくまとまっているなんて論評した人は?と糾弾したくなる位です。

大きな社会が怖いのは、注目して切り出す点を変えれば見え方はどうにでも変わってしまうという所にあります。部分を切り出すテクニックですね。だから、悪くなってきた時にその原因を論じるのも簡単だし、良い時にその理由を論じるのも簡単です。

そんな訳でこの小室先生(および今一生氏)の今回の主張に関して、鋭い論点を持っているように見えながら、もう一つ決定打に欠けるというか、そんな気分になってしまうのですね私は。だから、一つの面白い着眼点として意識してみます…という感想に留まるのでした。

教育を変える話について。あすなろさんに随分と褒められてしまいましたが、私としてはそれほど目新しいつもりは無くて、あの発言からそこまで食いついていただいてしまうとどうもこそばゆいと言うか(^_^;) そういえば経済と教育を結び付けた主張を強調した議論はあんまり見ませんかね。教育を変えたい理由は、まさにあすなろさんがおっしゃっている通りです。

今の支配者層から見ると、モノを知っていて自立して先回りできるような人間が大量に生まれると、とても都合が悪く感じるのかも知れませんけども。言い換えると、仕事を丸投げすれば必ず成功させる人物ばかりになる訳なので、この変化の激しい時代においては、むしろ願ったり叶ったりではないかと私などは考えます。この点において、切り口は違いますが私とカミさんはおおむね似たような方向を向いていまして。自分の子供で壮大な「実験」をしている所です。
Katzさん
  • あすなろ
  • 2017/01/04 (Wed) 07:29:15
明けまして、早々にありがとうございます!
今年もよろしくお願いいたします!!

ストンと腑に落ちました!
確かに、小室先生のお話の全容ではなく、いかに社会が歪んでいるかという論争に持っていくために、今さんがこの講演の内容を引用した感じが強いですね。

私も最近、社会の仕組みを批判するだけでは何も進歩しないな。結局、文句を言えば、その反対派がまた文句を言い、堂々めぐりに終わるだけ。と感じています。

しかし、この中庸の大切さを訴えているのは、実は最近の今さんの記事なんですね。
ある時期、社会批判に力を注いでいた時があり、批判ばかりでは何も進歩しないと気付いて、最近は具体案を検討する方向に動かれているようで。

小室先生の記事は、確か古いものだったと思います。

今さんは、実際問題、社会で活躍している人の価値観を変えることと、社会から外れてしまった人の支援を考えている。

しかし、何故社会から外れる人が出るのか、それはそもそも教育が間違っている。

私は教育畑に足を突っ込んでいるので、この問題は肌で感じます。

本当にKatzさんご夫妻の思われる通りです。
こうやって、問題の原点を見つめて、批判ではなく、別のものを築き上げて行こうという姿勢は大事ですよね。

仲間が増えるといいなと思っています!
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/04 (Wed) 10:18:20
具体的な案を出しても潰されるのが今の社会であり、具体論を出したあすなろさんを批判したこちらの人達を見ても同じことが言えますね。
ただ嫌でも今の世代の価値観が旧来の思想から少しずつ崩れて来ているようなので、そこに期待したいところですね。
katz さん、あすなろさんへ
  • かぼちゃ
  • 2017/01/04 (Wed) 10:26:29
モノを知っていて自立して先回りできるような人間が大量に生まれる 


こういう人が案外いなくて、仕事が流れない。仕事は沢山あるんですけどね。
で、どうしたら生まれるかということについて主人と話していたら、意見が一致しまして笑


こういう人がうまれなくてもシステムをしっかり構築できたら、それはそれでいい気もしますけどね。


で、katzさんご夫妻とは違いますが、うちの場合、夫婦お互いやりたいことをやっている今、勝手に子供にそういう状況を作るようなことになっている気がする、なんて話していて。(最初にとっかかりややり方とかはちゃんと伝えた上で)
 

まずは自分、やりたくないことはやらない、それがうちの夫婦です笑

横レス失礼しました、年末たまたまこのような話題がドライブ中でたので、ついつい。
あすなろさん、かぼちゃさんへ
  • Katz
  • 2017/01/04 (Wed) 21:33:10
お返事ありがとうございました。

> あすなろさん

そうですか、今さんも具体的な方向へ動いていますか。私も少し、今さんに興味が出てきました。

私もあすなろさんの仲間に入れて下さい(^_^)/ 本業が忙しいので大した事は何も出来ませんが、ウチの娘がいずれはこういう問題に突き当たるでしょうし、私なりに手札を用意しておきたいと思ってます。

今回の一連の会話を見ている方が他にもいるかも知れないので一応補足しておきますと。私は一介のIT技術者(それもIT土方と揶揄される人種^^;)ですが、自分なりの人生経験と人間観察から人の心について一家言を持つに至りました。人生を前向きに切り開いていける心と、それが仕事(広くは経済)に及ぼす影響、という点に関する考察ですね。カミさんは幼児教育の専門家で、特に重度の発達障害児が得意分野です。その関係で、乳幼児から児童・成人に至るまでの一連の教育プロセスに関して思う所があったようで、自分なりに理想の教育を考えていたようです。それも良い子の育て方とか天才の作り方の類いではなくて、幸せな人生を送れる人間の育成という方向ですね。そういう点で、私とカミさんは切り口は違うんですけども、目指す所はおおむね似たような方向になっていると感じます。


> かぼちゃさん
> モノを知っていて自立して先回りできるような人間が大量に生まれる
> こういう人が案外いなくて、仕事が流れない。仕事は沢山あるんですけどね。

それは確かにありますね〜。空気を読むとか読めないとか、そういう次元じゃないんですよね。本当に。仕事の効率が悪いってのは、こういうのも影響しているような気がします。

> こういう人がうまれなくてもシステムをしっかり構築できたら、それはそれでいい気もしますけどね。

いえいえシステムだけじゃ難しいんですよ、こういうのは。システムというのは、所詮、道具に過ぎませんから。特に変化の激しい昨今、システムでカバーし切れない事例も次から次へと発生するので、そういう時の対応は特に人間のレベルがモノを言います。

こういう人を生み出す教育までもシステムに取り込むというなら話は別なんですけども、ねぇ。

ちなみに割と最近仕入れたお話で、そういう教育をシステムに取り込んでいる私企業が存在するらしいと聞きました。アメリカの超名門企業ゼネラルエレクトリック社。かのエジソンが興した会社が起源だそうで。詳細は私もよくわかっていませんが、ちょっと聞きかじっただけでもとにかくすごいです。
katz さんへ
  • かぼちゃ
  • 2017/01/05 (Thu) 00:59:54
コメントありがとうございます。



いえいえシステムだけじゃ難しいんですよ、こういうのは。システムというのは、所詮、道具に過ぎませんから。特に変化の激しい昨今、システムでカバーし切れない事例も次から次へと発生するので、そういう時の対応は特に人間のレベルがモノを言います。


そっかあ、流れの行き詰まり対応のために部署の解体、組み換え?的な処置がとられるかもとのことで、それによって流れが出来るのかななんて期待してましたが、、、。ということもあるかもですね。



詰まりフル対応が超人的。笑


本当空気読む、読まないじゃなくて場数というか、仕事にはまる(努力じゃなくて笑)というか、観察?トライ&エラー?というか勇気?笑というのか。

一般論ではなくこれは私の話です笑





ゼネラルエレクトリック社みてみます。面白そう~
ありがとうございました!
かぼちゃさんへ
  • あすなろ
  • 2017/01/05 (Thu) 09:03:07
今年もよろしくお願いいたします!^_^

