なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/11 (Sun) 01:22:06
皆さん、こんばんは。
今日は、私の持っているある種の感覚、コミュニケーションを考えるうえでとても大切だと思われる感覚について、それが私独自の物なのか、それとも、ある程度皆さんと共有できるものなのか、を教えて頂きたくて書きました。率直なご意見を聞かせて頂けたら嬉しいです。

切っ掛けとなったのが、ある記事のコメントです。

(ここでちょっとお断りしておきます。私は去年から今年にかけてのにわとりさんとほかの方たちの長いやり取りは部分的にしか読んでいません。例えば「○○さんのこの言葉で非常に侮辱された気分になった」と書かれた方がみえたとしても、さかのぼってその原因となったコメントを調べたこともありませんし、その背景や流れなどまでは多分理解できないと思います。ですから事実関係は分からぬまま、したがって誰が良いとか悪いとか、そういうたぐいの話をここでするつもりは一切ありません。あくまでも私自身の問題として聞いて頂きたいと思います)

2015年7月1日の記事<悩みどころ>に書かれた、
りなこさんのコメントに対して、
パンダさんが次のような質問を投げかけてらっしゃいました。
http://communicative.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-ab06.html#comment-114071385
>共感や慰めがいらないとして、自分のしんどさを人に語るのは
>何が目的だということになるのでしょうか?
>ほっておいてほしいなら、最初から何も言わなければ
>問題が起こらないと思うので、
>そこがすごく不思議でとまどうところなんですね。
>わざわざ言うんだから、反応を求めていると理解するのが
>定型に典型的なパターンなんだと思います。

あれれ?そうなんですか?と思いました。
それ逆かな?と思っていたので。

「何も言わずにただ聞いて欲しい」
というのはむしろ定型の方たちこそ持ってる感覚なのではないかと。
ただ、りなこさんと定型の方達の違いがあるとすれば、
そこに共感を求めるか求めないか、の違いでしょうか?

かく言う私も、共感を求めて自分の苦境を語ることはあります。
実際に語らないまでも、その願望は強い方だと思います。
でも、それは決して励ましやアドヴァイスを
求めているわけではないのです。
何を求めて?と言われると・・・・・?

ここから先は、ちょっと恥ずかしい、私の告白になりますから、
お聞き苦しいかもしれませんが、お許しくださいね。
いやいや、相当恥ずかしい話です。

まずは私が今よりずっと若かったころの話です。
当時、私は何を求めていたのでしょうか。
私が他人に自分の苦境を語りたくなる時は、
励ましやアドヴァイスを求めてはいませんでした。
ではなぜ語るのか?
それは、苦境を語ることを通して、自分とはこういう人間だ、
ということを人に知ってもらい、という気持ちがあったからなのです。
みなさんおっしゃるところの承認欲求なのかもしれません。
そもそも私は人とは違う、
何を言っても私という人間を分かって貰えることはない、
という前提で、でも、まだあきらめきれなかった私は、
何か喋りたくなってしまうのです。

ただ喋りたいから、ただあなたに喋りたいから。
自分の苦境は、他の人にとっての苦境ではないし、
その乗り越え方も私とあなたとでは違う。
私はその苦境を語り、自分なりの外界の捉え方や、乗り越え方を告げ、
それを以て、私はこういう人間なんだ、ということを
他人に分かって貰いたいという気持ちでいっぱいだったのです。

その押し付けがましい気持ちは、書いていてやっぱり恥ずかしいですね。
どうしようもない不遜な気持ちですね。
私の恥ずかしい告白は、まだまだ続きます。
が、今夜はこの辺で一旦閉じますね。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/11 (Sun) 06:51:35
>ガーディナーさん

掘り起こしていただいて、ありがとうございます!

この記事のコメントの時点では、私は、トマトさんやどんぐりさんの気持ちに近かったし、どちら側?と言われたら、トマトさんたちの側から見ていました。

それで、実生活でも、アスペの息子と娘と、似たようなチグハグなやり取りを繰り返していました。

息子がブツブツと今日の出来事を語っていると、それが私にアドバイスを求めているのだと勘違いしていて、『だったら、こうすれば?』と返事をしてしまい、『余計なこと言わなくていい!』と怒られて、『は?自分から相談してきたくせに!』と逆ギレするという……。

カラクリが分かると、おかしくて仕方ありません。

みるきさんにも何度も解説してもらって、『息子には余計なアドバイスは要らない』と思っているのに、未だに心は『何とかアドバイスしなくちゃ!』と自然に思っちゃうんです。

何ででしょうね?本当におかしい!

でも、息子に『何で逆ギレするんだよ!』と言われる理由は
まさにココですね!

アスペ対非アスペの普遍の課題のように思います。

だって、見ず知らずのガーディナーさんや、みるきさんや、ニワトリさんや、りなこさんの方が、私には理解できない息子の感覚が分からんですから!!

ほんと、興味深いです。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/11 (Sun) 22:21:59
あすなろさんへ
早速のお返事ありがとうございました。

そうだったんですか。
私は掲示板は読み飛ばしてしまうこともあり、
みるきさんとあすなろさんのやり取りは見過ごしていました。
ごめんなさいね。

普段から知性的で、人の心の動きを誰よりも察しているというイメージの
あすなろさんでも、やっぱりアスペのお子さんたちの心を理解するのには
苦労されていたんですね。
せっかくお返事を頂いたので、ちょっと予定を変更して、
私の友人親子のエピソードをご紹介したくなりました。
あすなろさんのコメントを読ませていただきながら、
私は友人O子とその息子さんのことを思い出していました。

中学生の息子さんは学校に不適応で、五月雨登校を繰り返していました。
その母親であるO子は息子が学校に行けないことをよく理解して、
傍から見ていても根気よく息子さんの気持ちに寄り添っている、
と感心させられるような人でした。

ある日その息子さんが、バンドを組みたい、と言い出しました。
たいていのお母さんならば、そんなこと言ってるよりも、
まずは学校へ行きなさい、というのでしょうが、O子の場合は、
「やりたいならやれば良い。具体的なことを聞かせてちょうだい。
楽器はどうするの?練習場所はどこを借りるの?
それ以前に、どうやってバンドの仲間を集めるの?」
などと具体的にいろいろ聞いたというのです。
そうしたらその息子さんは急に興醒めて
「うるせいッ」と言い捨て、部屋を出て行ったということです。

友人O子にとっては、それが全く不思議だったというんですね。
息子がやりたいと言っていることに賛同して、
場合によっては協力しても良いとまで思ってアドヴァイスしているのに、
うるせい!はないでしょう!
だいたいバンドを組みたいって言うわりには、
全然計画性がないんだから、と。

でもO子には悪いけれど、
私には、その息子さんの気持ちが痛いほどわかりました。
息子さんは学校に行っても上手くいかず、休みがちで、
でもそのバックにはいつも理解のあるお母さんが控えていました。
学校に対してはカッコ良く不良をやっていても、
いつも母親の理解保護のもとに、自分の主張を貫いていたのです。
だからお母さんのことは大好きですが、
でもやっぱりお母さんとは違う世界で自分を主張してみたい。
自分だけの世界を持ち、
大人たちからは眉をひそめられるような行動もとってみたい。
それが彼の場合バンドだったのです。

「俺はバンドを組むんだ」というのは、
一種の独立宣言だったのかもしれません。
言った時点では、まだまだそんな先の具体的なことまでは
考えていなかったことでしょう。
それに対して母親は、全面的に協力をしたいと申し出るだけでなく、
「だったらまずは○○を考えて、それから次に△△が大事でしょう。
そんなことも考えていないの?」と言わんばかりに接近してくる。
これじゃ、子どもとしては「うるせい!」の一つも言いたくなるでしょう。

でもO子にはそれが分からない。
「私ほど物わかりの良い母親はいない。
学校不適応で苦しんでいる息子の気持ちは誰よりも理解している。
無理解な学校からの圧力に、盾になってどれだけ闘ってきたことか。
それが何で怒られなきゃいけないの?」

O子は心底分かっていないようでしたが、
知的で口の立つO子を説得できるほどの言葉も持っておらず、
私はそのまま黙って聞いていました。

あすなろさんのケースとはまた違うとは思いますが、
普段とても利発なお母さんでも、我が子の心の動きがつかめずに
心乱れる(迷う?)ということもあるんだな、と思いました。

長くなりました。
今夜はこの辺で失礼いたします。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/12 (Mon) 21:09:35
>ガーディナーさん

私も、自分のこと以外は、ほとんど覚えていませんよ。これだけたくさんのやり取りがあるのに、管理人さん以外の方が詳細を覚えているなんて、神業です。^^;

お友達のO子さんのお話、興味深いです。

私の母が、こういうタイプだったので、はじめは息子さんの気持ちに感情移入してしまいました。
『自分の人生だ。余計な口出しするな!』という思いを、私も母に感じてきたので。

でも、母親の立場に立つと、O子さんに感情移入できます。
私だったら、登校拒否の息子のことは、心から心配だけど、本人のプレッシャーになったらいけないから、静観するしかない。
それがやっと、やりたいことを見つけたようだ。その夢を叶えてあげたいけど、現実味がないので、ぜひ現実との折り合いを付けて実現させて欲しい。
心配が高じて、こういう言動になってしまう可能性はあるなと。

でも本当は、自分の不安を何とかして欲しいという、親のエゴなのかもしれませんね。

昨日、重度自閉症の作家、東田直樹さんのドキュメントを観ました。

自閉症の息子を持つイギリスの作家が、東田さんをまねき、「息子に友達ができないのが心配だ。どうしたらいいか」と相談を持ちかける。
すると、東田さんはこう答えました。
「友達ができないと、いけないんですか?友達ができなくて不安なのは、あなた(父親)じゃないですか?」

鋭い指摘です。

東田さんの講演を直接聴いたことがあるんですが、質疑応答の時、福祉施設の職員が、「東田さんはどんな遊びが好きだったんですか?自閉症のお子さんにどんな遊びをさせてあげたらいいか、知りたい」とききました。

東田さんは
「どんな遊びが好きか、みんな違います。楽しいことをたくさんしてあげてください」というようなことを答えました。

何か、人のことを察するよりも、人をよく見てください。と言われている気がして、ハッとしましたね。

東田さんは、言葉がうまく使えず、自分自身のコントロールさえも難しい障害だからこそ、ありのままを見つめ、真実を知ることが出来るのかもしれないなと思いました。

途中で脱線、失礼しました。

続きの体験談を、お待ちしています!
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/13 (Tue) 00:41:32
あすなろさんへ。
東田さんの「友達ができないことの何がいけないのですか?」
さすがですね。
これが言えちゃうってところが本当に羨ましいです。
友達がいるのが良い、というのは
たくさんあるうちの一つの価値観に過ぎません。
友達ができ難かった子供時代に、私もそれに気が付きたかったですね。
「友達ができ難いという一つの現象によって、
君の価値が下がるものではないよ」と、
もしそんなことを私にアドヴァイスしてくれる人がいたら、
幼かった私はそれを喜んで受け入れていたでしょうね。


さて、今度はりなこさんのコメントを見てみますね。
コメント上でほかの皆さんからお返事をもらった時の
にわとりさんの心境をりなこさんが推し量って書かれていました。

>全て分かりきっていることだったり、すでに試したことだったり、
>定型には正解でも当事者には外れている(間違っている)答えだからです。

全く私と同じなんだなと思いました。
子ども時代から私は何十年間もまさにそれを、思い続けてきたんです。
もちろん、それでにわとりさんの気持ちが分かるだなんて
言うつもりはありませんが。

誰に何を言っても、返ってくる言葉はなんか的外れな言葉が多くて、
確かに私より正論を述べていることはわかるけど、
でも私にはマッチしない、というか、
私のその時の心情にはフィットしないのです。

それから、誰からもアドヴァイスなど欲しくないと思っていたところへ、
急に思いもよらないアドヴァイスが戻ってきても、
心の準備ができていなかったということもあります。

さらに、あまりにも自分と違う感受性の方からのアドヴァイスは、
自分をひどく混乱状態に導きます。
私のことわかってもいないくせに、
分かったような気になっていろいろ言われることで、
どんどん自分が傷つけられたような気分になるのです。

思いは複雑です。
その人の好意を受け入れたいという気持ちもあるのです。
だからこそ気が重く、相手が気を悪くするかもしれないと思うと、
上手に断ることもできずに、つい不快感だけを顔に表したりもします。

私がそんなふうに感じてしまうようになったのは、
やはり幼少期からの体験が大きく影響していると思います。
私は小さい頃からよく両親に、
「もっと素直になりなさい」とか
「もっと広い目で全体を見渡してごらんなさい」とか
「細かいことにいつまでもくよくよしていてはいけませんよ」とか、
「人の嫌がることをしてはいけません」とか、
いろいろ言われてきました。
何度も言葉で繰り返されるから、言葉としてはすべて了解できるわけです。
「人は素直でなければならない、そして広い視野を持つべきだ」と。
でも、それが具体的にどういうことなのかが、どうも分からない。
まじめに考えれば考えるほど、体感できない。
体感できないその感覚が、私のスタンダードとして育ってきました。

「こういう風にすることが素直になるということだろうか」
「こう考えることが広い視野を持つということだろうか」
「こう振る舞うことが人を不快にさせないということなんだろうか」
・・・おそらく私はこの類の自問自答を、誰よりも、
と言ったら語弊はありますが、少なくとも世間一般の平均よりは
ずっとたくさん、繰り返してきたんだと思います。

普通に考えたら無理な注文を、無理だとキャンセルすることもできずに、
自分にできる形にするために、
一生懸命頭の中でアレンジしてきたとも言えるのです。
そうしなくては生きていけないと思っていたからこそのことでしたが、
いつの間にか自分はその手のことを考えるプロフェッショナルだ、
と思うようになっていきました。

私が人からアドヴァイスされた時に感じる苛立ちや不満は
そんなところにもあると思います。

「あたしのこと何にも分かっていないくせに!
分かったようなこと偉そうに言わないで!」と考えながらも、
でも、それを言った相手の人は、
本当に私のことを思って言ってくれているわけで、
それが理解できるだけに、それを否定するようなことを考えてしまう
自分に傷ついたりもするのです。

大人じゃないですね。
・・・・・・・
さ、今日も恥ずかしくなってきたので、ここまでにしますね。
おやすみなさいませ。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/13 (Tue) 07:16:16
>ガーディナーさん

お話を伺って、またまた口を出したくなってしまいました。
ガーディナーさんのご経験こそが、。アスペの子が『自分は自分である』という思いを強くしていく過程なんじゃないかな、と。

それは、不幸な生育歴だったから、とか、イジメに遭ったから、なんて単純な出来事ではありませんよね。

本当にごく普通の日常の中で、定型との価値観の違いを突き付けられてくるわけです。
ガーディナーさんは、そこを幼い頃から分析し、他人と自分は違うという認識を持っておられた。
私はその逆で、違いはなく、私の性格と努力不足だと思ってきました。
結局、出来ないことは親や周りの大人が飛んできて助けてくれると信じていました。本当に、大人の力で何でも実現できると信じていたんですよ!
今思い起こすと、この感覚は恐ろしいことですね。
思春期になって、突然放り投げられて、右も左も分からず、困惑しました。

おそらく、障害で出来ない部分は一体どこにあるのか、親でも見極められなければ、子ども自身も分からない。
手のない子が字を上手に書きなさい、と言われて、途方に暮れている状態が繰り返されるんだと思います。途方に暮れた挙句、いいや大人がやってくれるだろう、という、私のような指示待ちの子どもや、私のことを誰も分かってくれない、と思うガーディナーさんのような独自の自我を確立する子どもが出来るんではないかと、ガーディナーさんのご経験を伺って、思いました。

東田さんの番組には続きがあります。

イギリスで、東田さんは、その作家の家に数日滞在します。
作家は、東田さんと息子が、同じ自閉症ということで、通じ合えるのではないかと期待するのですが、その間息子は東田さんを避けて、会おうともしません。
作家ががっかりしていると、東田さんが帰る間際になって、息子がパッと東田さんの手を繋ぎに来て、すぐに離れていったんです。

この息子には、友達がいないのではなく、友達の定義が違うんじゃないかと。
父親や周囲の定型の大人たちの考える『友達』はいないけど、息子の定義では、たくさん友達はいて、彼が一番心地よい関わりをしているんじゃないかと思いましたね。
だって、友達は必ず人間じゃなくたっていいわけですから。

定型の大人が考える定義は、あまりにも狭すぎて、子どもの側が理解できないから、それに沿うことができないだけだ。
そう捉えられるのかもしれません。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • りなこ
  • 2016/12/13 (Tue) 15:44:07
ガーディナーさんへ

