Kagewari精神分析 読書ノート
  • Katz
  • 2015/10/13 (Tue) 00:45:06
にわとりさんに紹介いただいた精神分析のサイトについて、読んで考えた事などを書き込みます。
Kagewari精神分析相談所 http://kagewari.cside.com/kage01.htm
難解な文章なので、私自身のメモ書きも兼ねてます。従って、このサイト主さんの意見の代弁にはならないかも知れません。私の主観的意見もだいぶ混ざると思います。
以上を踏まえて、皆さんもどうぞご自由に御参加ください。あんまり堅苦しくないようにしましょう。
Re: Kagewari精神分析 読書ノート
  • あすなろ
  • 2015/10/16 (Fri) 09:59:34
>にわとりさん

ブログのリンク、削除されたのですか?
非常に重要なことを掴みかけていたのに、残念です。

一旦、公開されたものを削除しないでください。
規定にもありますよね?

できればもう一度戻していただきたいと思います。



読み返しながら続きを書こうと思っていたのですが、記憶の中でしかないので、私の独断ということになります。

Bの相談内容は、暴力的な父親と、それを受ける母親に育てられた方の事例でした。自分も父親によって暴力的に支配され、母親はその鬱憤を晴らすかのように自分を否定し、辛く当たった。自分は家から独立し、海外で就職して家を離れたことで平穏を得られた。しかし、妹は、そんな両親から否定されることなく、親の望む高学歴を積み、両親から受け入れられているように見えたのに、大人になってメンタル問題が噴出し、自傷を繰り返すようになってしまった。妹を救いたいというような内容でした。

相談者は、父親は外面的(世間的)には立派な人であって、常識人であり、母親こそ、『自分は馬鹿だから』と言ってしまうような非常識な人としています。なので、父親は尊敬に値するが、母親の無知が自分を苦しめたと思っています。

ここで、kagewariさんは、そもそもその『父親』が、人格の確立されていない、暴力によって自分を認めさせることでしか人間関係を保てない、非常識な人間としています。
逆に母親は、父親の問題には気付いているが、常識としてはそんな父親であっても、家庭を崩壊させないことが子育てに必要なことと考える『世間の常識』をよく理解している『常識人』だとしています。

そもそもの問題は、この両親の結婚の『動機』であって、この夫婦は本来なら夫婦になるべき相性ではなかった。それをどう処理していくのかというところだと(たぶん、そんな感じだったと)いうところでしょうか。

この『動機』の取り違いは、おそらく今の社会の大きな問題の根底になっているのではと、私はこれらを読んで感じました。

Aの相談者は、『動機』はちゃんと自分にあったと断言していますが、よくよく読んでみれば、かなり共同幻想に傾倒して出した結論に近いのでは?と思います。
kagewariさんは、仕事、さらには経済活動そのもの自体、幻想の部分が大きく、例えばお坊さんは(職業蔑視では決してありませんが)本来自分自身の追究であるべき思想を一般の救済にも使いその心付けを受け取ることで生活している。消費者の利益になるかどうかは、消費者自身の幻想部分にあるわけで……。本来なら経済活動として成り立たないものを成り立たせている部分がある。
さらには政治家など、その最たるもので、国民の利になっているかなっていないかなど、裁断される以前に、自動的に税金から高額な所得を得ている。これこそ、『幻想』ではないか
(すみません。kagewariさんの考えより、自分の考えの方が前面に出ているかも?です)

そういった幻想だらけの世界の中で、『自分』を当てはめようとすれば、必ず不具合が出てくるもので、選択肢の幅は極端に狭くなってしまう。その中で適職を選ぼうとしても無理があるということです。
共同幻想を無視することはできないけれど、幻想は幻想と割り切って、本来自分に大切なものを見つめて選んだのであれば、幻想から抜け出せない他人が何を言おうとも「ああ、幻想に縛られてしまっている人たちはこう考えるのか、それなら少し幻想に近い方向で動いてみようか」というスタンスになる。

しかし、そもそも共同幻想で作られた『自分』が選んだものとなると、幻想の中で自分を確立しようと思ったのに頑張っても常に頭打ちに合う(これは当然のこと。各個人の幻想に過ぎないので、合致するはずがない)。だから幻想社会では生き残れないというスタンスになる。(当然)

その違いではないかなと思うのです。
これが『動機』が本来の自分にあるか、幻想に惑わされている自分にあるかの違いではないでしょうか?