>モノを知っていて自立して先回りできるような人間

これは、かぼちゃさんがおっしゃるような、自分のやりたいことを出来る人のことだと思います。
自分のやりたいことだけをやる、というのが出来ていない人が多く、会社のためとか、顧客のためとか、そんな大義名分に囚われて、本当は何をしたかったのか見失っている人が多い。
それで過労死だとか、クレーマーなどの問題が起きるんだと思います。
会社で働くのは、自分の生活を守るため。顧客を喜ばせるのは、対価を得るため。
そういう基本的なことを見失うと、自分の力量も、相手への要求も、限度を超えてしまいます。

だから、かぼちゃさんの姿勢は、人としての基本なのに、それすら出来なくなってしまった人が増えすぎておかしなことになっている。基本に戻りましょうよ、という、ことなんだと思います。

その点で、基本を見失った人間がシステムを作っても、結局同じことになる。Katzさんがおっしゃる通りなんじゃないかと思います。

かぼちゃさんは出来ているので『そんなことあるの?』と思われるかも?
でも、出来なくなってしまった人ばかりなんですよ、世の中。
だから人間はどうして生きているのか?という基礎から教えなくちゃいけない人が、年齢関係なく、たくさんいるんです。

困ったもんですねー!(^_^;)

Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2017/01/08 (Sun) 09:47:44
blueさんのお話から、自分の育ちとアスペ定型問題は関係が深いなと、改めて思ったのですが、その違いがはっきりするような出来事がありました。

娘は学校の成績が振るわないため、家庭教師をお願いしているのですが、授業中にお茶やお菓子を出さないでください。(気を遣わないでください)と言われています。
しかし、先生の方で気遣って、自分でお茶を娘の分まで持ってきてくださったので、私は申し訳ないと思ってしまいました。もちろん、親としてそう思ったところも大きいですが、私が子供の頃でも、多分申し訳ないと遠慮したと思います。
相手に負担を掛けさせるなんて、いけないことだと思っていたからです。

しかし、娘はそれをもらって、『わあ、嬉しい!飲みたかったんだー!』と言ったそうです。それで先生が、そう言ってもらえると本当に嬉しいと言っていたのです。
娘は先生に気遣ってそう言ったわけではなく、本当に食べ物飲み物大好き!飲みたかったんだと思います。
感情を素直に表しなさいとか、教えたわけではないけど、アスペの娘は、どんな感情にもストレートです。それが時には、迷惑になることもあるけれど、逆に相手がそれを見て快感に思うこともある。

私が定型側というわけではありませんが、私にはそうしたストレートな表現は出来ないんです。喜びを表すにも、相手がそう言ったら喜ぶだろうなという思惑があります。
その姿勢が、厳しい躾によって、さらに強調されて、ストレートに出してはいけないという思いが強いです。
娘のような喜びを表すには、二重の工程を考えます。ここで自分の思いを表現したら、相手はどう感じるだろうか?

娘との違いは、はっきりしていますし、私はたぶん、娘のようなストレートな感情表現が、心から出来るようになるとは思えません。

こんな詩があります。↓

ゲシュタルトの祈り
http://www.ieji.org/archive/das-gestalt.html

ご存知の方もいると思いますが、人間が神経症を抱えないために、重要な、本来の姿勢を言っています。
社会というのは、このままでは渡っていけないものなのですが、それでもこういう姿勢が人の根底に無くては、流されてしまいます。

アスペというのは、相手に影響を受けにくいために、これが出来る人たちなのかもしれないと感じました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2017/01/09 (Mon) 20:26:57
この記事に共感します。

http://susumu-akashi.com/2016/01/sympathism/

ここで起きていることも、まさにそういうことではないかな?と。

定型側にいる人は、定型の心理が理解できるし、アスペ側の人は、アスペの心理が理解できる。

両派に分かれるということは、共感できるもの同士のグループが二つあることに過ぎない。

同じグループの人同士は、相手の心の動きが察知でき、共感できるが、対するグループの人たちの動きは察知できないから、共感できない。

そんな単純なことに、なんで気付かなかったんだろう?と思いました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2017/01/09 (Mon) 20:38:54
もう一つ、面白い記事です。

http://neuropsychology.seesaa.net/s/article/445719634.html

道徳や価値観というのは、相対的なものです。
その集団の人だけが見ている『幻想』と言えるものかもしれません。

グローバル化が進んで来た現代は、昔の人から見れば、非道徳的な社会です。

年配者が、子供の声がうるさいと思うのも、昔は子供であろうと近隣に響くような声を出さないように厳しく躾けるのが当然だったからです。
つまり、子供が外に響くような声を出すこと自体が、非道徳的と考えるからです。

そう考えると、アスペや発達障害の人は昔から存在したにもかかわらず、その特性を出さないように躾けるのが『道徳』だったわけで、多様化が認められれば認められるほど、古い人たちには『非道徳』になるわけです。

共同幻想は変わっていくというところにも、つながると思います。
アスペ女子は、かっこいい!
  • あすなろ
  • 2017/01/13 (Fri) 21:24:27
この間、買い物帰りに、自転車を漕いでいたら、以前仕事で余暇支援をしたことのある中学生のアスペの女の子を見かけました。
声をかけようとしたら、何やら男子と向かい合って、ただならぬ雰囲気。
ちょっと声をかけられる雰囲気ではなかったので、黙って横を通り過ぎてしまったのですが。
その時、ちらっと聞こえたセリフ。
その女の子は、男子に向かって
「それが迷惑だってこと、分かってやっていたんですか?!」と強い口調でたしなめていました。
男子は済まなそうに身体を縮こませていました。

中一の時、出来たばかりの支援級に入学したものの、普通級の生徒からのいじめに遭い、転校したという経歴の子。
転校先の支援級でも、同じクラスの先輩(受動型アスペ)がイジメられるのが嫌だと、言っていました。
本人はとても正義感が強くて、何でもハッキリ言う性格。

これまでの経験から、よほど腹に据え兼ねることがあったんだろうな、と。

けれど、私はその場面を見て、小躍りしそうになりました。
よくぞ、言ったー!かっこいいぞー!と。

うちの娘もそうですが、アスペ女子は、自分のポリシーをしっかり持っているなと感じます。
そして、良い意味で遠慮せずに言いたいことが言えるのは(もちろん、性格によって違いますが)かっこいいですね。
彼女も、色々な経験をしてきたので、強くなったのでしょう。
心からエールを送りたくなりました!
その子がかっこいい(アスペ女子がかっこいいわけではない)
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/14 (Sat) 15:35:12
その子はすごいですね。

私も同じ当事者として許せないし、いし、腹に据えることは沢山ありますが、自分がいじめられたくないから、罪悪感を感じつつも、いじめられていた子との関わりを避けてました。
自分がいじめの対象にならなくて良かったと安心してました。 

いじめを見て二通りに別れますね。
罪悪感を感じつつも知らぬふりをする子といじめを面白がって荷担する子。
後者の場合は一人一人はいい子でも、集団となると残虐な一面が出てました。
しかしどちらにしても、知らぬふりをしてる時点でいじめてる側と同じ。
それでも大半の人は(アスペとか定型とか関係なく)自分が一番可愛いから、私のように知らぬふりをすると思います。
Re: その子がかっこいい(アスペ女子がかっこいいわけではない)
  • あすなろ
  • 2017/01/15 (Sun) 08:54:09
>やっぱりおかしいさん

この中学生の子の置かれた立場から、アスペの子供達が直面する問題を客観的に考えられるかな?と感じました。

私が関わった時期は、小学校の高学年くらいからで、それも数えるほどしか無かったんですが、私が居た施設には、もう低学年の頃から関わっているベテランの支援員がいました。