私のかわりにわかりやすく説明してくださってありがとうございます。
私もガーディナーさんと全く同じ思いを抱えて生きてきました。まるで自分が書いたのかと錯覚するくらいでした。

Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2016/12/13 (Tue) 23:09:33
ガーディナーさん

============================
>「何も言わずにただ聞いて欲しい」
というのはむしろ定型の方たちこそ持ってる感覚なのではないかと。
ただ、りなこさんと定型の方達の違いがあるとすれば、
そこに共感を求めるか求めないか、の違いでしょうか?
=============================
共感をしてもらうことで支えられる、ということですね。
だから定型的には共感を示すことが明らかに相手を支えるという意識があって、
そこが否定されると、天地がひっくり返ったくらいにびっくりする。

ただし、もちろんその共感がずれまくっていて、勝手な教官だったとすれば
それは相手から拒否されても仕方がない、という理解は一応あると思います。
けれどもそれはあくまでも「共感の失敗」「間違った共感の押し売り」であって
共感自体が否定されることhがまずないと思います。

=============================
かく言う私も、共感を求めて自分の苦境を語ることはあります。
実際に語らないまでも、その願望は強い方だと思います。
でも、それは決して励ましやアドヴァイスを
求めているわけではないのです。
何を求めて?と言われると・・・・・?
==============================
定型的にも、下手なアドバイスはかえって迷惑になる、
という理解はあると思います。
ただし、適切な励ましやアドバイスは欲しい、ということとセットですね。

============================
まずは私が今よりずっと若かったころの話です。
当時、私は何を求めていたのでしょうか。
私が他人に自分の苦境を語りたくなる時は、
励ましやアドヴァイスを求めてはいませんでした。
ではなぜ語るのか?
それは、苦境を語ることを通して、自分とはこういう人間だ、
ということを人に知ってもらい、という気持ちがあったからなのです。
みなさんおっしゃるところの承認欲求なのかもしれません。
そもそも私は人とは違う、
何を言っても私という人間を分かって貰えることはない、
という前提で、でも、まだあきらめきれなかった私は、
何か喋りたくなってしまうのです。
==============================
これは私の解釈ですが、こういうことのように思えます。
もともと励ましやアドバイスを求めなかったわけではなく、
ただ、繰り返しあまりにずれた励ましやアドバイスなので、
そのことにもう相当早い段階で(下手をすると物心つく前)諦めが起こってしまう。
それ以降はもっぱら
「私の求めている物はそういうことじゃないんだよ。なんでわかってくれないのか」
ということを「理解してもらえないのだろうか」という思いが基本になる。
なんでここまでわかってもらえないのかという絶望的な気持ちを伴って。

つまり、「せめてあなたにはわからないことだけはわかってほしい」
という「訴え」という、ある種の裏返しの「共感欲求」だということになります。
定型でも非常に厳しい状況に置かれるとそういうことは起こりうるので、
もしそういうことだとすれば、定型的な想像力を伸ばすことで
ある程度わかる感じも出てきます。

===============================
ただ喋りたいから、ただあなたに喋りたいから。
自分の苦境は、他の人にとっての苦境ではないし、
その乗り越え方も私とあなたとでは違う。
私はその苦境を語り、自分なりの外界の捉え方や、乗り越え方を告げ、
それを以て、私はこういう人間なんだ、ということを
他人に分かって貰いたいという気持ちでいっぱいだったのです。
================================
この説明は上に私が書いたこととわりとよくつながる感じがします。
それでいいのなら、これでひとつ大きな謎が解けてきた感じがします。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/14 (Wed) 00:28:35
あすなろさんへ。
いつもながら早朝のコメントありがとうございます。
(早起きさんなんですね!尊敬)。

>本当にごく普通の日常の中で、
>定型との価値観の違いを突き付けられてくるわけです。
>ガーディナーさんは、そこを幼い頃から分析し、
>他人と自分は違うという認識を持っておられた。

ていうと、ちょっと正しくお伝えできていない感じなので、
もう一度言い直してみますね。
「幼い頃から分析して」いたというわけではないのです。
なにか釈然としないものを感じながらも、
その違和感の正体には全く気が付いていませんでした。
アドヴァイスを受けるたびに感じていた屈辱感というのがあり、
それが私の未熟ゆえに感じるものだと思っていたので、
そこに自分のアイデンティティを持つとか、
そんな自負心は皆無だったんです。
おっしゃるように、もし私が幼い頃からその辺を的確に分析で来ていたら、
もっともっと楽な10代を過ごしていたことでしょう。


りなこさんへ。
はじめまして。コメントありがとうございました。
勝手にお名前を挙げてしまって、
どう感じていらっしゃるかとても気になっていました。
良かった、と心からホッとしました。
こういうの、共感って言って良いんですよね?
細かいところはいろいろ違うかも知れないけれど、
あなたも一生懸命生きてきたのね、というような…。


パンダさんへ。
お返事ありがとうございました。

パンダさんの解釈、
私のお伝えしたいと思っていることと、ほぼ重なっています。
ただ、あすなろさんへのお返事にも書いたように、
それを言語化できたのはつい最近のことなんです。
今の私の言葉で解説するから、なんだか幼い頃から妙に
大人びた子供だったような感じに伝わってしまったみたいですが、
いえいえ、本当に奥手で(無邪気という意味ではないですよ)、
自分が見えていなかったです。
意識はもっと周りに流されていましたよ。
みんなに合わせられない自分が悪いんだ、というような。
そこら辺は、多くのアスペの方たちと
似たような道を辿ってきたのだと思います。

アドヴァイスを受けるたびに感じる、何とも言葉にしがたい屈辱感を
私がはっきりと言語化できたのは、いつぐらいだったでしょうか・・・?
20代のころからだったような気もしますが、
もしかしたら、もしかしたら、
一年半前に、初めてこのパンダさんのブログを開いたのが
きっかけだったかもしれません。
本当に、そういう意味では奥手な私でした。


さてさて、
皆さんからいろいろコメントを頂いたお陰で、
この手の話も、そう恥ずかしがらずにすれば良いんだ、
ということが分かってまいりました。
明日からは心機一転、恥じを捨て、堂々と続きをお話ししようと思います!
おやすみなさ~い。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/14 (Wed) 00:43:13
>パンダさん

>もともと励ましやアドバイスを求めなかったわけではなく、
ただ、繰り返しあまりにずれた励ましやアドバイスなので、
そのことにもう相当早い段階で(下手をすると物心つく前)諦めが起こってしまう。

この捉え方こそ、定型独特のものではないでしょうか?
諦めたわけではなく、もともと相手が理解するかどうかは眼中にないというのが、アスペの特徴じゃないかと。

これは、アスペの子供を育てた親としての実感です。

乳児期の特徴で、目を合わせないとか、抱かれるのを嫌がるとか、そういったことも言われますが、我が子の場合、そういうものは無かったものの、周囲のことは気にせず、何処へでも行く、誰にでも話しかけるといったことはありました。

つまり、相手がどう思うかは、アスペの幼児の考えには存在しないんですね。

成長するにつれて、自分が自分のやりたいように振る舞うと、どうやら周囲に影響するらしいぞ?と認識できるようになる。

もし、アスペの子が、成長の過程で諦めていくとしたら、自分の振る舞いは、相手の反応に合わせて自重しなくてはいけないものなのだ、ということで、定型とは真逆になるのではないかと思います。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2016/12/14 (Wed) 08:00:20
あすなろさん

 そこはある意味面白いというか大事なところだと思います。どっちから説明してもつじつまが合わなくなるんです。つまり、そのどちらかでしか説明できないというのが、定型的な見方の限界になっていて、それではうまくアスペ的世界が見えてこないということだと思うんですね。

 あすなろさんの見方でどうしてもわからなくなることは、その話だけだと、そもそもなぜ「話す」ということをするのかが説明できなくなる。「相手がどう思うかは、アスペの幼児の考えには存在しない」というけれど、そこは定型の子どもでもある意味では全く同じです。というかもう少し正確に言うと「相手がどう思うか」も存在しなければ「私がどう思うか」も存在しない、ということなわけですが。そういう世界の中でまず言葉は話し始められる、という点は定型もアスペも関係ないはず。その後の展開に、最初の出発点の、ある意味小さなずれがものすごく大きな違いを生んでいくんだと思うのです。

そもそも「相手に理解してほしい」という言葉の意味が、定型アスペでかなりずれていると考えたほうがよさそうに思うのですが、アスペの方は定型的な意味合いで「理解してほしい」とは思っていない。それはだいぶはっきりしてきたと思います。でも、実はアスペ的な形では「理解してほしい」に違いないのです。その気持ちがなければ、話すことに意味はありません。機械が意味なく音を出しているわけじゃないんですから。何かを相手または状況に求めていることは間違いない。だからある意味こんなにもしつこく(笑)いろいろこの問題でアスペの方の発言が続くのです。それ以外に私は理解しようがありません。

「相手を理解する」という言い方が、「共感」と同様、定型的なニュアンスがしみこみすぎて、アスペの方には感覚的に受け入れがたくなっている。でも「理解」とか「共感」とかがない、と言ってしまうとそれはまた大事なものが見失われてしまう。「相手がどう思うかは、存在しない」というよくある見方も、それはものすごく定型的な枠でとらえたときのものなのだと思います。それではほんとに大事なものが見えてこない。

 そんなことのように思えます。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/14 (Wed) 08:41:21
>パンダさん

パンダさんがどういう風に捉えられるかが、実はとても興味のあるところでした。
私は基本的に、人に対して共感を求める形は、定型的なものです。
なので、アスペの子供達の共感の求め方が、全く理解できませんでした。
今でも細かいところで分からないので、ここに来られるアスペの方たちの意見がとても新鮮に聞こえます。そこから、我が子たちの行動を振り返ると、ぴったりとパズルが当てはまる。面白いくらいに。

そこから子供たちの生育歴を振り返って感じたことなんです。

おそらく、非アスペである私たちは、共感=自分の行動+人の反応 という相乗効果で成り立つものなんですが、アスペの子どもは、自分の行動のアピールという形で成り立つ。
人を避けているわけではなくて、人にはとても興味がある。
特にアスペの中の積極奇異型の人は、コミュニケーションが苦手な定型よりも他人に対する興味が強いと思います。

まさに、娘がこのタイプで、とにかく他人の行動をよく観察しているし、見なくていいようなところも見ている、覚えている。
小学生の時は、同じクラスになったことのない友達の名前や特徴なども覚えていました。
しかし、娘は、目に見えていない特徴=相手の心理、イレギュラーな状況というのが理解できないんです。

あの子は、こういう行動をしていたからこうするはずだ、こう思っているはずだ、という思い込みが激しく、決めつけてかかるので、それでトラブルになっていました。

娘は、人に対する興味がものすごくつよい。
けれど、人を理解する時、現象でしか判断できない。

娘が幼いころ、気を付けないとこの子はすぐ誘拐されてしまう、と思ってビクビクしていました。

見ず知らずのおじさんが笑顔で『こんにちは』と近づいてきたら、『こんにちは、あのね、私ね!』と、すぐに親しくなってしまうことが、予想できたからです。

相手の風貌とか、状況とか、反応とか、そういうもので判断するわけではなく、自分に話しかけてくれた現象だけで、一方的に共感を求めるんですね。
例えていうなら、選挙活動のようなもの。自己アピールすれば、みんな共感してくれると思っている。

一方で、定型的な子は、アピールして、反応を待って、またアピールの仕方を変える。そういうことを繰り返していくんだと思います。

目が合った→お母さんが笑った→積極的に目を合わせようとする
知らない人に話しかけた→怪訝な顔をされた→話しかけるのを止める

自分の行動と相手の行動との繋がりが想像できると言ったらいいのでしょうか。

そうやって考えて見ると、息子が中学時代に複数の友達から責められることが続いて、何について責められているのかが分からなかったので、とりあえず、自分のやりたいように振舞ってはいけない。特に怒りは制御しないと酷いことになるようだ、と気付いて、自分の感情をコントロールするようになった、というのが、納得できます。

アスペの人は、共感を求めていないわけではないけど、どういう状況が共感に繋がっているのかということが、分かりにくい傾向にあるのではないかなと。
逆に、どういう状況で相手を怒らせることになってしまうのか、ということも掴みにくいのではないかなと、子どもたちの普段を見ていて感じることです。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/14 (Wed) 08:45:18
>ガーディナーさん

あはは。目覚ましコメントです。(←寝ぼけている可能性、大いにあり!!)

ガーディナーさんが、特に分析していたわけではない、とおっしゃる原因を、私なりに、パンダさんへのコメントでまとめてみました。

いったん区切られてしまって、申し訳ないですが、ガーディナーさんなら、どう思われるか、またご意見いただければと思います。
Re: Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/14 (Wed) 22:49:46
>パンダさん

いまいち、うまく伝わらないな、という感じがしたので、補足します。

>「相手がどう思うか」も存在しなければ「私がどう思うか」も存在しない

これは、違うと思います。
他のスレで書きましたが、ADHDの人が、3歳児の姪を見て、こちらの反応に絶妙なタイミングで、笑顔を向けられるようになることに、感心したとあったように、幼児であっても、自分の振る舞いが、相手の反応を引き出すことに面白さを感じて、笑顔を作ったり、気遣いをしたりしてみせる。

この成長は、ものすごいスピードだと思います。ある意味、生き残るために、貪欲にそういうものを身につけていく。

その視点が無いと、理解が難しいかと。

なぜ、その違いを指摘するかというと、生育歴の中で仕方なくそうならざるを得なかった、と思ってしまうと、何か『不幸にもそうなってしまった』『アスペはみんな苦境に立たされてきた』ような誤解を持ってしまう危険があります。
結果的に、対応は同じになるとは、私は思えません。
特に、親の立場から見ると、こちらの無理解から追い込んでしまった『二次障害』というニュアンスと、生まれつきそういう認識の仕方である、と理解するのとでは気持ちの向け方も違ってきます。

生まれた時から、定型とは見えている世界が違い、その中でいかに見えている範囲の中で理解しようと努力しているか……そういう見方ができると、アスペの人の言動や振る舞いも、『なるほど、定型の感じ方とはまるで違うから、こういう風に理解するんだな』と、ありのまま、受け取れるような気がします。
その違いは大きいです。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2016/12/15 (Thu) 00:13:23
あすなろさん

>アスペの人は、共感を求めていないわけではないけど、どういう状況が共感に繋がっているのかということが、分かりにくい傾向にあるのではないかなと。

 私の考え方は「共感のポイントが異なる」というものです。こちらの側からそれが読みにくいですが,一度ポイントが合えば慟哭されるような状況も生まれうると感じています。つまりアスペの方がわかりにくいのは定型的な共感の形で,裏返して言えば定型の側はアスペの方の共感の形がわかりにくい。

 早い話がにわとりさんに対する(私の見方から見ればずれた)共感や一種の仲間意識が繰り返し激しい形で表現されているのはそういうことの一部だと思っています。そういう基本的な形には違いを感じていません。強弱や「つぼ」には違いがあったとしても。

>幼児であっても

 私がイメージしているのはもっともっと基本的な段階,つまり新生児とか乳児のことです。曲がりなりにも会話が成り立つレベルの言葉ができるようになるには,それが可能なレベルの基本的な仕組みの共有がどうしても必要になります。そこがなければ機械の出す音レベル以上にはなりえないはず。機械どうしでは音を出すことはできても,意味を伝え合うことは不可能です。そしてそのごく初歩のレベルでの言葉には,あすなろさんが問題にされているような相手の理解とか自分の理解というのは必要ないはずなのですね。自分の世界と相手の世界はぐちゃぐちゃに一体になっているレベルと考えられるので。あすなろさんが問題にされているように思える「私の心」と「相手の心」といった理解は,後になってから作られてくるものです。乳児にそんな複雑な考えはありません。仏教でいえば無我の世界みたいなものでしょう。そこが出発点。そしてそここそが言葉が生まれる母体となる世界なわけだろうと思うわけです。その混然とした世界から,だんだん自分と他人の世界が分かれていって,その後の複雑な言葉の世界もそういう形で組み立てられていく。その別れ方に定型アスペの特徴が効いてくるのだろうと考えています。これは1歳ごろとか,かなり早い段階からそういうことが作られていくと想像しますが,その結果,物心ついたころにはすっかりお互いに通じいあいにくいコミュニケーションの形が安定してしまうのでしょう。

 このへんのことは脳の仕組みとか,そういうレベルのめちゃくちゃ大雑把な話ではなくて,もっとその道の専門家が本気で丁寧に研究してくれればいいのにと思います。人間の秘密を解き明かすくらいにすごく大事なことがそこから見えてくるはずだと思うので。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/15 (Thu) 00:42:10
ガーディナーさん、スレをお借りして、もう少し失礼します。^^;
思いついた時に書かないと忘れてしまうので。

>ぱんださん

うーん。ここでぱんださんと私も、視点というか、論点が決定的にズレていますね。こういう行き違いみたいなものが、定型アスペ間では、もっと大きな形で生じると考えると、何となくわかってくるような気がします。

私は、アスペの子どもたちともズレるし、定型のパンダさんともズレる。
結局、それぞれがどこを見ているか、見えているか、でしょうし、それが正解だとか、間違っているか、とか無いんでしょうね。
あなたが良ければ、それで良いじゃない?
それも『共感』のひとつかな?と思います。

私が訴えたかった、アスペの幼児と定型の幼児の違い、ちょうどアンブロさんが紹介してくださったスカイさんの記事が、分かりやすく解説してくださっています。↓

http://ameblo.jp/hattatsu5/entry-11822056365.html

ちなみに、乳幼児期には差が無いのではなく、差が分かりにくいだけで、脳気質には違いがあることは、だいぶ医学的に解明されてきています。
その『障害されている部位』の性質上、コミュニケーションなら、3歳以降に症状が現れ、学習面なら、学齢期に症状が現れるということです。
脳気質の性質自体は、体格と同じく、生まれた時から決まっているということです。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2016/12/15 (Thu) 01:18:01
あすなろさん

 脳気質の違いやスカイさんの記事に書かれたことも含め,一応そのことは想定しての話のつもりではあるのですが,まあ強調点の違いでしょうね。

 ちなみに,スカイさんの議論だけではなぜアスペの子が言葉が話せるようになるのかがよくわかりません。そこまでちゃんと説明がつく議論なら,その他の点は私も特に違和感は感じません。わかりやすく書かれていると思います。別の言い方をすれば,違いは説明されていても,通じる部分が説明されていないということの物足りなさですね。その両方を見ることがどうしても必要なのだと思うので。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/15 (Thu) 06:23:49
>パンダさん

『人間の言葉の獲得』の意味について、ぱんださんは、『伝えたい意思』や『共感を求める意思』から生まれるとお考えなんですね。

私は別の考え方なんですが、それは個人的な意見の違いですし、はっきり言うと、何故人間は言葉を獲得するか、というのは、学者でも議論されているところだと思うので、この場では何とも言えません。

しかし、ちょうどこの議論と同じようなことがあったので、お話ししますね!