それと同じようにBの相談者の両親も、まさに『幻想』に惑わされて一緒になったカップルであり、夫婦関係の持ち方も『幻想』に捉われている部分が大きい。一昔前は、この『共同幻想』の外に本来の自分があるという考え方ではなかったので、高齢に差し掛かったこの両親は『幻想のまま』関係を続けていくのであって、それはそれで『幸せ』である。

しかし、その子どもに大きな影響が出てしまったのは、子ども世代がこの共同幻想が崩壊を迎える時期に生まれ育っているので、幻想に振り回される両親の問題と、『個人の確立』の狭間になってしまったのではないか。
さらに『幻想』を死守したい人たちは、家庭内のことを口外しないということで自分たちを守ろうとするので、問題が明るみに出にくく、第三者の目線で他との相違を指摘されることがない。絶対的な幻想になってしまう。

この相談者が妹を救うのは、そういう家庭内の問題のカラクリを、同じ体験をしたものとして妹に話していくということでしか道がない。相談者本人も、まだ幻想に捉われているところが多く、そこから抜け出さなくてはならない。

そんなことを(私の解釈では)おっしゃっていたように思います。


この『動機』というものは、ちょうど私が『どうして夫と結婚したのか』ということを考えている最中で、タイムリーでした。
本当にこの書き込みを見るのとほとんど同じタイミングで気付いたのですが、私が夫を選んだ動機にかなり『幻想』に惑わされた『自分』が選んだ部分が大きかったのです。

私は幼いころから『共同幻想』から外れものになることが多く、親が何とか『共同幻想』に沿わせようと必死になり、それでも零れ落ちた私を見捨てるという経験をしたことはすでに書いてきましたが、その反動で、共同幻想社会の中で理想的な位置に居る人に強く憧れるようになったように思います。

表面的には、いわゆるイケメンだとか、社会的地位の高い人、あるいは確固たる『自分』があって周囲が従うような人。しかし、一方で共同幻想に敗れた自分がそういう人たちに近づくことは決してない。という諦めもある。
そうすると対等の立場でお互いを思い合うという恋愛はイメージできなくなります。ファンがアイドルに憧れるような幻想しか、自分の中にイメージできないし、万が一アイドルとファンが結婚したとしたら正体がバレて悲惨なことになると思っていたかもしれません。

理想ばかりが高いと、その対極に居る自分を卑下していきます。
しかし、そんな『卑しい』自分も、適齢期で恋愛を経験してみたい。すると『卑しい』自分と同じ雰囲気を醸している人を探さなくてはいけない。
もちろん、相手の人格が『卑しい』のではなくて、『卑しい』部分に魅力を感じて近づくということが起こる。私は夫の『卑しい』部分に魅力を感じたのではないかと気付いたのです。
どうやら、同じ傾向を感じる夫側も、そうだったのかもしれません。
私にも彼にも、実は『憧れ』の存在がいたので、かなり真実に近いと感じます。

ただ、間違いだったかといえば、均衡を保ってこられたのは、実は似た意識があったからということもいえます。本当にアイドルとファンではうまくいかなかったということが起こっていたかもしれません。

成育歴の中で植え付けられた共同幻想があまりにも強く、自分自身が見えなくなる。共同幻想から外れることを極端に恐れながらも、共同幻想の中で自己実現できて(いるように見える)存在に強く憧れる。少しでもそれに近く見えるように取り繕いたい。

『動機』は本来の自分のものではなく、その幻想に近づきたいと強く思うところから生まれる。

これは、恋愛対象だけでなく、仕事にも言えることです。
その幻想だけでうまくいっている人もたくさん居ます。しかし、それは砂の城であって、どんな波が来ても崩れないものもあれば、呆気なく崩れてしまうものもある。そういった不安定な状況で建っているに過ぎず、その城で悠々と暮らしている人もいれば、あの人の城は何故崩れないんだろうと、崩れてしまった自分の城の前で地団太を踏んでいる人もいる。
崩したくなければ、波打ち際に作らなければいいのにね、ってことなんですけどね。

なんて、すごい飛躍した解釈をしてみました。



RSS表示パーツ

返信フォーム






プレビュー (投稿前に内容を確認)
パスワードを入力すると、後で記事を修正できます。