幼い頃から少し気難しいところがあって、言動には気をつけましょうという申し送りがありました。
とても頭が良く、察しも良いので、大人のちょっとした会話や態度に敏感なのです。
ベテランの支援員さんは、その加減が分かっていて、本当に良いと関わりをしてきました。休日に支援に入ることが多いので、学校や家庭でのストレスを解消する場としてよく機能していたんだと思います。
外部のストレスだけでなく、てんかん発作も持っていて、自分の身体が思うようにならないことにも苛立ちを抱えていたようです。

彼女の支援をしたとき、ひたすら、親への不満、学校への不満を吐き出していました。それで一通り話してスッキリするという感じでしたね。

こういう第三者がいなかったら、彼女はどうやって現実と戦えたかな?と思います。
私に不満を漏らした時にはまだ、言いたくても言えない。でも怒りが溜まっているという感じでした。
転校前の学校では、もっともっと辛いことがあったんだと思います。

それで久しぶり見かけたら、こういう頼もしい姿が見られたわけです。

おそらく、1人で向き合うには、社会は厳しいでしょうね。

でも、彼女のポリシーは、どんな状況でもずっと一貫していました。それを支持する支援員さんの存在も大きかったと思いますが、表に出せるか出せないかは別として、一貫したポリシーを持ち続けることが、『かっこいい』ということです。
障害は個性か?の問題
  • あすなろ
  • 2017/01/16 (Mon) 09:00:17
ずっと、モヤモヤしていることがあります。
それはどうやら、私だけではなくて、発達障害を持つ人と持たない人、定型であっても発達障害支援関係にいる人とそうでない人のあいだで、大きく議論が分かれる問題になっているようですし、同じ障害者でも議論が分かれるところのようです。

それは、障害は個性か?という問題。

このことに関して、他のところで、現在学校で特別支援教育コーディネーターをしている先生と議論したことがあります。
その先生は、発達は個性だと思うし、児童にもそう話している。と。目の不自由な子に対して、目が見えないことは個性なのだから、それをからかうことは言わないようにと教えたいと。もちろん、その一方で必要な支援はしている。ということでした。
これは良いと思います。
では、発達障害の子については?と聞いたところ、医療機関などで診断を受けたケースについては支援するけど、それ以外はあくまで個性として受け止めるということでした。
それを聞いて、私はおかしいと思いました。

パニックを起こしたり、友達とトラブルになったりしている子も、その原因を探らないで個性と受け止めるのですか?と。
その先生は、原因を探って支援方法を考えるのは医療機関の役目だと言うのです。

この先生は結局、障害は個性ということで、障害がどのようなものかを考えようとしていないと、私は思いました。

私の意見は、障害は個性ではないというものです。
他の方はどう受け止められているか分かりませんが、少なくとも私にとって、障害は『無ければそれに越したことはない。それがあることによって、自分の個性にフィルターが掛けられている。しかし、無くすことはできないのだから、そのフィルターがあるままで、どうやって個性を活かしていったらいいか、それが私の生き方である』ということです。
そのフィルターの部分を他人に、それも受け入れなさいと言われるのは心外です。
よく、自分の短所と長所に例えられることもありますが、決定的に欠けているもの、機能しないものは、短所と言えるか?と。
短所というのは、見方によって長所に転じることができるものだと、私は考えます。

子どもである場合、どこからどこまでが、フィルターなのかがわかりません。支援するというのは、そのフィルターと個性を見分けて、フィルターの部分を解消するための手助けをしてやることではないかと思うのです。

目の見えない子は、フィルターがはっきりしています。けれど目が見えないというフィルターも含めて個性とされていいのでしょうか?

そんな疑問を感じます。

しかし、これはとても議論の分かれるところなので、他の方の感じ方も知りたいところです。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/16 (Mon) 13:23:17
私は障害は障害、時には害にしかならない場合や人もいりと思います。
障害なんてない方が良いに決まってます。仕方なく受け入れるしかないだけ。

発達障害に察しろとかは無理難題ですが、お友達に暴力やわがままばかり言っているのはな害でしかないのだから克服すべき、できないのであればその子だけ環境を分けるべきだと思います。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/16 (Mon) 13:37:24
過激なことを言いましたね。
健常者側から喧嘩をふっかけて、発達障害者側から暴力を振るう背景も様々ですからそこを見極めないといけないですね。
暴力はいけないけどそれだけを責め立てれば、健常者ばかりひいきしてると心に傷が残りますしね。

でも一方的な我が儘で周りの子に暴力を振るう子、成長してもわがままな人、これは障害ではなく、害(公害)でしかないということです。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/16 (Mon) 13:47:05
あすなろさん

発達障害のおかれる現状はきびしいですよね。私も悔しい思いを沢山してきました。
だからこそその中学生のポリシーは素晴らしいと思います。

でもアスペ女子だからポリシーがなかなか持てるものではない。
支援者の存在が救いだったと思いますが、私は家庭に恵まれていたので、そこで発散していましたが、他人に対する評価は呪いのように縛られ続けていました。
いじめられてる子をかっこわるいと思っていたし、自分がそれで優越感を感じていたこともありました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2017/01/16 (Mon) 20:54:19
>やっぱりおかしいさん

例えば、多動や衝動性の強い障害の子は、本人に悪気はなく危害を加えてしまうことがあります。
これは、本人のせいでもなく、克服できるものではありません。
そういう障害に応じた対処をしなくてはいけないのは、教師や支援者の役目です。
その責任を放棄して、その子ども個人を悪者にしてしまう。
障害を個性と言って対策を練らないことが、どれほど責任の重いことか、大人の側が自戒しなくてはならない。

やっぱりおかしいさんの幼少期も、きちんとした介入がされていれば、集団の中で苦しむことはかなり減ったはずです。

もちろん、今の成人の方の幼少期には、ほとんど理解が無かったので仕方ないのですが。
これだけ情報があり、文科相からも勉強するように言われているにも関わらず、相変わらず障害は個性などと言って責任を放棄している教師がいることが情けないのです。
私も同感です!
  • あすなろ
  • 2017/01/17 (Tue) 00:07:07

この記事の通りだと思います。

http://apartment-home.net/column/201612-201701/yuhei_30_07/
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • noa
  • 2017/01/17 (Tue) 11:03:25
障害は個性か?難しいですよね~(>_<)
『個性』という言葉ひとつが人によって違う意味合いを持つと思うからです。なので『個性』と呼ぶべきか違った言葉で呼ぶべきかは私にはわかりません。

『個性』という言い方を、周りの定型の人達(発達障害に知識を持たず、支援したり指導する立場にない一般の人)に発達障害って言ってもそんなに難しく考えないで気軽に付き合えばいいんだ、と理解してもらう(壁を取っ払う)為に使うなら私は賛成です。

しかし、『個性』という気軽な言葉を用いる事で、支援者や指導者がそれぞれの障害の特徴等を深く考え研究しなくなるのなら、その使い方は反対です。

『個性』という言葉そのものにではなく、使い方に賛成だったり反対だったりです。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/17 (Tue) 20:31:35
>本人のせいでもなく、克服できるものではありません。
>そういう障害に応じた対処をしなくてはいけないのは、教師や支援者の役目です。

それだったら専門の先生をつけた上で教室を分けるべきですね。
誰だって殴られたくないし、一方的になぐられた側は「障害だから許してあげてね」で許せるはずがないですしね。同じ当事者の私でも許せません。
授業の妨害にもなります。

障害の有無はさておき、バカ親と言われる人であれば、「健常者との人間関係の勉強ができるように」とこだわりますが、余計に親子そろって孤立するだけです。
感情のコントロールができないのだからコミュニケーションが取れるはずがないですよね。
成長すれば、暴力を振るわないようにコントロールはできるようになりますから、それからでも遅くはないというか、それからの方が良いと思います。