以前、『言語・聴覚障害』についての講義を受けたんですね。この講義で先生が、「人間の『言葉』は、内的な思考を表現するものだが、内的な思考は、話し言葉を獲得しないと出来ない。つまり内言語は、外言語(耳で聴く言葉とは限りません)が獲得されてできるものである。その点で、外言語の獲得されていない東田直樹さんは、内的思考が発達しているとはいえない。東田直樹さんの書く本は、本当に彼の言葉が怪しい」と言ったのです。
私はそれについて先生に議論を持ちかけましたが、あくまで外言語の無い人は内的思考が出来ないということで、著名な小児科医も、同じ見解だと、おっしゃっていました。

その後、この前に書いたように、東田さんご本人の講演会を聴く機会が出来たのです。。
講演内容は、残念ながらよく聴き取れなかったのですが、その後の質疑応答には、時々詰まりながら、文字パネルで補助して、それをお母さんが解説しながら、しっかり本人の言葉で伝えていました。文字パネルを指す手元も拡大映像で写していました。

私は、東田さんには、内的思考はあり、それも、健常者が持つことの出来ない独特の目線での、彼にしか出来ない思考だなと感じました。

未だに小児学会では、東田さんに言葉があるのはおかしいという意見が多いようです。

このことから、専門家の間でも、言語の獲得の意味や過程というのは、議論が分かれるところなんだなと分かりました。

人間の心理や生理は、科学で証明できない部分が多く、証明出来ていないことについては、いくら研究をしても、憶測の域を出ないんだなと思いました。

Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2016/12/15 (Thu) 07:08:37
あすなろさん

 まあ,その講義をされたという方のレベルでしかものを考えられない「専門家」はほんとに多いんです。たとえば「内的思考」と「外的思考」でしょうか,その違いがなんなのかをまともに説明できる?とちょっとしつこく突っ込んで聞いてみれば,もう議論がその人はでたらめになるはずです。ようするに「内と外」を最初から分けてしまったレベルで物を考えるから,「内と外」が分かれていく話が全然理解できなくなり,「大人の視線」からしかものを理解できなくなるわけです。仏教なんかのほうがよほどそのあたり真剣に問い詰めてきた歴史を持っていると感じます。

 そういうところにこだわってしまう私の視点から見ると,そういうレベルの「専門家」の議論ではこの問題は絶対に解けないと思っています。それよりも当事者が丁寧に問題を考えていくことのほうが絶対に役に立つんです。だからときどきあすなろさんが「権威」がありそうな方の話を出されても私にはあらばかりが見えてほとんど納得感が生まれず,それよりもあすなろさんのすごい体験談のほうがその何十倍も学ぶことが多く,感動させられるんです。

 小児学会でそういう意見が多いというのも,ようするに理解の仕方がそのレベルで固まってしまっていて進歩がないという状態を表しているわけです。いい加減そろそろそのレベルは超えてほしいと思うのですが,人間自分の理解の枠を超えるのはほんとにむつかしいです。だれでもそうですね。特に自分の仕事がその理解の枠組みでがっちり組み立てられてしまっていると,そこから逃れるのは至難の業になります。

 同じ小児科医でも,以前ブログの記事でご紹介したことのある脳性まひの熊谷晋一朗さんなんかは当事者視点でもっとリアルな問題に迫ろうとされています。「リハビリの夜」の中の表現でいえば,「あなたを道連れに転倒したいのである」とか(うろ覚えです('◇')ゞ)。

 もちろんその講演をされた方のレベルの議論でも参考になるところはたくさんありますから,それを全部否定するつもりはありませんが,あすなろさんが書かれているように「いくら研究をしても、憶測の域を出ないんだなと思いました。」と感じられて当然の状況があるわけです。(もうちょっと言えば「憶測」ってなに?「理解」ってなに?というところから本当は問題になるのがこの問題だと思っています)その問題をまともに考えると,やっぱり改めて哲学的な議論にまで入って問題を整理しなおす必要が出てくるというのがこだわり派の私の理解です。

 ということで,ここでそのレベルの専門家の話を議論してもあまり得るものは多くなさそうな気もしていますし,私としてはこれまで通りもっと素朴なところでしっかりと当事者目線から自分たちの葛藤を考えていきたいと思っています。

Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/15 (Thu) 21:52:26
>パンダさん

パンダさんをまたまた、混乱させるような補足をして、終わりにします^^;

この『先生』、非常に理論立てて話をされるので、授業はとても分かりやすく、人気がありました。決してブレない。ブレまっくっている世間や権威者に異論を唱えていました。
なので、東田さんの話に懐疑的というのが、私は信じられなかったんですが、論理で説明できないものは信じないというスタンスなのかもしれません。
一緒に講演を聴いて、ぜひ意見を伺ってみたかったのですが、もしかしたら、私が信じた東田さんの言葉の矛盾点を論理立てて説明されて、納得してしまいそうな気もします。(笑)

私の印象は、この先生こそ、アスペ的だなということです。

息子にもよく、論理で説明できないことを感覚で言うな!と言われます。

学者にはアスペ的な人はとても多い。
彼らが、漠然としたものを論理的に整理したからこそ、普遍的なものになった例はたくさんあります。

なので、私は、何でも論理立てて説明しようとする人を否定はしませんし、むしろ尊敬しますね。
ただ、話は噛み合わないです(どっちだ?!)

中庸が一番良いのでしょうが、人間、二つのことを同時進行するなんて、なかなか出来ないんだと思います。

なので、パンダさんが論理的に理解しようとなさるのは、よくご自分でもおっしゃっていますが、パンダさんのアスペ的な部分かな?と。

何となく、息子との噛み合わなさに似てるんですよね。

そう考えてると、アスペ定型の違いっていったい、何なんだ?と、思われるかもしれませんが。

意地悪して、すごくややこしい話を投げかけてしまいました。

お暇な時に、悩まれてください。(私がグルグル考えているので、道連れです(笑))

ガーディナーさん、何度も失礼いたしました!m(_ _)m
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2016/12/15 (Thu) 22:29:52
あすなろさん

 そこはアスペ的というより男性的な部分という方がわかりやすいかもしれないですね。

 その方が論理的でわかりやすい方だという話もたぶんそうなんだろうなと思います。世間的にはすごく頭がいいとみられる方なのでしょうし,それでも特に違和感はありません。
 それも含めて,ある種の論理的なパターンをお持ちの方は,抜けられない枠が固くあるんですね。
 それがアスペ的なのかどうかは私にはわかりません。ただ言えることは「内」と「外」をはっきり分けた状態で理屈を組み立てるという枠組みが崩れないという固さです。たぶんそういう方なのでしょう。だからたぶん東田さんの評価がそうなりやすいと想像できます。絶対だとはいいませんけれど,かなり可能性を感じます。

 いろいろ書きましたが,そういう研究者の方たちの議論が無意味だとは全く思いませんし,あすなろさんが繰り返し書かれているように,ある面では現状に対して大変に役立つことも間違いないと思っています(たとえばABAの話とかも,すごく実効性があるのは間違いないですし,それもある限定されたシンプルな範囲ではちゃんと理屈が通っています)。ただ,私がここでこだわって考えたいことからいうと,その前提でものを考えていてはその先に進めないよなあと,私がそう思うという話にとどまります。

 私が見る限り,その根っこの部分まで深刻に考えている人はほんとに少なくて,だいたい適当なところでわかりやすい話に収まってしまっています。だから安定もしているし,共有もされやすいし,でも私が考える大事な部分(ここでしつこく問い続けている問題など)には迫れない。私に理解できる限りでは,それは原理的に無理なんです。たとえば無理数を分数で表そうとどんなに努力しても無理なように,基本の考え方からずれてしまっているので。長い目で見ればだいぶん状況は良くなってきているとも思えるのですが。よのなかこれだけ巨大に変化してますし,そこに変化が起こらなければ次はありませんから。

 すごく根の深いむつかしい問題ですが,私はある意味で素朴なことだとも思っています。そのカギはやっぱり一人一人の当事者的な体験の世界にたくさん埋まっているというのが私の理解です。というわけで,私はやっぱり体験それ自体にこだわって考え続けていくことになるのでした。めでたしめでたし (笑)
今日は言い訳をする日です。
  • ガーディナー
  • 2016/12/16 (Fri) 00:09:16
こんばんは。
一日置いたガーディナーです。

昨日はちょっと体調を崩し、欠席してしまいました。

さて、一日お休みしていた間に、
パンダさんとあすなろさんの白熱なる(?)議論が交わされていましたね。

興味深かったのは、お二人のお話の内容というよりも、
それを読んでいた私の心の動きです。
そしてついに、お二人のお陰で謎が解けましたよ。
どうして私が普段から議論ができないのか、ということが分かりました。

というわけで、今日は予定を変更して、
議論が苦手な私の言い訳特集号にします。

まず初めに、
パンダさんから私のコメントに対しての解釈を返していただいた折には、
大筋はいっしょだな、と思ったので、そのようにお返事を返しました。
次の日、あすなろさんからのまた別の考え方のコメントを読んでみると、
ああ、それもそうだな、と感じました。
そのあとに続くお二人のやり取りの中でも、私は
ああ、そうか、と思ったり、あ、やっぱりこっちか、
とまあ、目まぐるしく考えがブレていき、
初めに私が言いたかったことは何だろうと、分からなくなってきました。
以下は、眼球を回転させながら私なりに考え抜き、
病床の中で一日がかりで出した結論です。

私は自分の内側で起こったこと(気持ちや回想)などは
ある程度の筋道立ててお話しすることができます。
でもそこに、他人の解釈が入ると、
違うかもしれないと思っても、それを深く考えることができないのです。

もともと自分の説明を相手が解釈して、
それぴったりだ!と思った経験が希薄だったこともあるのでしょう。
また、他人が私の言葉を解釈して返してくれた場合、
ちょっと違うなと思っても、それを相対化できないというか、
自分から一旦出てしまった言葉を、相手が捉えなおしてくれても、
それが私の言ったことと、どういう関係になるのかがよく掴めないのです。
近いのか、遠いのかぐらいは分かりますが、
隣にあるのか、斜にあるのか、一部重なるのか、大部分同じなのか、
言っている言葉は同じでも前提となるものが違うのか・・・、
相手の言葉を、一つの意味としては分かっても、
それが私の意見とどう関係しているのかが、つかめないんですね。
何か違うと思っても、それを突き詰めては考えられない。

多分、感覚が違う、というレベルのことなので、
どうしてもことばに表しづらいのかもしれません。

私は今まで、自分の話を自分だけの言葉で語るのではなく、
できるだけ他の人にも通じやすい言葉にして語ろう、
という努力はしてきました。
でも、自分の言葉が一旦他人の言葉に置き換えられると、
途端に分からなくなってしまう。

これは例えば、katzさんなども、別の場で、
相手の言っていることの真意をつかみ、その場で言葉を返すことが苦手だ、
というような意味のことを仰っていましたから、
あながち理論的であるか、そうでないか、
ということだけの問題でもないと思うのです。
これぞまさしくアスペチックな感覚かも知れません。
なんていうと、自分の理解力のなさをアスペのせいにしている、
とアスペの皆さんから叱られそうですね。
(そうだ!katzさんは即時回答はできないかも知れないけど、
 ネット上ではとても立派に議論していらっしゃる。
 私と一緒にしてはいけなかった)
Katzさん、道連れにしてごめんなさい。

というわけで、今日は言い訳と謝罪をしたところで
おしまいにしておきます。
明日こそ本題に戻りますね。

おやすみなさい。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/16 (Fri) 08:13:17
>ガーディナーさん

お身体が辛いなか、たくさん書き込まれる言葉を読んで解釈するだけでもストレスだったと思います。
展開が早くて焦らせてしまったのかもしれません。
ご事情が分からずに、失礼しました。
ガーディナーさんも、そういう時は、何も見ない、聞かない!で、ちゃんとお休みされてくださいね!

ひとつ気になったのは、ガーディナーさんが理解できなかったのは、別にアスペだからではなく、誰でも自分のことはよくわからないから、ではないでしょうか?

例えば、私がいるところで、「あすなろは黄色が好きだよね」「いや、あすなろは青が好きなんだよ」と言われて、どっちも好きとも嫌いとも考えたことがなかったら、「どっちでもいいよ」と思うか、「うーん、よく考えたことなかったな。どっちだろう?どっちも合ってる」と悩んじゃうような、そんな感じかな?と思いました。
なので、深く考えずに(勝手にネタにしておいて、どの口が言う!ですよね)自分語りをお聞かせくださいー!

もちろん、よく体調と相談してからですよ!!

どうぞ、お大事に!

プラス、ちょっと気付いたことがあったので、今度は自分のスレの方に書きたいと思います。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • Katz
  • 2016/12/16 (Fri) 21:46:08
> ガーディナーさん
お体お大事にしてください。リアルにおける自分が、何より最優先です。と、この掲示板の存在の重さを根こそぎ引っくり返すような発言をするのもナンですけども(^_^;)

ここのあすなろさんとぱんださんのやり取りも、後程ゆっくり追いかけようと思ってまだ読んでいません。すみませんです…

たぶん、ガーディナーさんと私が議論において感じている難点は、大体同じではないかと思います。私も周りの言葉に影響され易く(というと実は若干語弊があるんですが)、注意力の無さとシングルフォーカスが相まって、その意見と私の意見はどこがどのくらい同じなのか?どのくらい違うのか?を「話の流れの中で」判断する事が難しい。だからと言って自分の意見を強固に守ろうとすると、今度は典型的なアスペの頑固者になってしまいます。その辺の加減が難しい、というより不可能なんですよね…

意見を述べながら「同時に」意見の調整を行い「ついでに」一貫性を保つ流れを作る…それをリアルタイムで行う。アスペ系統の気質を持っていてもこれが上手な人はいます。私は残念ながら、これが出来ない人間だったという事ですね。

ただ、曲がりなりにも議論する姿を見ていただけているというのは、明確な理屈を積み上げて理解するというスタイルを私は早々に確立したので、そのスタイルを長い時間の中で磨く事が出来た、という事かなと思います。

私は自分のこういう問題点を割と早くから意識していたので、そういうものだと思って対処法(議論の結果に対する諦めを含む)をそれなりに考えて、自分の中ではそれが当たり前になっていました。しかしこうやって改めて話の俎上に乗ると、案外当たり前ではないのでしょうか。世間的にはどうなんでしょう?

と、疑問形で終わってますけど本気で回答が欲しいワケではありません。何となく気になってみたけど、まぁわからないならわからなくてもいいかな、自分にはあんまり影響無さそうだしな…と思ってますし、何よりガーディナーさんの予定の流れを乱しているのも気になるので、無理を押して考えたりしないでくださいね(^_^;)
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • やっぱりおかしい
  • 2016/12/17 (Sat) 13:05:55
難しい話の議論が繰り広げられていますが、感情移入や共感をするタイプ、認証欲求が強い人もいれば、そうじゃない人もいる、それだけです。
生育歴や環境の問題でアスペ的な要素が濃くなったとか共感を求めなくなったとか決めつけてほしくないです。
共感を求めるのか、そうでないかは当事者が話すものであり、「アスペもみんな本来は共感を求めているし、感情移入することもある。」と決めつけた前提で、勝手に議論を繰り広げてほしくないです。

それにりなこさんは感情移入はしたからこそ、「にわとりさんのようなタイプはほっとく方が一番。ただ現状を訴えたいだけなのだな。」と捉えたんだと思います。
りなこさんはにわとりさんに対する間違った定型側の対応をお話なさっていました。
なのに一部のアスペのことを「偏った(歪んだ)にわとりさんに対する共感や感情移入をしていて、理解し難い。」なんてどうしたら言えるのでしょうか。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/18 (Sun) 23:28:17
元気になりましたので、続きをお話ししますね。

でもその前に、この間のあすなろさんのコメントから。
>アスペの人は、共感を求めていないわけではないけど、
>どういう状況が共感に繋がっているのかということが、
>分かりにくい傾向にあるのではないかなと。
>逆に、どういう状況で相手を怒らせることになってしまうのか、
>ということも掴みにくいのではないかなと、
>子どもたちの普段を見ていて感じることです。

そうですね。私は20歳になる位までは、
この手のことがよく分からなかったです。
ある日を境に突然わかるようになる、というものでもなく、
10代後半から20代にかけて、徐々に分かっていったことだと思います。

分かる分からないだけの問題で言ったら、
今はもうほとんどクリアできていると思います。
ただ、それは、「共感」という言葉が本当に
適切であるかどうかは分かりません。

私は普段、私の障がいのことを知らない人たちからでも、
共感度が高い方だと見られていますが、
それがいつもちょっと???なのです。

そもそも私とは違う考え、感覚の人の言うことなのだから、
共感などできなくて当たり前、という地点がスタートな訳で、
だから自分とは違うことを前提で話を聞くわけです。
もうそれが私のスタンダードだから、
違うながらもだいたい流れは想像ができて、
どういった時には、どのような返事をすればよいのかということも、
何となくパターンとして覚えてしまいました。

「ああ、そういう風にやっぱり感じるんだろうな(私は違うけど)」とか
「当然そういう行動に出るだろうな(私は違うけど)」というように
いつも(カッコ)付きの感慨を持つようになりました。

また私の考えを相手に返す時でも
「(本当は思わないけど)ずいぶんお辛かったのね」とか
「(本当は思わないけど)わあ、楽しそう!」とか・・・、
もうそれが普通になり、いつの間にか自分の考えと同化していきました。

私だけではなく、大人である以上、
他のみんなも似たようなことをやっていて、それができない私は、
だから他人とうまく付き合えないのだと思っていました。
のちに自分の障害を知り、他の人はこんなに努力しなくても、
他人ともっと楽に親しくなれるんだと知った時は、
さすがにショックでした。

もちろん、いつもいつもこんな風に人とズレてばかりいるのではなく、
時には、しっかりと波長の合う相手と、存分に語り合うこともあります。
その楽しさがあるから、普段は(カッコ)付きの「共感」でも
ストレスをためないでいられるのだと思います。

実際、訓練の末、そういう会話ができるようになると、
人との付き合いも円滑にいくようになりました。
社会生活が円滑にいくようになると、ストレスはグッと減ります。
私の本当にやりたい仕事も、こういった人との関係の中で実現するので、
私にとってそのスキルを学べたことは、
直接的に自己実現にもつながりました。

ただ、私やあすなろさんや、おそらくkatzさんもそうでしょうが、
大人になるまで発達障害の概念を知らなかった世代の人間は、
親や教師からではなく、自分で自分の障害に気が付いた人も多く、
自分で課題を見つけ、自分の意志で克服してきたんだ、
という自負を持っている人も多いと思います。

今の子どもたちは、小さいうちからSSTを受けられて
幸運だとも言われていますが、私が幼かった頃に、
もしこのような訓練を受けるチャンスがあったとしても、
それを自分が素直に受けられたとはとても思えません。
大人になってから、自分の意志と自分のペースで、
独りでこっそり訓練を進められた、その環境に、
今ではとても感謝しています。


Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • アンブロ
  • 2016/12/20 (Tue) 12:34:24
ガーディナーさん

お話読ませて頂きました(*^^*)

なるほどな~ガーディナーさんの話を読むと

やっぱり彼が話していたこと。(抽象的でわからなかったこと)がなんとなく繋がります。

『大人ですから』

これも、きっと子供をもち、責任というものを
背負ったからこそ、常に頭にあったのかな。

実私は彼がアスペかも?なんて最初は思ってなくて、

共感度が高いと思ってました。

きっとその( )の部分を言わなかったからでしょうね。

でも、それを言わないでいてくれたお陰で、私は彼に救われたんです。

どん底に、いた私を否定することなくただ聞いてくれた。まぁ、たとえ、その( )の部分を今さら聞いても

過去の私には、その時に彼がしてくれたことが全てで
救われたのも事実なんです。

だから、余計に色々私なりの 思いやりや、感謝などなど

したわけです(゜▽゜*)

でも、私もまた自分の罪悪感と向き合えて、自分で
答えを見つけられました。

自分の、ペースで(*´∀`)

ガーディナーさんが自分のメロディーを奏でているように

私も自分の未来へ沢山の彩りを加えて行きたいと思いました(*^▽^*)
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/22 (Thu) 15:02:24
アンブロさんへ。
コメントありがとうございました。
お話しくださった彼のこと、多くは知りませんが、
(私が読み損ねている部分もあるかもしれません)
とても近い存在に感じられます。

独りでいることが大好きで、人づきあいは苦手だし、
必ずしもうまくいかないことが多いにしても、
黙って話を聞くことで、相手とともに時間を過ごす、
というかかわり方もあるんですよね。
そこに温かさや優しさを感じられる定型の人もいる。
時に、アンブロさんのように
「どん底から救われた」ような体験にもつながる。

アスペ特有の人間性に優しさを感じられる定型の方たちがいて、
彼らがそれに応えることで、再びアスペの中の優しさが引き出される。
私もそういう定型の方たちとの循環に支えられて生活しています。

これから年末年始ちょっと忙しくなるのですが、
また少しずつ書いていきます。
かわいらしい顔文字のコメント、また入れてくださいね、励みになります。

Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/24 (Sat) 22:28:45
皆さん、こんばんは。

さてさて、少し、間が空いてしまいましたが、
もう一度、本題に戻ってみますね。

私はなぜ悩みを語るのか?

それはただ、本当に聞いて欲しいだけ、ということもありますが、
それすらない時もあります。
聞いて欲しいという他者意識も持たないまま、
自分の気持ちを整理して言語化するために、
自分の一番弱いところも含め、いったん全部吐露する。

でも「自分なんて最低だ!」と例えば叫んだところで、
本気でそう思っているわけではないし、ましてや、
自分とおんなじ境遇にありながら、ずっと頑張ってきた人達を、
侮辱するとか、愚弄するとか、そんな意識は全くありません。
自己否定もしていません。

「私は最低だ!」と私が叫ぶときは
「私は最低じゃない」と必死に考えようとしている時です。
だからいったん「最低!」と叫んだ後に、自分で自分に反論するわけです。
そうやって一生懸命自分の立て直しをしているのです。

慰めもアドバイスもない、ただ、語るだけ、
でも語った場合の私と、語らなかった場合の私とでは、確実に何かが違う。
語ることで次へ進める。

私の心が弱まっている時に、聞き手である友人に求めるのは、
ある種のセラピスティックな関係なのかもしれません。
だから誰かれなく自分の胸の内を語るのではなく、
ある一定以上の信頼関係ができている人にしか喋りません。

では『信頼関係』ってなんでしょう?という話になると、
また長くなってしまいそうですが、ここで言う信頼関係とは、
私の話を聞いた後に、変にお説教がましいコメントを入れたり、
なんでも自分の話に持っていきたがったりしない人、
(「私の場合はね、こうしたら上手くいったわ!」みたいなのが苦手です)
ということだと思います。

「ガーディナーに何かを言ってあげなきゃいけないんじゃないだろうか…」
とは考えずに、落ち着いて私の心の声を聞いてくれる人。
そうすることで、私の心が落ち着いて、
やがて歩き出せると信じてくれている人。
その人の横に座ると、私は心の奥の深い場所に入っていけます。

私が話し手、相手は聞き手、という立場の違いを持ちながらも、
二人が共に深い世界を散策するという意味では、
これは紛れもない共同作業だと言えるのでしょう。

一度そうやってゆっくり私の言葉に耳を傾けて貰うという経験をすると、
今度は自分も同じように静かに相手の心の声を聴いてみたくなるものです。

それにより明日へのエネルギーにつなげることも、
十分可能だと考えています。


Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2016/12/24 (Sat) 23:20:30
ガーディナーさん

 私の言葉で表現すれば,「見守ってほしい」という言い方が一番しっくりきそうです。
 無視されるのではなく,積極的にかかわってこられるのでもなく。
 見守ってもらうには語ることが必要です。気づいてもらわなければならない。
 でもそこでかかわってこられたら,それは見守ることとは違う。

 ただ,大事に見ていてほしい。それが自分を大事にしてくれることになる。
 そうやって自分を大事にしてくれる人がほしい。
 そういう人を求めている。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/25 (Sun) 00:06:36
パンダさんへ。

メッセージありがとうございました。
そうですね。
大事にされること、何より嬉しいことですね。

幼少時、私は父親から毎日のように、
「素直になりなさい」と言われ続けてきました。
時に厳しく、時に優しく、真綿で首を絞めるように。
それは何か、生きるエネルギーを徐々に抜かれていくような
そんなメッセージのようでした。

それがどんなに屈辱的な日々であったのか、
気が付いたのはすっかり大人になってからのことでした。

私はその後、成長していく過程で
私を大事にしてくれる何人かの人と出会いました。

その人の前に来ると、自然に体が柔らかくなる、
ごく自然に笑顔になれる、声が弾む。
そして、これが一番大切なことなのですが、
信じられないぐらい素直な気持ちになれます。

素直な気持ちになっている時が、一番気持ちが良いのです。

大事にされている、と感じている時には、
あれほど嫌いだった他人からのアドヴァイスも、
素直に受けられることすらありました。


私は今から6年ほど前に、ある団体を立ち上げました。
そこは、障がいの有り無し関係なく、
老若男女、様々な人たちが出会う場です。
「私はここへ来ると、みんなから大切にされている、と感じられる」
と、構成員の誰もが思える場を創ろうと考えました。

ありのままの自分を大切にされれば、素直になれる。
それがとっても気持ちが良い。
幼い頃、素直になれずに苦しんだ私にとって、
素直になれる場があるということは、
掛け値なしの幸せなことでもあるのです。

Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/25 (Sun) 22:26:49
ここへきて、ちょっと解り難くなってきたのですが、
あすなろさんやアンブロさん、パンダさんたち定型の方々が
私のここ数日のコメントを読まれ、「謎が解けた」「すっきりした」など、
まるで初めて分かったかのようなことを書かれていますよね。
そんなに新しいですか、この感覚?
よくわからないんです。

私がここ数日言ってきたことは、
決してアスペ特有のものではないと思っていました。
でもこれだけの人が異口同音に言われるということは、
やっぱりこれは定型の人たちにとっては、
馴染みのない感覚だったのかもしれませんね。

今、ちょっと軽い混乱状態なので、一旦整理してみますね。

まずは昨日までの私です。

辛い時にアドヴァイスをしてくる人は、
とてもおせっかいで、優越感に満ちて、
人の気持ちの分からないデリカシーのない人たちだと思っていました。
「本当に何にも分からない人達だ」とあきらめていたこともありました。
「アスペルガーの私より、定型のあの人たちの方が、
よっぽど人の気持ちが分からないんじゃないの!」
と秘かに憤慨もしていたのです。

反対に、あすなろさんとかアンブロさんとかパンダさんたちは、
そういう人達とは明らかに違う、
そこら辺のデリカシーは十分に備えた人たちだ、
と思っていたのです。
もちろん今でもそう思っています。
それが、定型的な意味でのデリカシーと私の思うデリカシーとでは
違うということのようです。

でもやっぱり私にはわかりません。
例えばパンダさんは、鬱病を体験されましたよね。
その時、他人のアドヴァイスって聞いていて苦しくなりませんでしたか?
私は以前、鬱を経験された方の手記を読みましたが、
「どうして誰にも相談できなかったか?」という質問に対し、その方は、
「なまじっか相談すると、励まされたり、アドヴァイスされたり、
慰められたりするのがとても負担に感じた」と答えてらっしゃいました。
私は鬱病ではないけれど、幼少期から今までずっとこんな気持ちでしたよ。
そういった気持ちは、私以上にパンダさんには
理解ができるはずだと思っていました。
私が感じているものと、この鬱病患者さんが感じているものは
似て非なるものだということでしょうか?

アスペか定型かにかかわらず、みんな当然これくらいの感覚は持っていて、
持っているくせにあの態度は何よ!
と怒ったり傷ついていたのかもしれませんね。
場合によってはバカにされたような気分にさえなっていたのです。

昨日からしきりに思い出しているのが、
私がこうしてこのブログに投稿を始めたばっかりの頃、
ある記事のコメントでパンダさんと
<アドヴァイス>についてのやり取りをしたことです。
http://communicative.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-6805.html
1月21日の記事<頭と心>の中でのことです。

私が若かった頃、アスペの長女や次女の育児に対し、
同じマンションの奥さんたちから、
おせっかいなアドヴァイスを受けたということをコメントで書きました。

その時私は、
>私が「見当はずれも甚だしい」と表現したのは、
>それを押し付けがましく、こっちが求めてもいないのに
>アドヴァイスをしてきた奥さんたちの<善意>に対してです。
>私にアドヴァイスという形のお説教をすることで、
>優越感に浸っているのが分かったからです。
(中略)
>でも、中にはそんな親の努力も通用しない子たちがいるかも知れない、
>という想像力は働かなかったのです。
>(お説教をする人たちの)<善意>には、
>押し付けと、自己優越感が感じられました。
>話していくうちにどんどん自分に酔っていくようなあの表情は、
>決して美しいとは言えませんでした。
というものでした(1月24日2時9分)。

それに対してパンダさんは
>私も、相手の事情をよく分からないのに、
>したり顔で決めつけのお説教をされるというのが苦手で、
>自分も知らず知らずにそうすることもあるのですけれど、
>できるだけそれは避けるように努力をしています。
というコメントを返してくださいました(1月24日9時14分)。

私はマンションの奥さんたちのお説教を、上記のように表現しましたが、
もしかしたら、あれはアスペの私特有の受け取り方によるもので、
一般的には、ありがたく受け取るべき
アドヴァイスだったかもしれないのですね。
あのマンションの奥さんたちに、もしパンダさんが直接会われたら
コメントとは全く別の印象を受けられたかも知れません。

そう考えると、私が今まで切り捨ててきた人たちの中には、
本当に親身になって私のことを考えてくれていた人たちも
たくさんいたような気もしてくるのです。

本当に昨日か一昨日くらいまで、私はそう思っていたんですよ。
というわけで、私は今混乱状態なので、
今日はこの辺で休むことにしますね。
おやすみなさい。


Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2016/12/25 (Sun) 23:25:44
ガーディナーさんが、ご近所の奥さんたちのアドバイスをお節介と捉えたコメントは、その時私も、その通りだなと思っていた記憶があります。

それは、私自身も、そうした『一般論』では通用しない子育てを経験してきて、『そんなことは百も承知!それ以上に、この子には別の視点が必要なの!』と思ってきたからです。

うつ病も、そうですが、うつ病は、一般的なストレス解消法は通用しない。特別な知識が必要になるからです。

そのズレが辛いというところなのだと思います。

しかし、一般的な定型社会では、その一般論で救われている人が多い。例えば、育児の大先輩、おばあちゃんの知恵袋などが重用されるのも、一般論や、年配者の経験で、参考になることが沢山あるからだと思います。