障害とかではなく、教師側も頭が悪い人が多いので、犠牲になる定型の子も多いのでしょうね。
noaさんへ
  • あすなろ
  • 2017/01/17 (Tue) 23:11:02
確かに、その言葉の使われる背景によるかもしれません。

個人的に、自分の子どもを育てるときに、この言葉がとても引っかかっていました。
個性というか、『みんな同じよ』『誰でもよくあることよ』というニュアンスですね。
障害を理解していない人の言葉には、二つの心理があると思います。
ひとつは、そんなに気負わないで、気楽に考えて。
ひとつは、大げさに言って。誰だって大変なことを抱えているのに。
後者は明らかに理解する気が無いのは分かります。歩み寄る気も無く、みな自己責任で生きるべきと投げられている。
しかし、実は前者も同じく、歩み寄る気がない。気楽に考えれば問題は解決すると思っている。心理的なものを解決すれば障害が無くなると思われているわけです。
前者は、一見思いやりがあるように感じられるし、言った本人も優しさで言っているので、言われた相手が反論することは出来ません。

子どもがトラブルを起こすたびに、こうした『優しさ』で孤立してきたことを、思い出してしまいました。
自分もそうですが、我が子の障害も、自己責任。
しかし、どんなに辛くても、障害を持っているということは、周囲の理解と協力を得なくてはいけない。
現在使われている『障害は個性』という言葉は、どうも、『誰でも持っている特性に過ぎないのだから、自己責任で何とかしなさい』という冷たいニュアンスを感じてしまいます。
やっぱりおかしいさんへ
  • あすなろ
  • 2017/01/17 (Tue) 23:19:06
息子が一年生の時、後ろから友達に声をかけられてびっくりして、振り向きざまに持っていた鉛筆を友達の腕に刺してしまいました。
パニックを起こして友達を突き飛ばしたこともあります。

同じアスペのお子さんを持つ方の話では、その子がライターに執着をしていて、親の知らない間に学校にライターを持って行って、授業中に火を付けてしまったそうです。

そんなトラブルは日常茶飯事でした。

やっぱりおかしいさんの主張では、私も、そのお母さんも、バカ親だったんですね。定型のお子さんに危害を加えた息子やそのお子さんは、理由はいかんせん、普通の学校で学ばせることは間違いだったということですね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • noa
  • 2017/01/18 (Wed) 11:40:15
あすなろさんのお気持ちも痛いほど分かります。私が自身のADHDの症状を健常者に話せば、今のところ100%で「もっと自分に自身を持って」だとか「大丈夫」だとかといった慰めと励ましが返ってきます。子供のことを話しても同じです。

悪い人ではないのですが、ひたすらに努力をして、様々な経験を積んで、できるだけクラスで1番を目指すように子供を育てているママ友がいます。
彼女はその育児こそが絶対に全ての子供を幸せにすると信じていて、子供によってはその育児が合わないという視点を持たない人で、私にももっと子供をしつけるよう時々アドバイスをします。
そこで私が「(息子)はじっとしている事が難しいから、それは向いてないかな~。」とか「(息子)のペースで興味を持てることをがんばればいいかな~」と答えると、
決まって「子供はやればできるんだよ。もっと子供を信じないと!子供の可能性を広げるのは親なんだからしっかりしなきゃ!」と返ってきます。
彼女にとっては善意なので怒る事もできず、ただ私は確実に傷付いて何か心が磨り減っていくのを感じるのです。

また、「障害なんか関係ない」「お前はお前だろ」といつも壁なく接してくれる大好きなママ友パパ友夫婦がいます。この夫婦は元ヤン夫婦で基本的には自由に育てる主義ですが、子供を叱る時はヤンキー時代の恐さが出てきて本当に恐いです 笑 
この夫婦から見ると、私が子供を叱っていないという事が心配でたまらないようで、時々「何でお前叱らねえの?」と説教をしてくれます。気持ちはとっても分かるので半分うれしいのですが、その行動は息子にとって抑えられないものだという事を私は知っているので叱らないのです。

私が叱る時は、明らかに努力を怠って逃げている時と、他人に危害を加えてしまった時だけと決めています。そうでなければ、息子はただ生きているだけで一日中注意されていく事になります。それははっきり言って生き地獄でしょう。
また、叱るときも大きい声と恐い顔は逆効果なので淡々と話をして諭すようにしているのですが、それも叱っていないと映るようです。

この大好きな友人に言われた時すら、私の心は少しずつ磨り減って傷付いていきます。

それはあすなろさんが言われているのと同じ気持ちからでしょう。
”『誰でも持っている特性に過ぎないのだから、自己責任で何とかしなさい』という冷たいニュアンスを感じてしまいます。”
私も確かにそれは感じてしまうのです。
また、ずっとこのブログでアスペ側の方々が訴えられてきた「障害のせいにして努力を怠っている」と責められているようでひどいという気持ちとも同じ種類のものでしょう。

だから、この間議論されていた励ましが逆効果という気持ちが私はよく分かるのです。私がADHDを打ち明けるとき、これが苦手だと言う時、決して暗い雰囲気は出さないように冗談交じりに言ってみたりします。でもどれだけ明るく話しても慰められちゃうんですよね~(/_;)ADHDである事がマイナスであるとしか認識されないんです。
私はADHDの私をとても気に入っているのに。
私は出来ないことが多い分、出来ることは全力で真面目にとてもがんばってちゃんと社会に貢献しているつもりです。ADHD特有のアイデアを仕事に活かして働いています。でも結果、どんなに親しい大好きな人にすら残念な存在と思われる・・・。

これは確かにとてもつらいんです。もちろん、好意で言ってくれているので怒りの気持ちなど湧きません。でも、だからこそその分自分の気持ちが磨り減っていくのを感じます。

多分、私が心底望むのはあすなろさんと同じでも、今現在の現実とすり合わせて半分妥協したのがいつも私が主張する意見なんだと思います。
心の底では、もしも本当にそんな事を望めるのなら私もあすなろさんに共感しています。

実際の今の社会で生きていくためには、気楽な気持ちでも壁を作られるよりいいかなと思ったわけです。今、息子は小学校2年生です。この頃の子供に障害を理解させ、差別をなくすのは難しいので、よけい今の私の現実に沿った答えになるのかなとも思います。

長すぎですね^^;すみません。

最後に、やっぱりおかしいさんの主張も分かります。普通級に拘ってしまって親子で苦しみ、周りを巻き込んでしまう例は確かにあります。ただ、親の視点で見ると、とても難しい選択です。息子はたくさんの友達に囲まれて楽しそうにしています。特に仲の良い友達と遊ぶ時はとても楽しそうです。それを離すというのはやっぱりとても辛い選択ではないでしょうか?悩んで悩んでなかなか決断できずにいる人、必死に考えて決断した人、様々だと思います。バカという言葉はあまりにきつすぎるのではないでしょうか?

それと、定型の子も低学年だと暴力的だったり他人の物を盗ってしまったりする子は多いですよ。最近は家庭に事情のある子も多いので。その子達も隔離しますか?
そうなると、きりがなくなってしまうような気がします。

ただ、普通級が合わず辛い思いをしている子供を分けるというのは必要だと思います。あくまで本人の為にどちらが合っているかという基準でなら大賛成です(^^)

健常者の安全性は?
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/18 (Wed) 12:08:56
あすなろさん

息子さんはパニックになったかもしれませんが、相手の子からしてみればわけがわからないことで突き飛ばされたんですよ?
鉛筆をさされたんですよ?
ライターで他のお子さんがやけどをしたらどうします?
鉛筆が目に刺さったらどうします?
健常者や他の障害がある生徒への安全は二の次ですか?
申し訳ありませんが、同じアスペ持ちで、差別を受けた経験がある私でもビクビクします。

当事者の親、しかもあすなろさんのように支援についている方の立場から「特性だからコントロールできない」と言われたなら部屋を別に分けるしかないですよね。
品性や優しさに欠けた私の言葉に傷つかれたかも知れませんが、それで怒られたら、私に限らず、世間からも「バカ親」と言われても仕方ないかと思います。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/18 (Wed) 13:06:15
障害がある子の中にはおとなしい子もいますから、障害だからわけろとは言いません。
ただ安全性を考えたらそういった対策はやむ得ない子もいます。
無関係な人間は巻き添えになっても我慢しなければならないんですか?