私も、定型の長女の育児の時は、右も左も分からない新米ママだったので、そうしたアドバイスに頼っていました。
育児書を読むよりも、実用的でしたし。実際、定型の長女には有効なことが多かったので。

長男の時にそうしたアドバイスが苦痛だったのは、自分が長女を育てて育児に関してある程度の知識はあったことと、アスペの長男には当てはまらないことが多かったからです。

私はそうした違いから、ガーディナーさんのお気持ちが解ると思ったのですが、かなりニュアンスに違いがあったのかもしれません。

>私たち親子に対して怒りをぶつけてくる人はまだ良かったのです。
それよりも、本当に親切に優しく
「人生って長いのよ、長女ちゃんのことをもっと大きな心で受け入れてあげましょうよ」
などと、人生訓を始める人の<善意>がどうしても受けつけられませんでした。

この点についても、割と育てやすかったけど、何も分からなかった長女の育児の時は、ありがたいと受け取ったでしょうが、疲れ切っていた長男の育児の時は、こころに余裕が無いので素直に受け取れなかった、という違いがあると思います。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2016/12/25 (Sun) 23:41:58
ガーディナーさん

 ブログの「見守るという姿勢の意味」にも書きましたけれど、今現在の私の理解は

 ①基本のパターンは同じだけれど、具体的なところで方向性に違いが出てくる、
 
 ということと、

 ②その違いを生む原因としては、「どういうところに敏感になりやすいか」というところでずれが起こることがある

 というものです。
 で、このずれが生まれる理由には大きく分けると二つがあって、

 ③ひとつはそれこそ生まれながらの感覚のレベルで敏感さなどに違いがあること、
 ④もうひとつは生まれてからの経験によって世の中の基本的な理解の方向にずれが生まれることです。

 だいたいそういうあたりで整理して考えると、結構いろいろ見えてくる印象を持っています。

 それで、「自分に合わないことを、勝手に<合う>と思い込んで押しつけがましくいろいろされることは有難迷惑でしかない。」という感覚は定型アスペに関係なく持つものだと思います。

 ただ、定型の側は基本的な物の見方や感じ方のレベルで共通する部分がお互いに多いので、「相手にはこれが必要だろう」と想像したことがそれほど外れていないことが多くなり、そのため比較的人の援助をありがたく受け入れやすくなるのに対して、アスペの方に対しては定型的な気遣いが的外れなことが多くなるので、「いらぬおせっかい」というふうに受け止められることが多くなり、アスペの方の提携に対する基本的な姿勢が「そんな的外れなおせっかいはやめて放っておいてほしい」という感じになりやすいのではないか、というのが私の今の理解です。

 で、定型でも鬱にも至るようなシビアな状況の中では中途半端な「理解」に基づく「励まし」については、「もうわかんないなら放っておいてほしい」というところまで気持ちが追い込まれることはあり、そこではアスペの方とも似たような体験をすることになるのでしょう。

 ということで、相手の援助が身勝手なおせっかいと感じられるかどうかは、自分の抱えている問題にフィットしているかどうかで変わるというところは定型もアスペも同じだけれど、定型優位の社会の中ではアスペの方はフィットしないほうが普通で、定型のほうはフィットするほうが普通なので、基本的に援助について「おせっかい」と感じやすいか「援助」と感じやすいかの基本的な傾向に違いが生まれてくるのだろう、と考えてみているわけです。

 ということで、「そう考えると、私が今まで切り捨ててきた人たちの中には、本当に親身になって私のことを考えてくれていた人たちもたくさんいたような気もしてくるのです。」というガーディナーさんの疑問については、まあその可能性はあるなと思えます。ただ、それはあくまでも定型的な理解でそうしているわけですから、それを迷惑に感じるガーディナーさんがおかしいというわけではないと思うのですね。もちろん定型的にみても自分本位のいやらしいおせっかいと感じられるケースもあると思いますけれど。相性もありますしね。そこはケースバイケースという気がします。

 
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • アンブロ
  • 2016/12/27 (Tue) 20:47:19
ガーディナーさん

私は、ガーディナーさんのコメントを読んで
私に対してガーディナーさんが感じていることを教えてくれたことがとても嬉しいです(*^▽^)/

その他のことに対しては、何も言葉では語れません。

でも、ただひとつ思うのはガーディナーさんが悩み、混乱しながらも自分で出した答えが、ガーディナーさんの答えだと思っています。


年末、忙しいとおっしゃってましたね。
私も忙しくなります。

お互い風邪には気をつけて、忙しさを乗り切りましょうねv(^∀^)
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/30 (Fri) 20:36:46
こんな私にも、時々思い出したように他人から、
悩みなどを訴えられることもあります。

少し前のことです。親しく付き合っている友人(定型です)から
メールが届きました。
それを要約すると、
<自分には長い葛藤の末に見つけた結論の様なものがり、
それは自分の人生哲学として決して揺るぎのないものだと思っていた。
ところが最近になって、ちょっと自分のウイークポイントのような部分を
刺激されることがあると、自分の意識しないところの何かがうごめき出す。
それが何であるのか言語化ができずに、もやもやとした気分だけがずっと続いている>
というもので、彼女はその心境を淡々と綴っていました。

具体的なことが書かれていなかったので、
私は察することしかできませんでした。
でもその迷いや苦しみは、私にも覚えのある感覚で、
その点では彼女に共有感覚を持てました。
彼女は定型ですが、私には持っていない、
相当苦しい体験を積んで大人になった人です。
自我を形成する中で獲得した、彼女独自の哲学が
今侵されようとしているわけで、
それまでの自分の人生を壊されるような苦しみと、
なおもそれを崩したくないという葛藤で、
心はある種の危機を迎えていたのかもしれません。

これは程度の差こそあれ、誰にでも似たような経験があるのだと思います。

私も実はこのブログに出会ってから、障害と自分の捉え方の根幹的な部分で、
大きな揺らぎがあり、相当なカルチャーショックを受けていたのです。
今もその余波がありますが、
このごろではその揺らぎを楽しめるほどに回復しました。

私が彼女に送ったメッセージはそれなりに長かったのですが、要約すると
<今抱えている悩みを、大切にしてください>
というごく単純なものでした。

私は若い頃は、何か言語化できない苦しみの様なものがあると、
とにかく言葉に変えて打破しようと頑張ってきました。
ノートに自分の言葉を書き殴るようにして、自分の中のモヤモヤを吐き出し、
それを整理してみることが、私のやり方でした。
「もっと違う見方をしてみよう」
「こういう風に考えれば、今より楽になれるはず」
それはそれで良いことかもしれません。

でも最近になって、そうやって、頑張って整理しても整理しても、
もれ落ちてしまう整理しきれない心の破片こそが大切で、
それを無理に処理して解決した気になっていると、
やがて疼きとなって大きく育ち、
何年かすると再べ襲来してくる・・・、というサイクルが見えてきたんです。

このメールを私に送る前の友人の身に、何があったのか、
大体の想像はつきました。
私の経験を語り、その悩みを共有しあうという方法もあったかもしれません。
でも私には、それができませんでした。
彼女は私の経験を聞きたいのではない(かもしれない)、と思ったからです。
本当のことは分かりませんが、私だったらそう思うはずです。

でも一つだけ確信していたことがあります。
それは彼女は私に語りたがっている、ということです。
私に語ることにより、「自分」で次なる方向性を見つけたがっているのです。


<苦しみも迷いもそれで良い。
恐れることはないし、
無理に解決する必要もない。
苦しみや迷いを悪と見るから、
悩みになるのでしょう。

迷いを感じているのは素晴らしいことだと思います。
私はしばらくこのまま、その迷いに身を任せようと思います。

その中で変わること、変わらないこと、どちらも大切にしたいですね。

○○さんが今、具体的に何を考えているのかは、分かりませんし、
無理に言葉に変えて伝えて欲しいとも思いません。

じっと心の動きを見つめる中で変化したこと、しなかったこと、
ことばにできるようになったら、教えてください。>

と結びました。

送ったすぐ後に、元気な返信が来ました。要約すると
<これで良いんですね(笑)またお話しさせてください!>でした。

この私の返信文がアスペ流なのか、定型流なのかは分かりませんが、
心が乱れている人にはまず、十分に語らせてあげること、
それが何より大切である、と私は考えています。

さらに付け加えれば、聞き手である私にたとえ十分な理解力がなく、
肝心なところが分からなかったとしても、
語り手の心の旅に同行できたという喜びで、
私もまた浄化されるような気持になるのです。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ガーディナー
  • 2016/12/30 (Fri) 23:12:46
アンブロさんへ。
ごめんなさい。
私本当に鈍いんです。
本当に鈍い私を許してください。
せっかく送って下さったメッセージに、またしても長い間返信できずにいました。

今回は、アンブロさんからのメッセージに気付いてなかったわけではないんですよ。
でもね、何について書いて下さっているのかが、よくわからなかったんです。

>私に対してガーディナーさんが感じていることを
>教えてくれたことがとても嬉しいです(*^▽^)/
・・・あたし何か言ったっけ?もしかして先月のことかなあ?

>その他のことに対しては、何も言葉では語れません。
え?口に出せないような、何か重要なやり取りがあったのか(ドキドキ)?

>でも、ただひとつ思うのはガーディナーさんが悩み、
>混乱しながらも自分で出した答えが、
>ガーディナーさんの答えだと思っています。
そう、確かに私の頭の中はいつも混乱しています。
でも今のところそんなに悩んではいない・・・。

というわけで、頭の中がずっと?だらけだったのです。

で、ついさっきです。
アンブロさんは、私が12月25日に投稿した内容を言ってくださっていたんだ!
と気が付いたのは。そうか!だったら全部繋がります。

「私に対してガーディナーさんが感じていること」というのは
「デリカシーのある人たち」の部分だったんですね。
はいはい、そうですよ。アンブロさんは私にいつも気遣って下さってますよね。
とても有り難い存在です。

それから「ガーディナーさんが悩み、混乱しながらも」というくだりは
「私は今混乱状態なので、今日はもう休みます」とか、
自分で言ってたくせに!忘れっぽいにもほどがある、自分!

と、よ~く叱っておきましたから、許してくださいね、
メッセージスルーしちゃったこと。
なんか最近アンブロさんには謝ってばかりです。
こんな私ですが、来年もよろしくお願いいたしますね
(悪気はないんです)。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • アンブロ
  • 2016/12/31 (Sat) 08:13:06
ガーディナーさんへ

コメントありがとうございました(*^▽^*)


私からのコメントに対して感じたことを、ガーディナーさんの中で繋がるまでのことが、とても分かりやすく

描かれていました。


頭の中の混乱はいわば、「通常運転」ということなのかな?

実は、最初なんてコメントすればいいか迷いました。

定型お得意?のアドバイスをしようと勝手にあれこれ考えてしまいそうになったんです。

そう...なんとかプラスの方向にいってほしい気持ちが発動しそうになりました。

でも、ここで学んだことが私の中でようやく形になってきたようで( ̄ー ̄)

「いやいや、アドバイスなんて求めていない」と
ストップできました。

でも、混乱という文字に、やっぱり視点がいってしまい

それを無視して、コメントすることができなかったんですよね...(゜▽゜*)

でもでも、ガーディナーさんなら、答えは自分で見つける。というより、そもそも悩んでいないかもしれない。と、あのようなシンプルなコメントになりました。

私もコメントをするまでの自分を思い出して書いてみましたが、なかなか自分の細かいところを思い出して書くのは、時間がかかりますね( ̄▽ ̄)ゞ

でも、読み手に伝わるようにコメントされてる
ガーディナーさんを見習って、

たまにはゆっくり自分を振り替えってみたいと思いました(*^▽^*)

来年(もう明日ですが)も、まだまだ学ばせて頂きたいと思います。

ガーディナーさん。皆さま。

また来年もよろしくお願い致しますm(__)m

Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • アンブロ
  • 2017/01/03 (Tue) 21:47:49
ガーディナーさん

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね。

というわけで、年末から「恥」について考えていました。

あすなろさんの掲示板のところで語っていた「テストの点を公表する」について。
こちらで書かせていただきますね。

思い出してみると、私は運動一筋!小さいころは「水泳」に全部を注いでいた…気がします。
小学校の時は、夜遅くまでの育成コースに進み、学校の勉強なんて、ほとんどしていなかったように思います。(ほとんど記憶にないので)

で・・・もちろん成績は良くなかったですね~(笑)
それ自体はたぶん、なんとも思っていなかった気がします。でも、母親はそうではなかった。

弟がいるのですが、すごく成績がよかったので、よく比べられたりもしました。

怒られることにすごく敏感で、でも水泳中心の生活を送っていたので、学校にいるときは
ぼ~っとしていた気がします(。-∀-)

中学に行き、水泳をやめた私は、(自分できめた)中一のころはまだまだ勉強に意欲が持てず。

怒られるのは嫌なのに、やらない。やる気スイッチが入り始めたのは、

中二になり、「塾」に行き始めたときでした。
先生は若くて、面白くって(*^▽^*)

勉強もしていたんだろうけど、よく祭りに連れていってくれたり、たわいもない話
先生の「恋愛トーク」など、とにかく塾に行くのが楽しみでしかたなかったです。

そこからかな・・・先生に褒めてもらいたくって、勉強をものすごく頑張り無事、高校に入れた。という・・・そんなことを思い出していました。

そう考えると私は他人との関わりの中で、自分が変わってきていた。
ようは好いてる人の影響がものすごく大きかったんだな~と思います。

テスト・・・いい点とったときは堂々と見せれたけれど、悪い時は怒られたくないから
憂鬱だったきがします。
きっと、「いいよいいよ~次は頑張れば!」な~んて言われていたら
どうだったかな?それに胡坐をかいて勉強しなかったかな?

とかいろいろ思うことはありますが、成績が上がったのは「恩師」との出会いが大きいかな?と
思います。
アンブロさんへ
  • ガーディナー
  • 2017/01/30 (Mon) 23:53:44
アンブロさんへ。
ちょっとお久しぶりですね。

子ども時代の勉強の話、テストの点の話、読ませて頂きました。

とても素直に、まっすぐに育ってこられたアンブロさんの少女時代を想像しながら、
こんなことを考えていました。

定型の子どもって、こんな風に、
人と比べられる悔しさや、意欲のわかない低迷感を抱えながらも、
出会った人とのつながりの中で、それらを乗り越えていくんだな。
そして、そうやって苦しんだ体験を、甘い追想の中に描くことができるんだな、と。
ちょっと羨ましいような、眩しいような気持になりました。
残念なことに、私の周りにはアンブロさんの塾の先生の様な人はいませんでした。

ところで・・・。
親や学校の教師というものは、子どもにとって上下の関係に位置します。
それに対して、友達は横の関係ですよね。

私の様な子どもには、たとえどんなに素晴らしい人格者であろうと、
上下の関係に身を置かなくてはならないような人の存在は負担になるだけでした。
かといって、横の関係である友達関係は、距離が近すぎて、
アスペの私には、教師以上に負担に感じていました。

私は、塾の若い先生というのは、斜めの関係に位置していると捉えています。
斜めの関係の人というのは、閉塞感に満ちていた子ども時代の日常に、
空気穴をあけてくれるような人たちです。
彼らは、親や教師ほど「育てなくてはいけない」という使命感はありません。
だからお互いが気楽に、程よい距離感で付き合うことができます。

子どもが今までに触れたことのないような、未知の世界からやって来て、
自由な風の吹く新天地へと導いてくれるような存在です。

その斜めの関係を豊かに持つことが、子どもにとって幸せなことだと思っています。

高校生になった頃から、私はだんだん
大人や世の中に対する怒りを自覚できるようになりました。
そうすると、今まで私を支配していた、学校とか成績とか、
そういったものすべてを否定してみたくなるものです。
既成の価値観以外で何か自己を主張できるものを探すようになりました。
点数で測ることのできない勉強の本質の様なものがあるはずだ、と主張し
点数に拘っている大人たちに、議論を吹っ掛けたりもしました。

その頃の私は、アンブロさんの様に、
塾の先生に褒められたいという様な動機で勉強をしている子とは、
どうしても交わることができませんでした(ごめんね、昔の話ですよ)。
多分私はそこに、定型の子どもの相容れないにおいを感じていたのかもしれません。
さらに、定型の彼らを、大人の提示する価値観に安住する子たちだと考え、
無意識のうちに軽蔑し、切り捨てていたこともありました。

でも今は違います。そういう子ども時代を持っている人たちに対して、
私とは違うけど、そこにある豊かさや幸福感を認めることができるようになりました。

私がそういう視点を持つことができたのは、まさに奇跡だと思います。
それは多分、定型社会を、必要以上に怯えなくても良い、
警戒しなくても十分生きていける社会なんだ、ということが、
感覚としてつかめたことで、それが可能になったのだと思います。

自分とは違う価値観の人を「そういうのも、悪くないね」と、
ニコッと笑いながら認め合う、という姿勢は、
アスペの私にとって、何よりも難しいものでしたが、
定型の人との係わりの中で、いつの間にかできるようになりました。

>ようは好いてる人の影響がものすごく大きかったんだな~と思います。

↑これに関しては、私も同じです。
お互いを肯定的に認められる関係の中で、
人は、新しい価値観を受け入れられるようになるのだと思います。
ガーディナーさんへ
  • アンブロ
  • 2017/02/01 (Wed) 19:40:41
ガーディナーさん

お久しぶりです(*^▽^*)

>定型の子どもって、こんな風に、
人と比べられる悔しさや、意欲のわかない低迷感を抱えながらも、
出会った人とのつながりの中で、それらを乗り越えていくんだな

この文章を読んで、私もそうかもしれないな・・・と思いました。
でもですね、私自身のことから繋がったことではなく、

自分の子供を見ていて、そう感じるんですよね。うちの息子は(たぶん定型)小さいころから
友達との関わりが上手ではない上に、誤解もされやすく(。-_-。)

(ここからダークな話になりますが私の心は穏やかです)

いじめにも遭いました。しばらく家に閉じこもりました。
一歩も外に出ず。誰ともかかわらない数日(ちょうど夏休みだった)を過ごしました。

でも夏休みを終えたころ
自分で何か答えのようなものをを見つけた?のか、寂しくなったのか・・徐々に人と関わるようになりました。
今では元気に友達と仲良く過ごしています。いじめていた子たちとも適度な距離感で関わっています。

親としてできたことと言えば、「見守る」のみでした。「ほっといた」とも言えます。

心中穏やかではなかったです。大丈夫だろうか・・・毎日思っていました。

でも、暗闇の中に光を見つけたんだと思っています。何がきっかけかはわかりません。
きっと、息子にもわからないのかもしれません。
学校の先生も「変わった」と、とても驚いていました。

さてさて、息子は本当に変わったのか??というところが微妙でして(。-∀-)

本質は実は変わっていません。外の自分・家の自分・仲の良い友達との自分・クラスメイトの自分。

それぞれ、変えていく術を身に着けた。

という表現が一番近いかなぁ・・この辺は見ていて感じることなんですけどね(>_<)


>その頃の私は、アンブロさんの様に、
塾の先生に褒められたいという様な動機で勉強をしている子とは、
どうしても交わることができませんでした(ごめんね、昔の話ですよ)。

ふふ(*^^)そのころに出会わず、今、こうして
掲示板を通してお互いのことを話している。

これも一つの奇跡だと思っています(*´▽`*)


>自分とは違う価値観の人を「そういうのも、悪くないね」と、
ニコッと笑いながら認め合う、という姿勢は、
アスペの私にとって、何よりも難しいものでしたが、
定型の人との係わりの中で、いつの間にかできるようになりました。

奇跡のような努力のような忍耐のような・・・そんな葛藤の先にガーディナーさんの
中に増えた価値観。
いつだか言っていた

「複数の何かががガーディナーさんの中にいて、うまく融合できずに苦しみ、いつしか
解放へとむかった」(と話してくれましたね)

そのお話と繋がった気がします(*^▽^*)

なるほどな~!!へー!!と(☆▽☆)いう思いです。

またいつでもお話し聞かせてください(≧▽≦)

<A氏とB氏の10年後の物語>①
  • ガーディナー
  • 2017/02/21 (Tue) 12:10:36
久し振りにちょっと前の記事<次のステップ(2017年㋀10日)>と、そのコメントを読み返してみました。記事では、このスレッドでもとりあげたアスペと定型のコミュニケーションのスタイルについてが書かれていました。

Aの苦しみをBが聞く。
Bは今まで経験どころか、想像すらしたことのなかった、
Aの体験談に驚きながら聞き入る。
何が正しく、どうすべきで、そのためには何が必要であるのか・・・、
そんなことは考えずに、尊敬の念でAに向かい、
Bはただひたすらに聞き容れる。

私が理想と掲げたコミュニケーションのスタイルは、要約すると大体こんな内容だったと思います。それに対して、パンダさんは、

>でもなんかそれだけではないものがありそうな、
>そんな気がするのです。

という感想を記事の中で書かれました。そのご意見に対して、私はほんの少~しだけ反発しながら

>もう少しまだ先に・・、というのが、
>なんだかこれでは不完全、という響きに聞こえました。

するとパンダさんは

>はい。私の理解が不完全ということです。

と、どこまでも謙虚なお答えでした(負けました)。どうやら何かを追求し続けられる人には、共通してそういう謙虚な姿勢があるようですね。

というわけで、私もパンダさんを見習って「その先にあるもの」を考えてみることにしました。そうしたら気が付いたんです、さらにその先にあるものに。気が付いてみれば、それは私がずっと長い間求めていたものだったような気がします。分かっていたのに、言葉にできなかったという方が正確かも知れません。
 明日から少しの間、私が気が付いた「その先にあるもの」をお話しします。要領の悪い私のことです。多分4日か5日はかかると思いますが、よろしくお願いいたします。
A氏とB氏の10年後の物語②
  • ガーディナー
  • 2017/02/22 (Wed) 08:00:01
さて、「その先にあるもの」をお話しする前にちょっとだけ、1年ほど前に、私が投稿したコメントをご紹介します。2016年の1月4日の記事<難問>へのコメントです。http://communicative.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-55b3.html#comment-112429499 記事の中でパンダさんが「一部と全体を混同するのはなぜか?」という問いかけを出されました。
今にして思えば、この時のパンダさんの問いかけは、おそらくにわとりさんとの話し合いの中で、壁にぶつかっていたことなどが引っ掛かりとしてあって、それに対する疑問を呈されたのだと思います。
一方当時の私は、このブログに参加し出して数日しかたっていなかったので、
その前の年にあったいきさつの様なものは一切知らずに、従って、パンダさんのお気持ちがどこにあったのかなどということを考えないままに、ただただ持論を繰り広げたというわけです。
私がそこでコメントしたことを大雑把にまとめますと…。

アスペルガーのA氏と、彼と友達になりたいと願う定型のB氏が出会う。
親しげに近寄ってくるB氏の存在が負担に思えるA氏は
次第に、B氏のことを疎ましく思うようになる。
それに重ねるようにして、過去、A氏を取り巻いていた
不愉快な環境を思い出し、とうとうB氏に
「迷惑だからもう近寄るな」と激しく怒鳴りつける。

これはB氏にとっては晴天の霹靂、
A氏の怒りは全く身に覚えのないお門違いの物であった。
B氏は彼の怒りを
「傷ついた彼の心が作り出した幻影で、僕に向けられたものではない。」
と分析する。そして、A氏に向かい穏やかに諭す。
「僕は決して君を苦しめないよ。
君は今までに苦しい思いをたくさんし過ぎて、過去の怒りを
たまたま目の前にいた僕にぶつけたくなっただけなんだ」

これを聞いたA氏は今まで感じたことのないほどの怒りに体を震わせた。
「B君。僕は君に転移なんか起こしていない。
問題をすり替えないでくれ。
僕が怒っているのは、君自身に対してだ。
君のそのデリカシーのない態度も嫌いだし、
その大上段に構えて子ども扱いするところが許せない。
まるでどこかの心理士のようだ」

…これが物語の原型です。ここではA氏とB氏は別れてしまいます。
さて、それから10年の月日が経ち、二人は再開します。その後二人はどのように変化したのでしょうか?私はハッピーエンドにしたいと思うのですが…。明日、また考えてみます。今度は悲しい別れになりませんように。
A氏とB氏の10年後の物語③
  • ガーディナー
  • 2017/02/23 (Thu) 00:57:03
さて、今夜はA氏とB氏の10年後の物語りです。

A氏の苦しみは、根底に怒りを持っている。
それは、A氏に不遇をもたらせた、社会への怒りであり、
それをA氏個人の責任に帰して安心しようとする世間への怒りである。
でも、その怒りは決して個人の所有物であってはならない。
A氏は苦しみを語ることにより、社会を告発しているのだ。

A氏は過去を乗り越えるために、たくさんの本を読んだ。
すると、長い間自分を苦しめてきた正体が徐々に分かってきた。
今までさんざん自分を侮蔑してきた世界に歪みがあったのだ。

でもそれが分かったところで、自分の苦しみが消えるわけではない。
毎朝玄関を出ようとするたびに、条件反射で襲ってくる軽いめまいと胃の収縮。
敵意が無いことを証明するために、
いつもどこでも愛想笑いをすることが癖になっていた。
伏し目がちな視線は習慣となり、強固な背骨は猫背を形成していた。
長年の体験で、体に染みついてしまった卑屈な精神は
多少の知識が増えたくらいでは、頑として出て行かない。

自分の人生だ。
自分の人生を生き抜くために、俺はこの世に生まれてきたんだ。
何度も何度も言い聞かせ、沈み込んでしまった自尊心に必死で呼びかける。

気の遠くなるほどの努力を続けた。
でもそれは決して無駄ではなかった。
卑屈だった愛想笑いは消え、朗らかに哄笑できるようになった。
青白い顔で怯えていた少年時代の自分を、再び陽の下に呼び寄せ
「もう苦しまなくてもいいんだよ」と言い、抱きしめることができた。
あの暗闇から抜け出るために歩んできた自分の半生が、
どこまでも誇らしく愛しかった。

しかしそれは、現実逃避の独り芝居だったのかも知れない・・・。

ふと世間を見渡せば、相変わらずその視線は排除と侮蔑と同情だ。
這いつくばるようにして地を渡っていたあの頃と、何一つ変わっていない。
A氏は震えるこぶしを握り締め、肩で荒く息をした。
行き場のない怒りを天に向かって恫喝したかったのだ。

その時、通りの向こうから近づいて来て、隣に座ったB氏が言った。
「君の本を貸してくれないか、ほら今君が手にしている」
穏やかな笑顔と、まっすぐな視線。
A氏は、のど元まで出かかった怒りの叫びをグッと飲み込み、
無表情に「ダメだ」と言った。
そして落胆しているB氏の横顔に向かい、ニッと笑って返してやった。
「これは君には難しい、僕が解説してやろう」

A氏の話はB氏を夢中にさせた。
B氏は今まで生きてきた世界が、
いかに狭かったかということ知ったのだ。

B氏にとってA氏はもう、話を聴いてあげるべき可哀想な人ではない。
B氏はA氏の苦しみを傾聴することで、新しい人生観を手に入れた。

B氏は初めて気が付いた。
「可哀想なのはA氏ではなかった。
彼の苦しみと、それを乗り越えた誇りに気付けなかった、かつての自分だ。」
B氏の気付きと成長は、A氏の心を解き放ち、何にも勝る財産となった。
そしていつかは反対に、A氏自身の成長が、
誰かの心を解き放つ日が来るかも知れない…。
A氏は秘かに希望を持った。
A氏とB氏の10年後の物語④
  • ガーディナー
  • MAIL
  • 2017/02/24 (Fri) 00:49:10
A氏とB氏の10年後の物語はこれでおしまいです。

去年の話は悲し過ぎます。
どうしたらその悲劇を覆すことができるのか?
そう考え続けた私は、仮にB氏がカウンセラーの様な親切心ではなく
A氏に近づいたとしたら?という物語を考えてみました。

いえ、もともとB氏はそんな気持ち微塵も持っていなかったはずですが、
でも、A氏にそう激しく指摘されると、何となく自分の心の中に、
A氏をクライエントの位置に見立てていた部分が隠されていたかもしれない、
と思い、その疑惑を払拭できずにいたのです。
考えてみれば彼は、A氏と友達になろうとはしましたが、
A氏から何かを学ぼうという気持ちにはなっていなかったはずです。
だから、「A君が怒るのは無理もない、
可哀想な過去を背負っているんだから、
こちらが大人になって飲み込んであげよう」
という思いやりが捨てきれず、
それがA氏を深く傷つけたということには気が付かないでいました。

10年後のB氏も基本的には昔と同じで、A氏と友達になりたいのですが、
それに加え、今彼がどこに怒りを持ち、何に喜びを感じ、
どうやって苦しみを乗り越え、どこに幸せを求めているのか・・・?
そういった彼の生き方を探ろうとしています。
一方10年後のA氏は昔とは違い、自分に誇りを持ち始めています。
近くに寄って来たB氏の態度に、
あの時ほど警戒をしなくても良くなっていました。

昔のB氏は、突然自分を激しく非難し出したA氏を見て、
彼が苦しんだ過去のせいだと考え同情しましたが、
10年後のB氏は、A氏の苦しんだ過去と、それを乗り越えた半生に、
尊敬の念を抱きます。

そんな風に、A氏もB氏もそれぞれが
10年前よりは少しずつ成長して、今年再び出会ったわけです。
明日は、この<10年後の物語>を思い付いた
きっかけとなったことについてお話ししますね。
A氏とB氏の10年後の物語⑤
  • ガーディナー
  • MAIL
  • 2017/02/24 (Fri) 22:19:32
私がこの話を思いつくきっかけとなったのは、あすなろさんの仰った言葉なのですが、どこのコメントでおっしゃっていたのかが思い出せず、残念ながら探しても見当たりません。記憶をたどりながら書きますと…。

私も初めはにわとりさんのことを、何とかしてあげたいとか、
何かアドヴァイスをしなくてはいけない相手だ、
という様な気持ちで見ていました。
が、kagewariさんの記事を読んでいくうちに
変わらなくてはいけないのは、むしろ私の方だ、と気が付いたのです。
(こんな感じだったかな?違っていたら申し訳ありません。教えて下さいね)

あすなろさんの書かれたこんな文章を読んだその時に、私も気が付いたのです。今まで私を支えてくれた人たちの中にも、私の話を聴いて、それを自分の課題として受け入れてくれていた人たちがいたということ、そんな彼らの存在がどれほど私を成長させてくれたかということに。

それから、このブログを立ち上げたパンダさんも、奥様とのズレに心悩ませながらも、相手の生き方を認め尊敬する、という境地に至り、一旦は崩壊した関係を見事に立て直していらっしゃる。

残念ながら私にはkagewariさんの文章は読めませんでした。仮に読めてもしっくりと来たかどうかは分かりません。ということで、誰もが心掛けさえあればあすなろさんとにわとりさんの様な関係になれるとは限りません。能力もありますし、もともと持っている価値観もあります。また逆に、kagewariさんさえ読めばお二人の様な関係が築けるかと言えば、それも違います。
(ですから「このように、にわとりさんとの関係を築けなかったパンダさんは、にわとりさんから学ぼうという謙虚さに欠けていた、と言いたいのか?」と問われれば、「それは誤解です」と、もちろん答えます。)

でも、相手の生き方を認め、そこから学ぼうとする基本姿勢が大切であることは確かなことでしょう。そのためには、自分を縛っていた固定観念を一旦は捨てて、相手の言葉をじっくりと聴いてみることが必要であると思います。

こうやって言葉にしてしまえば、至ってシンプルな結論ですが、それ自体本当に難しいことだと実感しています。特に私の様な自閉圏にいる人にとって、新しい価値観を認めるということは、何かこれまで自分の築き上げた世界観を破壊されるような、痛みを伴う作業にもなります。たとえそれができたとしても、それでハッピーエンドになるという保証は全くなく、むしろそこが初めの一歩、やっとスタート地点に立てたという段階なのかもしれません。


そういえば、こんなこともありましたね。去年の暮れ頃、私とあすなろさんのやり取りをご覧になったパンダさんが、<恥>という記事の中で、

>ガーディナーさんが高校時代にはある程度到達できた世界について、
>あすなろさんは今ようやくガーディナーさんたちの手助けを得ながら
>入り始めたと感じられているというあたりです。

と書かれました(2016年12月28日)。
私はその時、こんな書き方をして、大丈夫だろうか?とハラハラしたものです。あすなろさんは確かに私の文章を読まれたことを切っ掛けに、何か感じられたかもしれませんが、あくまでもあすなろさんご自身の力で、新しい感覚を獲得されたのです。そこに私の手助けはありません。
もし私が○○さん(仮名)の文章に影響されて新しい感覚を獲得したとしても、それを第3者から「ガーディナーさんは〇〇さん達の手助けを得て、今ようやく新しい世界に入り始めました」なんて解説されたらどれほど悔しいことだろう、と考えていました。

ところがところが、その日の夜に送られてきたあすなろさんのコメントは

>まさに、そういうことですね!!