あすなろさん達の主張は親としてのエゴにしか感じません。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • noa
  • 2017/01/18 (Wed) 13:06:55
やっぱりおかしいさん

先程の私の投稿だと、健常者の安全性について書いていませんでしたので失礼な投稿になっていたかもしれません。申し訳ありません、補足します。私が疑問に感じたのは「バカ」という言葉にだけです。
確かに安全性が脅かされる場合には本人の意思とは関係なく引き離すことが必要だと私も思います。その意見そのものには程度にはよりますが私も概ね賛成いたします。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • ひばり
  • 2017/01/18 (Wed) 13:52:07
お久しぶりです。

やっぱりおかしいさんのバカ親はひどい言い方だけど、言ってる内容は分かるな。


定型側の立場から言わせていただくと、やっぱりそういう暴力的な子がいるとどういった理由であっても怖いです。
あすなろさんが息子さんを大切に思っているように私達も子供を一番大切に思っています。
何かあってからでは遅いです。
これはアスペに限らず、定型の子が暴力をふるった場合でもです。
いじめも含めて、人に危害を加えている子がいるのであれば、そのこは障害とかではなく、環境は分けてほしいと願います。


私もアスペの娘がいます。癇癪があります。あすなろさんの気持ちもわからなくはないです。
だけどお友達に危害を加えることで、無関係な子も傷つくし、娘もそれによって孤立すること、いじめになることもあります。結果的に双方が傷やしこりを残します。
それならむしろはじめから娘だけ違う教室で授業を受けさせたいです。


あすなろさんもnoaさんもエゴが入っているかなと思いますよ。

noaさんへ
  • あすなろ
  • 2017/01/18 (Wed) 20:43:58
>noaさん

一般の人の認識は変わらないと思います。
私も同じように、親切な知り合いがたくさんアドバイスしてくれましたし、その中で使えるものもあったのは事実。
だから、知らないなりにそれでも思いを寄せてくれることは、ありがたいし、結果的に良かったこともあったと思います。

ただ、いつまでも無知でいていいわけではありません。

そうした無知による親切をする人たちも、ただ、知識を得る機会が無かっただけで、知っていれば本当にためになるアドバイスをしてくださったかもしれません。
知る機会が無い。それだけのことなのです。

私が問題にしたいのは、特別支援コーディネーターなど、教員に啓発するべき立場の人が、勉強を怠って『障害は個性』などと言い切るその態度。
もちろん、素晴らしいコーディネーターの方は、どんどん増えています。勉強している人も増えています。なので、悲観することではないのですが、その役目を任されながら、無知を貫く人がいることが情けないです。
これらの人が中心になって、少しでも一般に理解が広まること。これが急務なのに、自分も一般の感覚にとどまっているとは。

あ、つい、怒りが……。

おそらくnoaさんの周囲の方も、障害の知識が広まったとき、noaさんのお子さんの姿を思い出して『そういうことだったの!』と素直に受け入れてくれるのではないでしょうか。

おそらく、noaさんのお子さんも、うちの子たちも、逆にそういう啓蒙活動に一役買っていると言えるかもしれませんね!
やっぱりおかしいさん
  • あすなろ
  • 2017/01/18 (Wed) 21:00:09
おそらく何を言っても、実際そういう危害を加えた子を放置していたという見方にしかならないので、言い訳としか取れないでしょうね。

私も、知り合いの方も、子どもたちが低学年の頃はひたすら謝り通しでした。知り合いの方はボヤ騒ぎまで起こしていますからね。学校、PTA全てから目の敵にされて精神的にボロボロでした。
だからと言って、子どもを叱ったところでトラブルが無くなるわけではない。1人で背負いこんでいたので、同じように障害児を持つ母親たちの集まりが唯一の拠り所でした。
それすらも無ければ、親子心中していたかもしれません。
実際、そういう事件がニュースになることもありました。

そんな思いをしながらも学校に通わせていたことは、息子の成長には重要なことでした。そうでなければ今の息子はいないと思います。
これは息子にとってのメリットでしか無いので、エゴなのでしょうが。
他の子に迷惑をかけないために、息子の人生を犠牲にするべきだったのでしょうか?

しかるべき機関というのはどういうところを想定されているのでしょうか?

特別支援級?支援学校?

ご存知ないと思いますが、支援学校での行動障害はこんなものでは無いんですよ。ガラスを割る、物を壊す、教師が対応を誤ると、大怪我に繋がることがたくさんあります。

では、支援学校からも、こうした子どもは隔離するべきでしょうか?

次はどこに行くのですか?

危険な障害者は隔離しろ。
その思考の行き着く先は、どうしても神奈川の事件に結びついてしまいますね。
やっぱりおかしいさんへ
  • あすなろ
  • 2017/01/18 (Wed) 21:45:23
息子が危害を加えたとき、まるで平然としていたようにおもわれたなら心外です。
それをエゴだと一蹴できる神経が信じられません。
残念ながら、そうした子をひとり隔離できる機関などありません。
支援級であっても、集団なのです。
支援級の子同士なら、危害を加えても良いのですか?

発達障害があっても、衝動性のある子、無い子、性格的に大人しい子、活発な子、様々です。
親は、その子にどういう特性があるのかなど、選べないんですよ。

私は仕事柄、相手に危害を加えてしまう危険のある子をたくさん見ています。お子さん同士で傷付けないように、自分が盾になることもしょっちゅうです。子どもが相手に怪我をさせたら、指導している大人や教師の責任と考えるのが基本です。その責任は、子どもではなく、預かっている側が負わなくてはいけません。
そうやりながら、人との関係を覚えさせていくのが指導です。
指導方法が正しければ、そういう行動は必ず落ち着きます。
そういう環境も与えないで、行動障害のある子は、檻にでも入れて隔離しておくのでしょうか?

そうした考え方こそ、エゴです。

自分の子供にひどい行動障害があり、支援校でさえ行かせることができずに苦しんでいる親はたくさんいます。

これは、アスペが定型社会から排除されるのと同じ、いやそれ以上に深刻な問題なんです。

あまりにも、実情を無視した、身勝手な意見に驚いています。
それなら、アスペがどうして社会から排除されるのか、よくお分かりになっていますよね。健常者社会に害を為すと思われているからです。
noaさん、ひばりさん
  • あすなろ
  • 2017/01/19 (Thu) 07:25:59
同じ保護者の立場からこういう話を聞くと、確かにそんな危険な子を同じクラスで学ばせないで、と思われるかもしれません。
しかし、だいぶ誤解があるので、訂正しておきます。

まず、私は、息子のやった行為を、障害だから許してくれなどと言った覚えも、思った覚えもありません。
鉛筆を刺してしまったなんて聞いた時には、心臓が飛び出るくらい驚いたことを覚えています。すぐに相手方に謝罪しました。何を言われても聞き入れる覚悟でした。
しかし、相手方のお母さんはあっさりと、「そんなの、男の子にはよくあることだから、いいんですよ。あすなろ君とは仲良くしてもらってるんだし」と言われたのです。しばらく信じられませんでしたが、そのお子さんも、全く変わりなく、息子と接してくれました。引っ込み思案の子だったので、元気な息子と遊べて良かったと、親御さんは思っていたようです。その後、6年間、仲良しでした。
もちろん、たまたま、運が良かっただけだと思っています。
ボヤを起こしてしまった人は、その後、その子が何かやるたびに、学校、保護者から苦情を受けてしまいました。暴力行為が無くてもです。
我が子もそうですが、こうした行為が一度でもあると、逆に相手から暴力を受けたとしてもこちらの言い分を主張することはできません。
私も、息子の方が被害を受けても、「おそらくうちの子が何かやったんです。すみません」と謝ることさえありました。