でした。これには腰を抜かしました。何という潔さ。あすなろさんにとっては、誰かの力を借りて成長することが、特に屈辱であるとか恥ずかしいことではなかったんですね。私の感覚とは大きくズレることだったので、そのあとずいぶん考えさせられました。
他人の力を認めようとしない自分の器の小ささとか、変なプライドの高さとか、やっぱり私は孤独の中に生きているんだな、とか・・・。いろいろです。
でもこれは、自閉圏にいる以上、多かれ少なかれみんな持っているのなのかも知れませんね(他のアスペの方たち、道連れにして済みません)。

前途多難な一大事業ですが、私はあまり悲観していません。それぞれが、自分の立ち位置でできることを少しずつやっていけば良いのです。疲れたら休憩して、元気が出たらまたやれば良い。10年前は築けなかったA氏とB氏の関係が、今年は大きく前進したように、来年はどこかの町で、まだ見ぬC氏とD氏が歩み寄れるかも知れない。そんな風に考えて5日間に渡って聞いて頂いた<A氏とB氏の10年後の物語>はこれでおしまいにします。





Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • パンダ
  • 2017/02/25 (Sat) 00:12:42
ガーディナーさん

 これはあくまで私の感覚でのことで,ガーディナーさんの書かれたものについていろんな感じ方があるのは自然のことという前提での話です。

 このAさんとBさんの話を読んで,改めてガーディナーさんの見方の「純度」とでもいうものを深く感じさせられました。ガーディナーさんは音楽をされているということで,私の感覚での比喩で言うと,たとえばバッハの音楽にも感じるような方向性を持った純度を感じます。

 そこまでごまかしなく突き詰めて考えられるというのは,なかなかできることではないような気がするんですね。私の世界が狭いということもあると思いますが,そのレベルまで純度を高めた議論をする方というのは,ほんとに稀のマレ,という感じがします。

 私の場合,自分にそれだけの純度を実現する能力はないということを棚に上げたうえで,そういう方向性へ進むことを憧れとしては持ち続けていますので,素直にすごいなと思うわけです。

 一点だけ,ガーディナーさんの純度の高い議論の中で十分光が当たっていない部分があるとすれば,それはたとえばトマトさんの苦しみでしょうか。私はそこも含めての議論になっていかなければ,なにか大事なものが見失われてしまうような気がしています。ほんとにむつかしいポイントなのですけれど。

 カウンセラーの欲望がなんなのか,ということも考えたい問題の一つです。このレベルの議論になると,そこもまた単なる「善意」で片づけられない段階に来るように思います。もちろん「隠れた悪意」を暴き立てよう,というような種類の話ではありません。そこにどんな「お互いさま」が成り立っているのかを考えたいという話です。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • あすなろ
  • 2017/02/25 (Sat) 06:31:09
>ガーディナーさん

時々、ガーディナーさんから私の名前がポッと出てくることがあるので、驚きますが(あ、嬉しいのと恥ずかしいのがほとんどです)
ちょっと、買いかぶり過ぎかな?と思うところもあるので、言い訳(?)しますね!

ガーディナーさんの指摘された部分について、私ははっきりと覚えていません。
本当に申し訳ない話のですが、こんなにズカズカと掲示板の話題に踏み込んでおきながら、覚えているのは、漠然としたものと、一部の本当にインパクトの強かったことだけなのです。
それを見返そうという気力もありません。

(多分、何度も同じことを言っていることもあるので、パンダさんやお付き合いしてくださる方には本当に申し訳ないと思っています←早く言えよ!!って話ですね(^^;;)

その中で多分、私にとっての転換期だったのは、息子の行動が理解できなくて書き込んだときにいただいた、AS-Pさんというアスペ成人男性の方の、ご自分の感覚のお話です。
物事の感じ方、受け取り方、対処の仕方、がこれほど違うのか!と目からウロコがポロポロと落ち、そのお話を元に息子の行動を一歩引いて見ることができるようになったのです。
それがいつ頃の話だったかも忘れました。

しかし、相変わらず一歩引いても息子のやること、言うことにカチンと来ます。それで他の部屋に逃げ込んだり、無理に言葉を誤魔化して会話を切ったり、理論は頭にあっても実践は難しいと思ってきました。

その後くらいでしょうか?
にわとりさんが、お仕事やプライベートでうまくいかないことを吐き出されていて、単に受け取り方の違いを理解するだけでは理解できない。にわとりさんの不幸は、にわとりさん自身がもう少し努力すれば改善するのではないかと、正直感じました。
結局、その時は、アスペの方の実感という書き込みはされず、定型側からにわとりさんへの善意のアドバイスがほとんどで、今思えばにわとりさんにとって、本当に苦痛だったと思います。私もその善意をにわとりさんに押し付けていましたが、まるで気付きませんでした。

いったん、にわとりさんが離れて、今度はご自分の話ではなく、kagewariさんの共同幻想論をお話されるようになりました。
私自身、アスペではないけど発達障害によって、親兄弟からも学校からも白い目で見られてきた経験があったので、kagewariさんのお話とにわとりさんの解釈は、その経験のカラクリを教えてくれる、やはり目からウロコが落ちる大きな転換だったんです。

そのとき、ツィッターを始め、全くアスペなど関係ない有識者や高齢の方も、同じ話をされていて、『これこそ、世の中の歪みの根底だ!』と思ったわけです。
しかし、それをここで書き込んだところ、『辛い経験によって世の中すらも卑屈に見ている』と言われてしまった。
そのときはじめて、にわとりさんが受けてきた理不尽な経験は、ご自分の至らなさではなく、あまりにも狭い価値観に凝り固まっている世間の方なのだと気付いたんです。
それから、アスペの方々が、最初ににわとりさんが受けていた善意の押し付けに対する、にわとりさんの気持ちを代弁されるようになり、繋がっていったというわけです。

その後は、みるきさんのところにも書きましたが、再び息子とのやり取りを書き込んだとき、みるきさんからのお返事は、AS-Pさんの時のような衝撃でした。
にわとりさんのことで、『アスペ定型の感覚のズレは、思っているほど簡単なものではないぞ!』と実感したにも関わらず、相変わらず息子のことは理解できていなかった。
AS-Pさんが、『こんな感覚をしていますよ』と教えてくださったけど、ではどう対処すれば良いのかが分かっていなくて、相変わらず善意の押し付けを繰り返していたんですね。
その具体的な方法を教えてくださったのがみるきさんだったわけです。

アスペの方が、その見えている範囲でどうやって定型を理解しようとするかは、私には全く理解できませんし、その中にはだいぶ誤解や思い込みも多いと感じます。
ガーディナーさんが焦っていらっしゃるのは、その見えない部分を見ようとされているからかもしれません。

けれど、私自身も感じ方、考え方の癖は定型側だとすれば、アスペの感覚を理解するのは、これだけの紆余曲折と、あらゆる視点からたくさんの人たちの意見を見聞きして、やっと原点に立つことが出来たという感じです。
けれどやはり、息子や、関わっている子どもたちの感覚は理解出来ていない。
知的レベルが同じでも、ダウン症のお子さんとアスペのお子さんでは、ここで議論されているような感覚の違いが見られるんです。
つまり、アスペというのは障害じゃなくて、そういう文化圏の違いであって、その中に、定型世界と同じように障害のある人ない人がいる。
そういうことを肌で感じています。
なので、ここでアスペの方がご自分の感覚を語ってくださることは、文化圏を知ることになるという見方ができるようになってきました。

それは一つの家族に違う文化圏の人が暮らす複雑な家庭に、うまく共存していくノウハウを教えてくれる重要なことだと思います。

それでもまだまだ、理解には程遠い、だから、すべて受け入れてみようと思っているのが、今の私です。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • サロマ
  • 2017/02/26 (Sun) 08:14:53
横レス失礼します。 

トマトさんに限らず、ほとんどの方はにわとりさんや似たような境遇にいる方に対してです。

にわとりさん達が努力してないように見えたのでしょうか?

にわとりさん達の心が病んでいたり、環境に恵まれていなかったから、卑屈な考えや物言いをしていると見えるのでしょうか?

にわとりさんは援助やアドバイスをしてあげるべき存在だと見えるのでしょうか?

パンダさんの
>ガーディナーさんの純度の高い議論の中で十分光が当たっていない部分があるとすれば,それはたとえばトマトさんの苦しみでしょうか。

トマトさんに限りませんが、彼女達を見ると「アスペルガーはお世話する存在」として見ていて、それに対してトマトさんの周りのアスペルガーの方が反発したことに対して一方的に落ち込んで被害妄想になっているようにしか感じません。
多くの方々がこちらに来なくなった背景もにわとりさんや私や他のアスペの人達がこのことを反論したことについて、厄介な奴扱いをし、私達の話を聞こうとしなかったからだと感じます。
定型の方からすればトマトさんの肩を持ってしまうのは仕方ないのかもしれませんが、何故パンダさんは、トマトさんの苦しみに焦点を当てる必要があると感じるのでしょうか?
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • サロマ
  • 2017/02/26 (Sun) 08:18:30
パンダさんがアスペ側に対して一定の理解を示してるのは承知しておりますが、トマトさんの苦しみに焦点を当てる必要があると感じたのは、パンダさんご自身が(トマトさんがわの)視点から立って考えることがあるのでしょうか?
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • パンダ
  • 2017/02/26 (Sun) 09:35:36
今までところどころで書いてきたことも含めて,改めて私の立ち位置を説明します。

私は定型ですので,定型的な感覚から出発する以外に方法がありません。定型的な感覚からどこまでアスペの方を理解できるか,ということに挑戦しているのがここで行っていることです。それはアスペの方が定型の感覚を理解できないのと同じことです。

定型とアスペの関係では,非常にしばしば「加害」と「被害」の関係が生まれます。一般的には定型が優位な社会なので,社会的にはアスペの方が弱者の位置に立ち,被害者の形になることが多いですが,家庭などの比較的サイズの小さい関係など,特別の状況の中ではこれが逆転します。そこで発生する典型的な問題がカサンドラだと考えていますし,またアスペの親に苦しめられた定型の子どもも同じ状態になります。

定型とアスペの関係でどちらがどういう苦しみ方をするかということも非常に相対的で,仮に同じくアスペと診断された方同士でも,そのいわゆるスペクトラム上の相対的な位置によって,自閉度の低い方が定型的な苦しみ方をされるということも起こります。その同じ型がより自閉度の低い定型との間ではアスペ的な苦しみ方をされるということも起こります。

私は定型的な感覚を持つ人間として,アスペ的な対応から大きな傷を受け続けてきました。その深刻さについてはここでは申し上げません。しかし,私がずっと気になっていたことは,きっと自分とは違う形でアスペの方が傷ついているのだろうということです。そのことを理解する努力抜きに自分を被害者としてのみ語ることは私にはできませんでした。

ということで,ここで展開してきた私の試みは,定型の側が受ける苦しみは一応カッコに入れた状態で,アスペの方の苦しみを,自分の想像力を拡大する形で理解する努力でした。

明らかに一方的な社会的差別的な対応の問題は別問題として,個々の定型アスペ関係では,それが真に対等なものとなるには,お互いに相手の痛みを多少なりとも理解できるようになることが不可欠だと考えています。自分だけが苦しいわけではなく,相手だけが苦しいわけではない。ただ苦しむポイントに大きなずれがあって,その結果不幸なすれ違いが起こり続ける。そこをどう乗り越えられるのかが私の一貫した課題意識です。

言うまでもなく,自分の苦しみを抱えながら,その加害者に見える相手の苦しみを理解するという作業は並大抵のことではありません。へたにそういうことをすれば精神を病むこともあり得ます。だから誰に対してもそれをすすめようとは思いません。ただ,そのことにこだわりを持たざるを得ない性格と状況に置かれた私は,そこを課題としてここで問題に取り組んでいるだけのことです。それ以上でもそれ以下でもありません。

トマトさんたちが何人かのアスペの方たちからどう見えるのかについては,私なりには理解は可能な部分があります。アスペ的な視点から見ればそう見えるのだろうな,という意味でですし,そう見えても仕方のない部分もあると思っています。このことについてもこれまでも繰り返し書いてきました。けれどもその見方でトマトさんが苦しまざるを得なかった状況がちゃんと理解できるとは思いません。

自分の傷を抱えながら,なおどうやって相手の傷に思いをはせられるのか。自分にとっては理不尽にしか見えないことの中に,別の見方の可能性を探ることはどうやったら可能なのか。そういうことを考えることに意味を感じられるかどうかによって,事態の見え方にも違いが生まれるのだろうと思います。そういう違いが生まれること自体については,私としてはいいとも悪いとも判断しません。それはその人その人の抱えた現実のなかで,ある意味必然性をもってそのようになっているのだろうと考えるからです。

だいたいそういうことで私のほうからの説明は尽きるかなと思います。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • サロマ
  • 2017/02/26 (Sun) 12:35:24
申し訳ありませんが、パンダさんの説明文では、肝心のトマトさんがどんな思いでアスペの人と関わっていたのかが見えてきません。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • サロマ
  • 2017/02/26 (Sun) 18:21:22
パンダさんだけでなく、あすなろさんやガーディナーさん、他の方々がにわとりさん達にそういったように見えた理由も聞きたいです。
パンダさんへ
  • ガーディナー
  • MAIL
  • 2017/02/27 (Mon) 00:48:38
遅くなりましたが、お返事ありがとうございました。
パンダさんのコメントの中に、いろいろなキーワードがちりばめられています。その一つ一つからあまりにもたくさんのことを感じ過ぎて、それらを整理しようと思ったらとても長い時間が必要となりそうです。ゆっくり考えさせてください。思いついた時に、少しずつ、本当に少しずつですがお返事させて頂きます。

パンダさんが特に私に返事を求めていらっしゃるとは思っていません。私が何かよくわからない、衝動的な思いに駆られ書きたくなったのですが、残念ながら今はまだまとまらないのです。今日はその項目だけ、パンダさんのコメントを読み、私がどんな言葉に刺激を受けたのか、ということを並べてみます。

①純度・純粋・純朴について
②「考えを突き詰めて書くこと」VS「願望をのままに書くこと」
③一つ確認したいこと
④「議論」と「おとぎ話」
⑤拒絶されることの苦しみ
⑥職業としてのカウンセラー
⑦「隠れた悪意」を持つことの後ろめたさ

今、ざっと並べただけでこんなになってしまいました。どれだけ時間をかけても最後までいかないかも知れませんし、時間とともに、今の気持ちがおさまってしまうかも知れません。ときどき思い出したように書くことになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。まずは予告のみ。

あすなろさんへ
  • ガーディナー
  • MAIL
  • 2017/02/27 (Mon) 00:50:24
お返事ありがとうございました。

にわとりさんとあんなふうに関係が築けたあすなろさんが羨ましかったです。上に掲げた物語に登場するB氏は、言うまでもなくあすなろさんがモデルですが、本当は私がB氏になりたかった。私がにわとりさんと友達になりたかったです。

お気持ちの変化にそういう流れがあったということは、今までのあすなろさんの書かれていた文章から、大体の想像はしていました。
そうやって、今までの自分に無かった新しい感覚に目覚めていくということ自体、私には苦しみを伴う作業となるので、そんな短期間のうちに目まぐるしく変化を遂げるあすなろさんが眩しく感じる時もあります。でも、私がそれを真似しようと思えば、必ず無理が生じるので、私は相変わらず同じ位置からゆっくりゆっくりと自分を確かめ続けることになるでしょう。

でもやっぱりこれにはかないません。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
>それでもまだまだ、理解には程遠い、
>だから、すべて受け入れてみようと思っているのが、今の私です。

Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • パンダ
  • 2017/02/27 (Mon) 00:55:01
サロマさん

 誤解があるように思いますが,私がトマトさんをちゃんと代理できるわけはありませんから,そういうことをここでするつもりもありません。ただ,おそらくトマトさんの問題とも通じるような定型の抱える傷について,何人かのアスペの方たちがなかなか思い至らないらしいというところまではなんとなく感じ取っています。そして今まで私なりに説明の方法を考えてきたのですが,今のところうまく伝わる手段を思いつきません。「見えてこない」のはだから当然です。実際今のサロマさんにはほとんど伝わっていないことだけは確かなようですし,私はそれに対して現段階で前回書いた以上のことを書く力もありませんから。

 そのことをちゃんと私なりに説明できるようになるには,たぶんかなり時間が必要だと思っています。もちろん私一人の力では無理です。同じ問題意識をもって「お互いさま」を重視しながら相手を理解しようとするアスペの方がたくさん必要です。そういうことがほんとに可能なのかどうかも今の私にはなんともわかりません。いつかそういう状態になってほしいと願うだけです。

 現時点で私が言えるのはここまでですね。あとはサロマさんが定型アスペ関係をどうしたいと思うのか,どういう努力をしたいと思うのか,そのご自身の判断です。私がどうこう言える話ではありません。
「トマトさんの苦しみ」への思い
  • ガーディナー
  • MAIL
  • 2017/02/27 (Mon) 00:59:01
一番初めにパンダさんに確認したいことがあります。

2017/02/25 (Sat) 00:12:42 のコメントの中で、
>ガーディナーさんの純度の高い議論の中で
>十分光が当たっていない部分があるとすれば
>それはたとえばトマトさんの苦しみでしょうか。
>私はそこも含めての議論になっていかなければ,
>なにか大事なものが見失われてしまうような気がしています。
と仰ったことについて。

これはパンダさんが私に「トマトさんのことも併せて考えましょうよ」という様な誘い掛けをされたわけではないんですよね?私は、パンダさんがこのようにおっしゃったのは、「私自身にはこのような課題があるのですよ」ということを私に教えて下さったのだと思っています。私の物語を読まれたパンダさんが、①これをパンダさんの視点で捉え直した→②そうするとトマトさんの苦しみが見えてきた→③その両者を合わせて考えるというとても難しい課題が自分にはある、ということをパンダさんが話して下さった。そこには何ら私に対する強要はなかったのだと思っています。間違いないでしょうか?

今の私は、私の視点でしか物を語れていません。でも、例えばトマトさんの苦しみに思いを馳せるということが、私にとっても大切であると、少なくとも、私に無関係のことではないと思っています。その思いの馳せ方が、パンダさんと同等のものではないかも知れませんが、確かに私には私の、トマトさんへの思いがあります。今日はそれをここで整理したいと思います。
サロマさんの上のコメントでの私への問いかけの意味がちょっと理解できなかったのですが、もしかしたらこれが何かのお答えになるのかもしれません。


まず、私は初めから両方の立場に公平な視点を向ける物語を創ろうとは思っていませんでした。物語は物語です。「桃太郎」のお話に、鬼の言い分を聞く場面が無いのと同じようなものです。私がこの物語を書きたくなったのは、上にも述べましたが、あすなろさんとにわとりさんが最後に築けた(と私には見えた)信頼関係は何だったんだろうと考えた時に、もしかしたらこういうことだったのかな?という思いからでした。

私の想像はひたすらあすなろさんとにわとりさんの心の動きを追っていました。自分の生き方に誇りを取り戻すことになったバイブルの様な書物を「貸してくれないか」と言われたとき、A氏はどんなに嬉しかったことか。胸躍らせながら聞き入るB氏の高揚感。この二人のポジティブな波長が一致した時、何か新しい関係が築かれるのではないかという。
実は、私も高校2年生の時に出会った友人が、どういうわけか頭でっかちで偉そうな態度の私の独演を喜んで聞いてくれて、心が救われた経験を持っています。ことさら声高に主張しなくても、肯定的に聞き入ってくれる人の前では、穏やかに話すことができる、という経験は私の宝物になりました。

さて、そんなわけで、あすなろさんとにわとりさんの関係は羨ましいと思っていた私ですが、じゃあ、トマトさんとにわとりさんの関係はどうか?という問題です。小さい頃から、悔しい思いを重ねて育ってきた私です。思春期の頃は、親や教師や小児科医の、今にして思えばあまりにも独善的なお説教や威圧を日常的に受けて、悔しいという気持ちにすら気付かずにただ、従順に過ごしていたこともありました。だからにわとりさんの傷ついた心は、理屈抜きで私に迫ってくるものがありました。それに対してトマトさんの仰ったことについては、私はごくごく一部のコメントしか読んでいませんが、やっぱりどこか、私からは遠い場所にいらっしゃる方だな、という感は否めませんでした。

では私はどうか?にわとりさんと少しでもお話がしたかったと思い続けていたにもかかわらず、にわとりさんは私を寄せ付けては下さらなかった。でも、私はにわとりさんに対してそのことで怒りの感情を持ったり恨んだりという気持ちには一切なりませんでした。彼女に拒絶されるたびに、どこか自分では気づかない部分で欺瞞があり、それを鋭く見破られたような、ひどく自罰的な気分になったりしました。あすなろさんを受け入れて、私を受け入れて下さらないというにわとりさんの態度に、毎回納得してしまう私でした。そういう意味では、あの時の私の気持ちは、トマトさんの心境と近いものがあったのかもしれません(これはトマトさんに聞かなくては本当のところは分かりませんが)。

だから私はあすなろさんが羨ましかったのです。本当は私がにわとりさんと友達になりたかった。その悲しみは、もしかしたら、トマトさんと共有できるものかもしれません。でも、もし私が苦しみの真っただ中にいた時にここに来て、トマトさんと出会ったとしたら、おそらく気持ちの共有はできなかったと思います。自閉度の高低だけでなく、その時の状況により、私の心はトマトさんにもなり、にわとりさんにもなります。パンダさんの仰っていた「スペクトラム上の相対的な位置関係」と同じ様な話になりそうですね。

 というわけで、私はにわとりさん、トマトさんのどちらの立場にも成り得るわけです。だからトマトさんの苦しみに光を当てることも大切な作業だと間違いなく思っています。ただ、それをいつ誰がやるかということは、誰か他人の決めることではもちろんないし、それぞれがそれぞれの立ち位置で考えることだと思っています。

それに関してパンダさんは
>自分の苦しみを抱えながら,その加害者に見える相手の苦しみを理解する
>という作業は並大抵のことではありません。
>へたにそういうことをすれば精神を病むこともあり得ます。
>だから誰に対してもそれをすすめようとは思いません。
と仰っています。あくまでもご自分の課題として大切にされているわけですよね。

 だから私も私のペースで自分のこだわりを綴っていく。この掲示板では誰もがそれを許されています。ですから他の皆さんも、例えば自分とは違う考えの人が何かを提案したとしても、それがどの立ち位置から言っているのかということはあまり気にしないで、あくまでもご自分の立場で自由に思いを綴られれば良いのではないかと思います。



Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • パンダ
  • 2017/02/27 (Mon) 01:18:12
ガーディナーさん

 たぶんとても大きな問題なのだろうと私も感じているので,じっくりというのが一番正解だと思います。

 一点だけ,私が感じた純度というのはなんのことだろうかと考えていたのですが,一つ思いついたことがありました。ガーディナーさんがひたすら自分の納得いく形で,ただ自分の言葉にだけ頼って考えを誠実に述べられようとしている,そういう姿勢のことです。

 これは私の感覚なのですが,人の言葉で説明しようとしても,自分なりに完全に自分の言葉になっていると感じられるレベルまでこなされていないと,どうしてもなにか無理が入り,言葉が宙を舞って自分で自分の言葉に責任が持てない状態になる感じがして,私はできるだけ避けたいんですね。ほんとに自分が納得する自分の言葉で語りたい。もちろんそれが相手の方とも通じ合えるような形で,ということを考えてなのですが,そういう欲望を私は持ちます。

 そしてガーディナーさんの言葉には,そういうものを感じさせられるんですね。しかもその純度が私などよりすごく高い。あくまで私の印象ですが。

 ただ,このあたりはコミュニケーションのスタイルの個人的な好みとか,得手不得手の問題にも関係しそうな気がするので,一般に通用する基準だとか,それが理想なのだとまでいう気はありません。あいまいさをふくむコミュニケーションも,それはそれなりにきっと意味がありそうに思いますし。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • パンダ
  • 2017/02/27 (Mon) 01:31:46
ガーディナーさん

 お返事を書いたらまたその前にお返事が ('◇')ゞ

>そこには何ら私に対する強要はなかったのだと思っています。間違いないでしょうか?

 ここがちょっとピンときませんでした。私は私の感想を書いただけなので,それにどう反応するかしないかはあくまで相手の方(今はガーディナーさん)にゆだねられていると思っていましたので,なにかそれが強要と感じられる可能性があるのだとすれば,表現に工夫が必要かもしれませんね。ということで,間違いないです。

 書いたことが誰の課題か,ということについては別に私の課題だと限定するつもりはありません。それを課題だと感じた人の課題だと思いますし,感じない方には課題ではないということだろうと思います。ここでも「課題だと思いなさい」というようなことは別にいうつもりはありませんし,逆に言えば「課題だと思うべきことだ」とその方が感じたとしても,それはその方の感じ方の問題で私がどうこう言うことでもないと思います。もちろん,お互いにそういう姿勢でいる場合のことですが。

 ということで,なにかの理由でどうしてもすぐに答えてほしいことなどがあれば,そのように書くと思いますし,そうでなければ,どう反応するかはその方の自由ではないでしょうか。
ガーディナーさんへ
  • あすなろ
  • 2017/02/27 (Mon) 08:33:15
まさにB氏は、私を想定していたんですか。
それは分かりませんでした。

正直に言わせていただくと、ガーディナーさんのお話を最初に読んだ時、私はB氏は情けない人だと思いました。
B氏のような生き方はしたくないと思いました。
ガーディナーさんを責めているわけではありません。
ガーディナーさんにとって、私はそんな風に見えていたのか、ガーディナーさんからはB氏の行動も素晴らしいと思えるのかという新たな発見です。

もしかしたら、この感覚の違いが、パンダさんから見えた『トマトさんの苦しみに思い至っていない』という点なのかもしれません。

その部分を言葉でうまくは表わせないので、私の考えるにわとりさんとの関係をお話させていただきます。

まず、にわとりさんと私が良好な関係を築けたかについては、私には分かりません。ガーディナーさんからそう見えたのは、にわとりさんが私に『ありがとうございます』と声を掛けてくださることが何度かあったからかもしれません。
しかし、私にはそれが本当に感謝の言葉なのか、とりあえずの言葉なのかは、判断できなかったし、一部は、とりあえずこの部分に関しては……というお礼も含まれていたと感じています。
私の思いがにわとりさんに通じたというより、にわとりさん自身は変わらないけど、あなたの言いたいことも理解できないわけではないという線引きかな?と思っていました。

一部で理解し合えた部分については、例えば最初に、独善的な彼氏に悩まされていたにわとりさんの様子が、私が幼少期に母親の行動に悩まされていたことと重なる部分があり、それをにわとりさんはご自分のせいだと思い込んでいたので、私も同じだったなと感じたからです。
トマトさんや、定型側が、アスペの人に押し付ける(とアスペの方には見える)善意とは全く違い、何でも相手の落ち度を指摘して、それを自分が救ってやるのだという妄想に駆られた人。それでしか、自分の存在価値を証明できないという精神障害を負った人。いわゆるメサイアコンプレックスという人に捕まった時、被害者は持たなくて良い劣等感まで持たされることになり、自分の負の部分だけを見つめるようになってしまいます。
私はちょうどにわとりさんの書き込みを見る少し前にこのことに気付いたので、にわとりさんに、それは彼氏の方の問題だと何度もお話しました。
にわとりさんの方でもちょうど気付き始めていた頃だったので、ご自分の疑問に自信を持たれたのだと思います。
私が数十年気付かずに苦しんできたことが、少しでも役に立てたなら嬉しいし、にわとりさんのような例もあると知って、私も自信を付けました。

その後の共同幻想の話は、母がなぜメサコンになったのか、その時代背景がよく分かるお話でした。
ちょうどその頃、私は子どものPTAの活動で吊るし上げに会い、あまりにも理不尽なことに腹を立てていたのですが、にわとりさんが、それも共同幻想という視点で見れば当然のこととなる、とおっしゃっていて、納得でき、気持ちも収まったということがありました。
同時に、にわとりさんは、こうした理不尽な吊るし上げに会ってきたのだと実感できたわけです。

ガーディナーさんの例えが、私とにわとりさんだとすれば、どちらもA氏であり、B氏である。
それは相手に興味があったのではなく、自分の身に降りかかる出来事に新たな視点を与えてくれたのがお互いの存在であって、それ以上近づきたいとも、それ以上離れたいとも思わない。
話の中で、リアルでの出来事を解決できるヒントを見つけられる関係だったのだと思います。
にわとりさんがどう思われていたかは分かりませんが、少なくとも私はにわとりさんの経験談や主張の中から教わったことがたくさんあり、実際に今現在もリアルで活かしています。
Re: ガーディナーさんへ
  • あすなろ
  • 2017/02/27 (Mon) 09:36:56
補足……

思い出しました。
kagewariさんのブログの解釈の仕方も、にわとりさんと私ではまるで見方が違うことが多々ありました。
私からは、そんな風に解釈すると、にわとりさんが辛いだけでは?と思えるようなことがありました。
けれど、最終的に、それで一般的に何か事を起こそうとするわけではなく、自分自身の問題に何を当てはめていくか、ということなので、深く詮索したり、こちらの主張を押し付けるのはやめました。

私はにわとりさんの提示されたものを、自分の都合の良いように解釈して納得しているだけですが、それは私の問題解決になっているので、何も悪いことではないということです。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • さとこ
  • 2017/04/02 (Sun) 17:04:15
パンダさんはなぜにわとりさんの気持ちに立つ人に対して断罪的なのでしょうか?


トマトさんの気持ちやにわとりさんが人でなしだと言った支援者の方たちの言い分や善意などを受け入れるべきだとかいうのは、「アスペに対して無理解で、非難している人をを受け入れるように」強制されているだけです。


定型の方だから定型のどんな言い分も受け入れるべきだとおっしゃる気持ちも分からなくはないですけどね。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2017/04/02 (Sun) 21:14:18
さとこさん

 さとこさんと同じような「誤解は」ずっと一部のあすぺのかたから繰り返され続けていて、それに対してどんなに具体的に根拠を示して誤解だと説明しても、それが全く理解されない現状なので、そもそもちゃんと私の説明を読まれていないのか、読んでも伝わらないのかわからないのですが、説明のしようが思いつき来ませんので、ここではたんに誤解ですとだけお答えしておきます。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • サロマ
  • 2017/06/10 (Sat) 20:39:13
パンダさん

今さらですが、正直なところパンダさんは私の質問からはするりと抜けて交わされてる気分にしかなりません。

ガーディナーさんのストーリーに対してトマトさんの苦しみに焦点を当てられていないことを仰っていますが、トマトさんがアスペからの対応で抱いている苦しみ、パンダさんが抱いている苦しみが何も説明されていないわけです。
説明したと仰っていますが、私達に分かるような説明がなく、「言っても伝わらないと思う」と言われて逃げられてる感じです。

にわとりさんが無関係な人に対しても傷つけた発言をしたことが許しがたいとのお話でしたが、にわとりさんに無理解な発言をなさった方やにわとりさんのことをあることないこと言った方を叱ることはなかったですね。
障害を言い訳にしてるなどの言葉に反論したにわとりさんだけを問題として取り上げてることに疑問を持っても、そこに対してはにわとりさんがわるいとか私達が誤解してるの一点ばりにしか感じません。

トマトさんのことについてはトマトさんの気持ちにもなってほしいと仰っているわりには、にわとりさんにはとことん断罪的になることへの疑問は残ったままです。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • サロマ
  • 2017/06/10 (Sat) 21:43:45
トマトさんがよく事例AS友人のお話をなさっていたり、アスペとの関係に悩んで占いに頼ったなどのお話はありますが、ASのどういった態度について悩んでいたのかが書いていないので分かりにくいです。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • サロマ
  • 2017/06/10 (Sat) 21:52:54
ちょっと感情的になりすぎましたかね。

blogの「なやみどころ」のいう記事にコメントしますね。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • ぱんだ
  • 2017/06/11 (Sun) 09:05:06
サロマさん

 繰り返しお話していて、なかなか伝わりにくいところの様ですが、私はアスペの方を理解しようと努力をします。けれどもアスペではありません。したがってわからないところが常に巨大に残ります。私にできるのは「定型として理解の努力をすること」だけです。

>トマトさんのことについてはトマトさんの気持ちにもなってほしいと仰っているわりには、にわとりさんにはとことん断罪的になることへの疑問は残ったままです。

 定型アスペ問題を解決するためには、定型はアスペを理解する努力をしなければならない。アスペは定型を理解する努力をしなければならない。自分の観点だけで相手を断罪するようなことは控えなければならない。これが私の原則です。

 トマトさんの「定型的な努力」は私にもわかりますが、逆にアスペの方から見ればおかしいと感じられるところがあるだろうなとも思いました。ただ、それはすでに繰り返しアスペの方の何人かから指摘されていましたが、トマトさんの努力の部分が全否定されるような論調を感じましたので、トマトさんについても理解が必要ではないかという「定型的なスタンス」で書いているだけのことです。これもしつこく書いているように、私がトマトさんを全部肯定しているわけではなく、ただ、トマトさんの立場に立てばそういう表現をしたくなる気持ちも想像できる、というだけのことです。

 断固とした態度についてはその理由はブログの方の応答に書きました。
Re: なぜ私は悩みを語るのか?
  • サロマ
  • 2017/06/11 (Sun) 21:02:10
後に書かせて頂きます。


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