私の方は、入学当初から、息子に衝動性があるので、しばらく毎日一緒に登校して付き添っていました。
鉛筆は、もう大丈夫だろうと思った矢先の出来事です。息子も落ち着いていたのですが、突然のことにびっくりしてしまったのです。

それからは、登校する回数を減らしました。息子が学校に行きたがっても、落ち着かない様子が見られたら、行かせないこともありました。通級指導教室の回数を増やしてもらおうと思いましたが、それは出来ませんでした。息子を連れて、昼間息子を受け入れてくれる民間の療育機関を探し回ったこともあります。

そこまでしても、学校で友達が出来たことは、息子の財産ですね。思い通りにならないとき、どうすれば伝えられるのか、衝動的な感情が出て来たら、どうやってコントロールするのか、全て学校の集団でうまくいかなかったことから学んでいます。

事故というのは、予期せずに起きるものです。
それと暴力を振るう『可能性』は別ですが、発達障害の子は、幼ければ幼いほど、色々な要素から、その可能性が高いということです。
それを健常な子の安全のために隔離しろとは、あまりにも乱暴な意見ですし、人権侵害にも繋がります。

そういえば、娘もアスペで、学校でしょっちゅうパニックを起こして泣いていましたが、息子と決定的に違うことがありました。暴言は吐いても暴力は絶対に振るわないということです。
息子の時と違って、私の方に心の余裕があったなと思い返します。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • noa
  • 2017/01/19 (Thu) 10:37:44
あすなろさん

"おそらくnoaさんの周囲の方も、障害の知識が広まったとき、noaさんのお子さんの姿を思い出して『そういうことだったの!』と素直に受け入れてくれるのではないでしょうか。

おそらく、noaさんのお子さんも、うちの子たちも、逆にそういう啓蒙活動に一役買っていると言えるかもしれませんね!"

この部分、特に心にしみました!ありがとうございます。私もいつかそうなることを願っています(^^)ついつい黒い気持ちが染み出してしまって失礼しました 笑
ここでしか出せない黒い部分だったので・・・。甘えちゃいましたね!

ひばりさん

はじめまして、よろしくお願いします(^^)
やっぱりおかしいさんへの補足で書いたとおり、私もやはり怪我をさせてしまう回数の多い子が同じクラスにいると正直恐いし、不安でたまらないので分けてくれたら安心だと思います。

ただそれは今、私の子供が誰にも怪我をさせた事がないから言えるのだと思います。息子はとても気弱で自分に自信がなく、男の子特有の力強いじゃれ合いやスポーツが嫌いなので、いつも何かされる側です。とても心配ですが、息子自身が自信を取り戻して毅然とした態度を取れるよう、サポートし、見守るくらいしか私のすべき領域ではないので見守っています。

ではもし、私の子供の特性が人に怪我をさせてしまう可能性の高いものだったら…と考えると、やはりその立場になってみないと私はどうするか分かりません。もしかしたら、普通級にいさせて欲しいと願うかもしれないし、あすなろさんがおっしゃるとおりどこにも行き場がなくなってしまった場合はどうしたらいいか途方に暮れてしまいます。

人の基本はエゴだと私は思うのです。私もひばりさんもエゴな部分があってもいいのではないかなと私は思っています。なので、ひばりさんの我が子を大切に思う気持ち、危害を加えている子がいたら環境を分けて欲しいと思う気持ちも、ごもっともな大切なお気持ちだと思います(^^)
その気持ちを否定する気も権利も私にはありません。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/19 (Thu) 17:27:13
あすなろさん

あすなろさんが息子さんが人を傷つけても平気でいるとは言っていません。
しかしやはりあすなろさんは障害者寄りだと感じます。

支援級同士なら暴力ふるって良いとは思いません。
何故檻に入れて、隔離なんて極端な発想になるんですか?
暴力振るう子は別空間で対応した方が良いでしょう。
何かあってからでは遅いです。暴力振るわれた側は傷つくのに許してあげてねと言うのは酷です。

適切な指導は当然ですが、その子がコントロールできるようになってからでも遅くはないと思います。
世の中息子さんに危害を加えた相手の親御さんのように優しい人ばかりではありません。
アスペ側が孤立したら人間関係の勉強どころではなくなると思いますが?

私ではなく、あすなろさんの身勝手なご意見に驚きます。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/19 (Thu) 17:39:41
>その後、その子が何かやるたびに、学校、保護者から苦情を受けてしまいました。暴力行為が無くてもです。

その場合は何かと挙げ足を取る周りに問題がありますね。


>我が子もそうですが、こうした行為が一度でもあると、逆に相手から暴力を受けたとしてもこちらの言い分を主張することはできません。

その場合は相手が悪いのだから、相手から暴力を受けたなら、周りの反感を買ってもそのことは主張するべきです。

>私も、息子の方が被害を受けても、「おそらくうちの子が何かやったんです。すみません」と謝ることさえありました。

私が息子さんだったらそんな言い方で謝る母親は嫌です。
息子さんが眼鏡を割ったと濡れ衣を着せられた件でも大別違和感を感じました。
自分が悪くない、むしろ被害者だった場合は、周りを敵に回しても、こちらの言い分を主張してほしいですね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2017/01/19 (Thu) 20:38:51
>やっぱりおかしいさん

別に障害者寄りだとか、言われて傷ついたとか、そんなことではありません。親としてその時、様々なことを考慮し、悩み、これしか方法が無かった、それだけのことです。
息子も、たまたまそうやって危害をくわえてしまった経験があるだけで、暴力的な子だったわけではありません。
それを、一つの経験から、『暴力的な子』と見限られてしまうことを問題にしているのです。

やっぱりおかしいさんのおっしゃることは、現実を知らない、建前だけの正義論です。
『うちの子が何かしたと思うので』というのも、本当に息子を疑っているわけではなく、そう言っておかないと、子ども同士の問題に収まらず、親にも敵を作ってしまい、結局息子に悪い噂が立つからです。

やっぱりおかしいさんが、その他大勢のことを考えろというのは、あなたが、一部のアスペの『困った行動』によって悪い噂が立つから自分が排除されるのだという恨みに繋がっていませんか?

別にアスペだから息子がこういう行動に出たわけではありません。
特性を含んだ息子の性格です。
そして、その性格によって起こってくる問題に、親子で試行錯誤してきた、それだけのことですし、私はそれが正解だと思っていますから、他人にとやかく言われる問題だとは思いません。

息子のこと、その時の事情、状況、何も知らないあなたにどうこう言われる筋合いはありませんし、それが何かに影響するなどと言われても、私にはその時とった行動を反省する気などありません。

ただ、あなたのような考え方は、今現在も『風評』に苦しんでいる親子をますます追い詰めることになるので、許しがたい。それだけのことです。
noaさんへ
  • あすなろ
  • 2017/01/20 (Fri) 00:27:37
今までの話の流れで、親としての立場で話してしまうと、まるで言い訳をしているように感じられてしまうかもしれませんが、それとはまったく別に、指導している立場だけでお話させてください。

>息子はとても気弱で自分に自信がなく、男の子特有の力強いじゃれ合いやスポーツが嫌いなので、いつも何かされる側です。とても心配ですが、息子自身が自信を取り戻して毅然とした態度を取れるよう、サポートし、見守るくらいしか私のすべき領域ではないので見守っています。

というところですが、息子さんが自信を付けるには、適切なサポートのもとで、いろいろな友達と触れ合うことなのだと思います。
私が見ているお子さんには、多動で走り回っている子もいれば、静かに隅で遊んでいる子もいます。
静かな子は、走り回っている子にビクビクしています。
もちろん安全には常に気をつけていますが、ぶつかってしまうこともあるのです。
すると、お子さんによっては泣かないでじっと我慢する子もいれば、大泣きする子、怒り出す子と、様々な反応があります。
心配なのは、泣かないで我慢している子なのです。
そういう子には、痛かったね、危ないよね、怒っていいんだよ、と声を掛けます。ぶつかった子にも、○○ちゃんは痛かったよ、危ないんだよ、と諭します。そうやりながら、言えない子は自分の痛みを主張していいんだ、ぶつかった子は、自分が走り回ると他人に迷惑を掛けるんだ、ということを学んでいきます。
もちろん、それがアザになるような場合は、必ず保護者に報告します。
障害のある子は、健常児が自然と学ぶ自己主張や、相手への影響を、大人が介入しないと学べない場合があります。しかし、いくら大人が言葉で説明しても、実際に体験したことからしか学べないのです。
だから、体験して、大人が説明する。
こうやってゆっくりと学んでいくんです。

弱い立場だから、強い子とは一緒にしたくない、怪我をさせられたら困る、という守りの態度が、実はお子さんのコミュニケーションを学ぶ機会を奪ってしまうこともあるのです。

コミュニケーションは、実践からしか学べない。
そして、社会には色んな人がいる。
そこで自分がどう振る舞ったらいいのか。
それを学んでいくためには、できるだけ幼いうちに、小集団で様々なタイプの子と接するのが重要だと思っています。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • noa
  • 2017/01/20 (Fri) 13:30:27
あすなろさん

大丈夫です(^^)言い訳なんて思わないし、強い子や多動の子、やんちゃな子と離したいとも思ってはいません。というのも、我が子がまず多動ですし…^^;

息子はとても気弱で戦いごっこなどが恐怖でしかないタイプで、あすなろさんの予想通り(?)泣かないで我慢してしまう心配なタイプです。しかし、おとなしいわけでは決してなく、静かでもなく、多動でちょろちょろして人にぶつかってしまう事もたまにあります。(壁にはハエのごとくバンバンぶつかって行きますが、どうやら人だけは気を付けているようですね 笑)
そして、本人男らしさに憧れているらしく、やんちゃなタイプとばかり友達になります。それなら戦いも受け入れろよ 笑 と、心の中で毎日つっこんでしまう私がいます^^;

適切なサポートを受けられる環境だったらいいのですが、あすなろさんも現状をよくご存知の通り、選べない担任がたまたま発達障害の知識が豊富なんて事はほぼありえない話で、息子も適切なサポートは受けられない環境です。
それでも色々な子が同じ環境で学べた方がいいと私も基本的には思っています。社会に出たら色んなタイプの人と上手くやっていかなくてはいけませんから。

私が唯一分けて欲しいなぁと思ってしまうのは、キレたら手がつけられないタイプの子です。申し訳なく思いますが、この場合だけは本当に不安なのです。息子さんのように、びっくりして振り返ったら刺さってしまったみたいな場合ではなく、パニックを起こす頻度が極めて高く、コンパスなど危険な物を振り回してしまう場合に限ります。(1回だけでは思わないですが、頻度が高いと…ということになります。)
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/20 (Fri) 16:17:27
>あなたが、一部のアスペの『困った行動』によって悪い噂が立つから自分が排除されるのだという恨みに繋がっていませんか?

勝手な決めつけはしないでください。
エゴが強い人はそういう見方でしか見られないのですね。

あすなろさんとは話があわないようです。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/20 (Fri) 16:33:51
>特性を含んだ息子の性格です。
>あなたのような考え方は、今現在も『風評』に苦しんでいる親子をますます追い詰めることになるので、許しがたい。

ごめんなさい。その言い方が「息子は障害だから許しなさいよ」と主張しているようにしか聞こえません。

息子さんが暴力的かは関係ないんです。
あなたは「特性でパニックになってお友達を傷つけることが」あると仰ってましたよね。
なのに「息子にも普通級で経験させてあげたい」とのエゴから通わせてたんですよね。
それはひばりさんのように「怖い」と警戒させる要因にもなりますし、さらに障害者本人も孤立しますよ、と繰り返し言っているわけですが、あすなろさんには何を言っても無駄なようですね。
noaさんへ
  • あすなろ
  • 2017/01/20 (Fri) 20:55:10
学校には期待できませんよね。
我が家は通級指導教室と、民間の特別支援プログラムに通ってSSTを身に付けました。
すごく時間が掛かりましたが、今思えば、あの経験が無ければどうなっていただろう?と思います。
息子を信じてくれる大人がたくさん居ることで、自信を付けられたのだと思います。

私が関わっている子たちも、学校でたくさんたくさん傷ついて、それを癒しに来ているような子が多いです。

学校以外で、一箇所でも複数でも、居場所を作ってあげることは、とても大切です。
やっぱりおかしいさんへ
  • あすなろ
  • 2017/01/21 (Sat) 00:13:27
何を言っても同じ結論に持っていかれると思うので、これ以上の申し開きはしませんが、一つだけ誤解があります。
普通級か、支援級か、という判断は、親の希望も聞き入れつつ、最終的には教育委員会が決めることで、無理があれば親の希望は聞き入れられないこともあります。
息子の場合は、支援級はなく、通級指導教室に通いながら普通級という判断がされ、親側は特に異議を申し立てなかったということです。
息子の登校日を親の判断で減らしたというのは、子どもを学校に通わせる義務を怠ったということで、本当なら法律違反です。
行き過ぎて逮捕されたニュースがありましたが。
さらに、個別指導は、こちらからも何度も申し入れたことがありますが、対応できる教員がいないということで、却下され続けてきたということです。
今はだいぶ柔軟な対応ができるようになりましたが、当時、学校に迷惑だから別対応しろというなら、戸籍を抹消して檻にでも入れておかなくては可能では無かったということです。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/21 (Sat) 19:03:05
あすなろさんのおっしゃるように学校や教育委員会は当事者の意見を聞こうとせず、正しい知識もなしに勝手に行動するという問題はありますね。
何か問題があった時には何も対応をせず、当事者が被害を被る問題があるでしょう。

>子どもを学校に通わせる義務を怠ったということで、本当なら法律違反です。

国側が状況を見極められないくせに親を逮捕するのであれば問題ですね。
学校の対応にあえて行かせない親が知人にいましたが、逮捕はされていませんでしたけどね。

なので、あすなろさんの
>学校に迷惑だから別対応しろというなら、戸籍を抹消して檻にでも入れておかなくては可能では無かったということです。
言葉は責任のがれとしか言いようがありません。
「暴力的な子がいても無関係な子には我慢しなさい」と言ってるも同然です。

>すごく時間が掛かりましたが、今思えば、あの経験が無ければどうなっていただろう?と思います。

そのために犠牲になった者はたまったものではないですね。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • あすなろ
  • 2017/01/22 (Sun) 06:12:34
>やっぱりおかしいさん

学校の問題の議論は、やっぱりおかしいさんは、一般的なモラルの問題、私は個人的な過去の経験の話なので、平行線を辿っているので、解決を見ることはないし、どちらかが折れたとしても、スッキリと収まるものでは無さそうなので、ここで終わらせていただきます。

それよりも、とても気になることがあり、それはまさにこのサイトのアスペ定型の問題ではないかと思うので、正直にお話させていただきます。

いったんこれまでの議論とは離れて、やっぱりおかしいさんの実感を教えていただきたいので、すぐに答えていただかなくて結構です。

それは、この掲示板でも起こっていた過去や今回のような議論になった時、やっぱりおかしいさんが、非常に中立な立場で物事を見ている時と、この人はこう!と決めつけて、そこから抜け出せない時が極端に見られるということです。

今回のことと、過去トマトさんやコクーンさんの発言もそうですが、いったん、やっぱりおかしいさんの中で『間違っている』と認識されている人に対して、徹底的に疑問点を暴こうとされるところが見受けられる。

やっぱりおかしいさんの記憶力ほど、私は良くないので、トマトさんやコクーンさんのコメントについては、覚えていないので何も言えませんが、ココチさんとのやり取りについては、事実無根の話が、やっぱりおかしいさんの中に出来上がっている印象を持ちました。
今回の件に関しても、私は過去の状況を話しているだけで、判断は難しいという立場で書いていたのですが、私に非があるという一点だけを主張し、認めさせたいという印象を持ちました。

例えば、トマトさんやココチさんや私が、『それは私の方に非がありました。ごめんなさい』と言ったら満足されるのでしょうか?
それとも『やっぱりおかしいさんの意見が全て正しいと思います』と賛同する人が現れたら満足するのでしょうか?

やっぱりおかしいさんの議論の先は、何を目指していらっしゃるのかがわかりません。
そして、トマトさんたちの過去の発言を繰り返し批難したり、私とココチさんの行き違いの原因を外から断定したり、今回私の方に非があると強く主張されたりすることは、その対象者を『吊るし上げる行為』なので、傍観している側も、対象になった側も、決して良い気持ちはしませんし、それによって何か一つの結論に落ち着くことは決してありません。

やっぱりおかしいさんは、何を目指してこういう議論を持ちかけられているのか、冷静にそれが知りたいところです。
noaさん
  • あすなろ
  • 2017/01/22 (Sun) 08:53:10
様々なタイプのお子さんを見ていて、事故というのはだいたい二つのタイプに分かれると思います。
一つは多動系の子が、危険予測できず、衝動のままに動いてしまい、相手にぶつかったり、行く先にいる人を押したりひっかいたりしてしまうケースです。これは本人の性格とは全く関係ありません。気の弱い子はやってしまった後で『どうしよう』と、逆に怯え、トラウマになってしまいます。その際の叱責や恥をかいたような状況が繰り返されることで、行動障害につながってしまっているケースもとても多いです。
なので、多動の子は、実は繊細で周囲の状況に敏感な子が多く、だからこそ自分の行動が止められないことにジレンマを抱いています。

一方、突然パニックを起こすのは自閉系の子で、普段が穏やかであればあるほど、パニックの予測がしにくく、その反動も大きいです。
私が見ているお子さんでも、いつもニコニコして、冗談を言いながら一緒に笑ったりしているのに、何かの拍子で大パニックになり、ハサミやテープカッター、椅子など投げてしまう子がいます。
普段、工作が大好きでそれが癒しになっているので、その子から工作道具を取り上げることはあまり適切ではありません。
まず、ハサミなどを使っているときは絶対にそばを離れないこと、表情から、本人の不安定さを察知すること、危ない時は、すぐに他の子を避難させられる体制を徹底させておくこと。これで、危険な状況は回避できます。職員が怪我をすることはありますが。
学校でもだいたいこの体制でやっているようですが、面白いことに学校の方が緊張していてパニックの頻度が抑えられていることもあるようです。
もちろん、ここまでのケースになると対応が非常に難しいので、本人が慣れた担任が必ずそばにいるようですが。

危険な傾向があるからといって、ずっと個別指導というのは、不適切ですし、他の子に危害が及ばない対策を十分に立てて、本人が周囲の反応を見て、自分の振る舞い方をコントロールする。あるいは行動より言葉で要求する方法をしっかり学んでいかなくては、解決しません。

大パニックを起こす子も、成長とともに友達との関わりが増え、落ち着いてきました。不思議なことに、友達と遊べるようになってパニックが減ったのです。

発達障害の子は、性格が穏やかだから、絶対に人に危害を加えないという保証はないし、もともと性格の穏やかな子でもあらゆる環境から頻繁にパニックや危険な行動を取る可能性がある。
それを指導する側が十分に知っておく必要があるんです。
絶対に危害を加えないと言えるのは、身体障害があって上手に動けない子です。しかし、この子は、多動の子がぶつかって来たら、大怪我になります。命に関わることもあるかもしれません。
こうしたお子さんの保護者は、危害を加えられる可能性をもっとも心配していると思いますが、それでもこちらを信用して任せてくださいます。

障害児の集団の場は、健常児同士の場よりも、大きな事故、命に関わる事故になる危険が高いのです。

ここで起きる事故は、全て指導する側の責任です。
ただ、表面的には危険な子がいると思っても、水面下でこうした対応を取っている可能性もあります。

なので、noaさんが気になるお子さんも、学校側は、見えないところで安全配慮をしている可能性と、逆に全く対応が間違っている可能性と、どちらも考えられます。正直に、学校に問い合わせてもいいかもしれません。
もしも、対応を取っていないのであれば、早急に訴えた方がいいですから。それは、子どもに対して何かするわけではなく、学校が対応を変えなくてはいけないということです。

我慢して言わないのは、最もいけないことだと思います。

障害があるから理解はしなくてはいけないのは、学校側、指導側の責任であって、不安があるのなら、保護者は現状を学校に訴える権利があるということです。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/22 (Sun) 11:14:02
noaさん、ひばりさん

お返事ができていませんでした。
確かにバカ親は言い過ぎましたね。
申し訳ありませんでした。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/22 (Sun) 11:24:31
あすなろさん

障害がある対策もどんなに頑張っても本人が周りに毛皮やさせてしまうこともあります。
一般的なモラルではなく、色んな障害のある子を見てきて感じたことです。

お仕事の話でも違和感がありましたが、あすなろさんは何でもアスペ側の擁護ですよね。

あすなろさんと同じ立場のnoaさんは相手を尊重する思いやりを感じますが、あすなろさんはかなり頑固に思います。
あすなろさんは思いやりがあり、相手の気持ちが尊重できないとか、空気が読めない人とは決して感じません。皮肉ではなく、文字通りに感じていることです。
しかしあすなろさんも自分の意見をねじ曲げない、相手との落としどころを見つけるのが下手な方なんだと思いました。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • やっぱりおかしい
  • 2017/01/22 (Sun) 11:32:24
ここちさんとここちさんとあすなろさんとのやり取りについてはコメントを控えますが、どの方もアスペにたいして理解がないと感じたのは事実です。
これ以上お話することはありません。
Re: 個人的経験から考えるアスペ定型の問題
  • 子育て経験者
  • 2018/02/08 (Thu) 18:54:24
うちの息子は人を叩くことやパニックで暴れることはありませんでしたが、大人しいゆえにいじめの標的になりました。
相手は健常者の場合もあれば、障害者の場合もありました。
健常者から叩かれた場合は、息子の言い分ではなく、健常者の子の言い分を先生方が信じ、障害者クラスの子から叩かれた時には障害者だから許すように言われ、息子の居場所も理解者もありませんでした。

暴力の犠牲者はコミュニケーションが苦手な大人しい子やクラスで馴染めていない子だったりすることも多いです。誰も味方してくれないからいじめても加害者が咎められることはないからです。
殴られた側からすれば、健常者であっても障害者であっても関係ありません。恐怖で学校にも行けず、その後もトラウマとして残ります。
共存とか、障害はあるから、加害者が家庭環境で色々あるからなんて、殴られた側には関係ありません。殴られた側には罪はないのです。

障害でも健常でも殴る子にはきっちり対策を取る必要はあるかと思います。


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